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  • アメリカ合衆国の宝飾ガラスデザイナー ルイス・カムフォート・ティファニーの歴史
 

ルイス・カムフォート・ティファニー

 

1920年代のルイスコンフォートティファニー本人
ルイス・カムフォート・ティファニー1920年代
ブランク&ストーラー撮
ベンジャミン・ホスキング贈


ルイス・カムフォート・ティファニーは、19世紀後半において最も創作的かつ多作なデザイナーの一人であり、”美の追求”を自らのゴールとしたガラスの工芸家です。

中でも、モーゼ美術館での彼の作品集はその追及を示すものとなっています。

彼の父、チャールズ・ルイス、は名声のあるシルバーや宝飾会社をアメリカで手掛けたのに対し、ルイスは別の職への道を選んだのです。
 
もともと塗装工ながら、24歳の時にガラス加工における科学と技術を学び始めました。

彼の興味はLouis C. Tiffany(現: Tiffany)を興すまでとなり、文芸家マーク・トウェインや当時の大統領チェスター・A・アーサーなどをクライアントにし、革新的な内装デザインを提供しました。

 

新たなガラス加工法

1885年ティファニーは装飾依頼を請け負いながらも、自身の会社を創設します。

彼は新たなガラス製造法に重きを置いていました。

その4年前ティファニーはオパール色ガラスの特許を取得しました。

それらは数色を組み合わせ、操作することでこれまでなかった発色色彩や、三次元効果を作り出す革新的な製造方法でした。

ガラスに塗装加工をするのではなく、それ自体に物質定義をさせているということから、彼の新たな物質は固有の物質の双方性に迫るものだと彼は信じました。

しかしオパール色ガラスは、ゴシック芸術の伝統(古くからあるエナメルを用い均一発色を実現したステンドグラス)を謳った学芸団によって、固く否定されてしまいます。

19世紀後半の人々の熱烈な好みは、オパール色ガラス“奈落からの救出“画で有名なボストンのガラス職人、チャールズ・コニックの装飾に見ることができます。


コニックのように、中紀のガラス工芸の流行をなぞった者たちは、ティファニーやジョン・ラファージ(ティファニーと同時期にオパール色ガラスを追及しティファニーと競合した)を否定します。
 
両者は、彼ら自身こそがアートと工芸の哲学の理想に迫っており、誠実であると信じていました。

デザインの統一をゴールとすることも同じくらい大切だと考えていました。


ティファニーの、最初の完璧な内装づくりにおいてはっきりとしていたのは、ステンドグラスのデザインと製造の先の探求への約束でした。

ガラス片一つ一つを一緒にまとめあげる必要性は、例えば植物の茎のように、束ねられた要素になっていた。

ティファニーはステンドグラスの製造には、アーティスト自身がスケッチ作成から、ガラスがどう選ばれ裁断され、組み立てられるまでのすべてのステップに関与することが、重要だと考えていたのです。
 
ルイスコンフォートティファニー ラッパズイセン窓画 1919年作
ウィンドウ c. 1919年
ラッパズイセン
鉛ガラス
ニューヨーク市ティファニースタジオ1902−32年

自然からのインスパイア

ティファニーの美学は、自然こそが主なデザインのインスピレーションの源であるべきだと考えました。

色に酔った彼は、花や植物に見られる青々としたパレットをガラスに訳しました。

この自然の魅力と才能の拡大は技術の探求へとつながり、1893年にティファニーが”ファブリル”と銘打ち広めた花瓶と器などの吹きガラスに現れました。

彼が宣言したその名前は古英語の“手作り“が由来とされています。

ファブリルガラスは、表面の発光した虹色の美しさからすぐに世界的名声を得ました。
 
ルイスコンフォートティファニー 吹きガラス製法で作られた花瓶 1900年作
花瓶, c. 1900年
吹きガラス
ニューヨーク市ティファニースタジオ1902−32年

世界的評価

ティファニーは、世界で名声を得た最初のアメリカ人デザイナーです。

四季彩で有名なステンドグラスと共に、ファブリルグラスは世界のフェアで観られ、サミュエル・ビンのアール・ヌーヴォー展などで販売されました。

また、世紀の変わり目で最も革新的なデザインを率いた役割を担いました。
 
アメリカで、ティファニーはステンドグラスとモザイクグラスを特別な思いで手掛け続けました。

それらの多くは教会がほとんどでした。

伝統的で宗教的な寓意なものに反し、ティファニーは作品に彼自身の好みの風景デザインを多く盛り込みました。


また、商業的な活動にも火が付き、電灯ランプ、机上セット、シャンデリアなどを手掛ける金属加工事業を立ち上げます。

それらは自身のニューヨークのショールームやカタログを通じて高く売られました。

パーソナルな表現はより続きます。
1898年ティファニーはエナメルを試用し、1900年に陶器に、1904年にジュエリーデザインに加えます。
 
ガラスがティファニーの作品の大部分だった傍ら、家具やタイル、壁紙などのインテリアの全てを自らデザイン、組み立て販売を手がけました。

統一した芸術表現へ“欲”は最高潮になり、彼自身がすべてを手掛けた家兼画集展に見られました。

ロングアイランドコールドスプリングハーバーに位置するローレルトンホールは1904年に完成しました。

モーゼ美術館はティファニーが手掛けた家具、ステンドグラス、モザイクアート、建築材料などの傑作たちの宝庫となっています。
 

異彩

ティファニーの作品には、芸術と工芸の流行や理想の先を追求する努力が見られます。

イギリスの主唱者ウィリアム・モリスは“皆が価値を共感できない限り、何をアートから感受できるのか?”と説きました。

多くの場合高い基準や個人表現が見られ、手ごろな価格帯の芸術作品を生産できませんでした。

しかし、ティファニーは芸術産業の創設に成功します。

理由の一つに、他の競合社ができなかった、芸術的功績進歩のために事業利益を犠牲にしたことにあります。

さらには、並外れた商品範囲を提供し、どんな客層も彼の美に触れることができることができました。
 
モーゼ美術館の訪問者は、1900年ティファニーが特別に手掛けた或いは彼自身のために手掛けた高価な電灯ランプから、ユニークな窓画たちがどれだけ異彩であったかを見ることができます。
 
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