なぜ磁器焼成の技術はマイセンから漏れたのか
動画でヨーロッパの磁器焼成の歴史をご覧になる方はこちらから↓
なぜウィーン窯(アウガルテン)がヨーロッパで2番目に磁器焼成に成功したのか?
ヨーロッパで1番早く磁器焼成に成功したのは、マイセンですが2番目に成功させることが出来たのはウィーン窯です。
(ウィーン窯は今で言うアウガルテンですね。)
マイセンが1710年、ウィーン窯が1719年と当時としては早すぎる二番煎じが誕生してるのです。
しかし、歴史をしっかり見ていくとドラマ『半沢直樹』のような人の裏切りによって、ウィーン窯が急激に力をつけたという背景がわかってくるんですね。
この記事を最後までご覧頂くことで、磁器の歴史を作ってきたのはマイセンのベドガーやヘロルトだけじゃないんだ・・・・
こうやって、磁器焼成のレシピがヨーロッパ中を駆け巡っていったのか!
というのを理解して頂けると思いますので、是非とも最後までお付き合いください。
簡単なヨーロッパの磁器焼成の歴史
磁器の歴史を遡れば、まず中国で磁器焼成が成功しそれが朝鮮、そして日本に渡ってアジアは世界と比べると、最も早く磁器焼成に成功していました。
ではヨーロッパはどうなっていたかと言いますと、まだまだ磁器焼成の成功はなく1710年に初めて、マイセンが成功させることになります。
それを実現させたのは、今のドイツになる予定のご先祖様的な国である、プロイセンの王様『選帝侯フリードリヒ・アウグストI世』と錬金術師『ベトガー』という人物でした。
アウグストは、国に一大産業を作ることが1つの目的でしたが、それ以上に日本や中国から来る非常に美しい磁器に惚れ込み、まさに自分のために良いものを作ることが大きな理由でした。
よって、錬金術師と呼ばれるベドガーが連れてこられこのベドガーによって磁器焼成が成功したのです。
このようにして、マイセンはヨーロッパで初めて磁器焼成に成功したのですが、そもそもこれは秘伝中の秘伝であり、陸地でつながる他国には絶対に漏洩させることは出来ません。
自分たちだけで独占できれば、ヨーロッパ市場の磁器流通は全て独占できますし、大きく稼ぐことが出来るからです。
そんな絶対に漏洩させることが出来ないレシピなので、ベドガーはどうなるかというと、お城からも出してもらえず常に同じ人と何年も働きずめの毎日を過ごしていました。
そんな変化のない日常に嫌気がさし、とうとう鬱状態になって行きます。
そして、そんなベドガーはアルコール中毒に陥り1717年に、亡くなってしまうのでした。
ここまでが、簡単なヨーロッパ磁器焼成の歴史であり、マイセンの初期の歴史になります。
もっと詳しく知りたい方は、こちらの動画で詳しく解説しておりますので興味のある方はご覧ください↓
歴史に出てこないベドガーの部下
ベトガーは生前、 製磁の秘法と釉薬の構成成分の秘密を、『ネーミッツ』と『バルテルミ』というそれぞれ別の製磁補佐役に分散して教えていました。
先ほども説明した、何年も同じ空間で作業していた仲間のことです。
もちろんこれは安全レバーのようなもので、磁器を完成させるレシピを1人に伝えないことでそこから漏れても、片方が出来ないのであれば磁器の焼成に成功しないからです。
要するに、製磁の技術と釉薬の技術の2つがあって、やっと1つの磁器が完成するんですね。
しかし、彼らの他にあと1人、重要な人物がいます。
陶工ザミュエル・シュテルツェルという人物です。
彼も、ヨーロッパで初めて磁器焼成を成功を夢見るメンバーだったのですが、ベドガーから信頼されてなかったのか分かりませんが、製磁の技術も、釉薬の技術も教わらなかったんですねぇ。
ベドガーは、磁器の配合割合や焼成などの技術は持っていても、絵付けなどの美術の才能は持ち合わせていませんでした。
しかし、アウグストはそういったことに耳を貸さず、ベドガーにひたすら絵付けをやらせて失敗を繰り返し2人の関係は壊滅的だったんですね。
そういったこともあって、ベドガーはアル中になっていましたし、それらを感じた周りが新しく絵付け師であるフンガーが加わることになります。
分かりやすくいうと、ベドガーは磁器の土台の部分は作り上げたけども、その先にある絵付けまでは出来ておらず真っ白の何の絵付けもない器を作った人なんですね。
しかし、それではアウグストは喜ばなかったわけですよ。
そして、先ほども説明した通りベドガーは1717年に亡くなってしまいます。
このようなマイセンの厳しい秘密管理や、低賃金などへの不満から1717年に絵付け・金彩師クリストフ・コンラート・フンガーが、既に開設されていたウィーン窯へと去りました。
マイセン窯に入ってきたのは、おそらく1714年頃なので早期退社ですよね。
ウィーン窯へ情報が漏れる
その後、すぐに陶工ザミュエル・シュテルツェルがマイセンを抜け、ウィーン窯のオーナーである、クラウディウス・デュ・パキエに招かれて製磁法を伝えたため、1719年、ベトガー没と同年に ウィーン窯で磁器焼成が成功したのです。
ですが、ここで問題となってくるのがベドガーから製磁のことも教えて貰えず、釉薬のことを教えて貰ってないシュテルツェルが、パキエから招かれたという点です。
おそらく、シュテルツェルは『ネーミッツ』と『バルテルミ』から何も知らないふりをして、秘伝のレシピを聞いてたのではないかと思います。
そのことによって、秘密のレシピを守るために分散していて教えていたレシピが、1人の人物に継承され、それが漏洩に繋がったのでしょう。
そして、シュテルツェル & フンガー体制でウィーン窯が大きく前進することになったのです。
ここまでが、ウィーン窯がヨーロッパで2番目に磁器焼成を成功させた裏歴史になります。
フンガーは、上絵付け担当だったためそこまで大きな影響を与えていませんが、シュテルツェルがウィーン窯を作ったといっても過言ではありませんよね。
ウィーン窯の歴史はこちらの動画で詳しく解説しておりますので、興味のある方はこちらの動画もご覧ください↓
磁器焼成の技法がヨーロッパ各地へ
しかし、話はここでは終わりません。
その後、ウィーン窯を出発点として、フンガーがイタリア、スウェーデン、デンマーク、ロシアへ移動しそれらの国に秘伝のレシピを公開していったのです。
不思議なことに、この中にフランスとイギリスが入ってなのですが、イギリスは島国でありそういったのは遅くなる傾向にあったのは分かります。
フランスはというと、そのころはガラス産業が発達していたために、磁器焼成の成功はそこまで緊急の課題ではなく、情報感度が低かったためにフランスにそういったレシピが入ってこなかったのだと考えています。
(まぁフンガーが何かしらの理由で、フランスが嫌いだっただけかもしれませんが)
このような歴史背景があり、セーブルを代表するフランスは軟質磁器がスタートであり、イギリスはボーンチャイナという独自の焼成技術が確立されていくこととなったのです。
それぞれの性質の違いは、こちらの動画で詳しく解説しおりますので興味のある方はこちらからご覧ください↓
まとめ
最後にまとめなのですが、この時代の磁器焼成を行う作業者というのは、とても過酷な環境で仕事をさせられていたと思います。
そう言った中で、出来るだけ簡単に富を得る方法というのは、そう言ったレシピを喉から欲しい工房に対してお金を払ってもらうことだったのでしょう。
『シュテルツェル』や『フンガー』はおそらく最初は真面目な作業員だったのでしょうが、途中からブラック企業に嫌気がさしてレシピを売るという方向に進んだのだと思います。
2人の行動が良い悪いは別として、そうせざるを得ない状況だったのかとしれませんね。
補足で伝えておきますが、シュテルツェルは一度マイセンから抜けますが天才絵付け師『ヘロルト』を連れてマイセンに帰ってくるので、マイセンに対して罪悪感があったのかもしれませんね。