ベネチアングラス ネックレス・アクセサリー

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      弊社が取り扱うイタリア製 ベネチアングラスのネックレスについて

      イタリア製 ベネチアングラス(ヴェネチア、ムラノガラス)のアクセサリー(ペンダント、ネックレス)を販売している専門店です。

      ご覧いただければ分かると思いますがベネチアングラスのアクセサリーの特徴は主張しすぎないデザインにも関わらず存在感が感じられるという所にあります。

      シンプルでありながらもどこか美しさを感じる事が出来るベネチアングラスのアクセサリーの秘密はどこにあるのでしょうか?

      それはこのアクセサリーを作る素材なんですね。
      素材は鉛を含まないソーダ石灰を使用する事でガラスの素材自体に濁りがなくガラス本来の透明性、質感、触感、上品さ、美しさを表現出来ているのです。

      そういった洗練されたネックレスやアクセサリーを胸元や目に入るところに身につけていればより印象的に演出することが出来ます。

      ただし、素材がいくら良くてもそれを扱う人が2流や3流の人が扱ってもその魅力や美しさを最大限に引き出すことは出来ません。

      ですが、私のショップで販売しているベネチアングラスのネックレスやアクセサリーはムラーノ島の職人が全て手作りで製作してるハンドメイドの作品です。

      それらは証明書という形で保証させて頂いております。

      この様に素材から厳選して作られているベネチアングラスですのでそれにイタリアの洗練されたデザインや職人の技が加わる事で主張しすぎない大人の女性の魅力を引き出してくれる素晴らしいアクセサリーが作られているのですね。

      もし、どのネックレスが自分に合うのか迷った時は私は迷わずマルチカラーかミルフィオリビーズを使ったネックレスをお勧めします。

      ベネチアングラスらしいカラフルなデザインのネックレスはどんな女性にも 相性が良く日常のどんなシーンにも最適にあなたをエレガントなスタイルに導いてくれるはずです。

      また、私のショップが業界で1番なのは品質が良くお届けしたお客様の皆様に喜んで頂いているからです。

      ここで注意して頂きたいのが他店で販売してある安価品とは比較しないようにご注意ください。

      安価品の偽物のベネチアングラスの品質と弊社が扱うイタリア製のベネチアングラスには耐久性、高級感、安心感は別物です。
      なので、弊社でご購入頂くお客様は皆様値段よりも品質と信頼性を重視して本当に良いものだけを厳選されるお客様です。


      弊社でも本当の価値の分かるお客様に手にとって頂き嬉しく思っております。

      弊社で購入されたお客様の口コミ

      口コミ1 アパレル店員のワンパターンコーデはベネチアングラスでお洒落さUP

      アパレル関係の仕事をしているので、当たり前の話なのですが、ショップ店員は「制服=私服」です。
      だから、服も自分のショップのメーカーブランド品なんですよね。
      「私が着ている服がこちらの商品ですよ。」と堂々と素敵に着こなして見せないといけない立場にいるんです。

      でも正直なところ同一ブランドって似たようなパターンが多いのが悩みどころ。
      いっそ全員制服にしてくれ~と思うことも。
      同じようなデザイン模様でパターン変えるのって本当に大変なんです。


      そこで私たちは身に着けるアクセサリーで差をつけたり、印象を変えワンパターンを無くすことになるわけです。 安っぽいアクセサリーもファッションのお手本となる店員が身に着けるのはプライドが許せないし、かといってあまり高価なアクセサリーは数点も買えませんよね。

      それでいて更にオリジナリティーのあるいいアクセサリーがないかと考えていたら、
      偶然にも母親がイタリア旅行のお土産でベネチアングラスのネックレスをもらったと自慢げに見せてきたんです。
      そのネックレスも素敵だったんですが、お土産の箱の中にカタログが入っていて、 ベネチアングラスのネックレスの製法や作品が数点紹介がされていたんです。
      色彩豊かでシンプルなタイプから煌びやかな大ぶりの品までベネチアングラスってバリェーションがたくさんある!と思い ネットでベネチアングラスのネックレスを販売しているサイトを探したんです。
      そして、このショップを見つけたんです。

      ショップ店員でありながらお恥ずかしいのですが、ベネチアングラスに関してあまり詳しく知らなくて、値段も手ごろだし、手作りでムラノ?って日本人がデザインして作った品と(本当に無知ですいません・・・。このムラノが付くだけで正真正銘のベネチアングラスだと届いた商品の説明をみて初めて知りました。店長さんごめんなさい。母のベネチアングラスのネックレスには「ムラノ」ってなかったんです)
      いうことで一目で気に入ったネックレスがあったので購入しました。

      実際の商品がこのネックレスです。



      初めての購入だったので、実際どんな品が届くのかとドキドキ。

      届いた商品は画像ではちょっとわかりずらいのですが、胸元まで垂れるグラスには独特なグラデーションの模様が入っていてライトや自然光に当たるとすごく綺麗なんです。
      チェーンの部分もベネチアングラスで連なり とても個性的で品のいいよい商品だと一目でわかり気に入りました。
      薄手のニットやブラウスの上にこのネックレスをつけるだけで、洋服全体のイメージが変わります。
      同僚にはどこのブランド品つけてるの?言われましたが、
      ベネチアングラスだよ。と答えるとベネチアングラスならここのお店でつけても問題ないよね~。
      私も欲しいなぁ。と言っていましたね。
      寒い季節になりジャケットを着てもこのネックレス目立つので本当に購入してよかったです。
      商品を手にしてからイタリアのベネチアングラスはムラノ島でつくられた最高級品と知り私はいい商品と出会えました。

      口コミ2 朝の顔女子アナのアクセサリーベネチアングラスと推測

      私は朝起きてテレビをつけ某テレビ局の情報番組をながら見して身支度をするのが出勤前のルーティーンです。
      まあ、女子アナや女性MCが今日はどんな恰好で出演してるのか見て自分の洋服を決めるっていうのが最大の目的です。
      これ見ると天気なんて関係ないですね。一般OLの私からすると、そのお洒落なファッションスタイルはもろに影響を受けています。
      だから、洋服のコーデや髪型なんかもよく参考にしています。
      そして、そのコーデってタートルネックにスカート、ブラウスにパンツ特にデザインが凝ったものではないんですよね。誰でも簡単に真似コーデできちゃうんです。

      で、発見したのがビーズが大きいネックレスをつけていた○○アナ。
      いつものコーデでさりげなくつけてるカラフルなネックレス。
      すごい可愛いし華やかじゃん。私もこういうのつけたら、いつもと雰囲気変わるかも!是非参考にしようと探しました。
      で見つけましたよ多分同じやつ。その商品はこれです(多分)違っても後悔無し!



      この、ベネチアンガラスのネックレスは無地のオールカラーのタートルネックだったら何色を着ても上からつけるとすごく合うんですよね。そしてお洒落なんです。

      色々なカラーと相性がよくで流行色や暖色系寒色系でも問題なくつけれます。
      去年のタートルに合わせてつけたら、そのニット買ったの?可愛いね~なんて友人に言われましたからね。
      「違うよ去年も散々着ていたじゃん。去年はそんなこと一度も言われたことなかったのに。」
      ベネチアンガラスのネックレスを外して見せると、友人が笑って「マジだ!着てた、着てた!いつものやつじゃん。」とただただ感心していたのがこのベネチアンガラスのネックレスのこと。
      「このアクセサリー一つで大分ファッションのイメージが変わるんだね~」と。

      鏡の前でつけてる姿、つけてない姿を確認しましたが確かにそのとおりなんです。ということで私は女子アナのコーデ+ベネチアンガラスのトータルコーデを楽しんでいます。
      このショップは種類もデザインも豊富なんでよくチェックしています。
      ベネチアンガラスは高級なイメージがあったのですが、価格もそこまで高くないし、品がいいのでコレクションとしてもう少し増やしていきたいです。

      口コミ3 アクセサリーは大人になったらベネチアングラスへ

      ビーズ、ビー玉アクセサリーは女性だったら1度は子供の頃にハマったことがあるのではないでしょうか?
      私は小さいころそのキラキラしたビーズやビー玉を集めるのが大好きでした。
      大人になっても買い物に出かけてもビーズアクセサリーがケース越しに飾ってあると立ち止まって見入ってしまうほど。

      そこで、厄介なのが店員さんの「何かお探しですか?」攻撃です。
      内心探してないけど見ちゃいけないのか?思いつつ、私は「いえ」と慌ててさっと立ち去るわけです。

      休みの日にこの間みた素敵なネックレス確かベネチアングラスだったな~とふと何気に検索し、そこでこのサイトを偶然発見したんです。
      あ~ここならゆっくり綺麗なアクセサリーを眺めれるわ~から始まり最初は商品ばかりお気に入りにしていたんですが、このショップサイトはすごい面白いんです。
      ベネチアングラスの歴史とか今まで知らなかった技法とか盛り込まれてていて。

      私は(毎週なのかな?もっと短い気がするんですが)更新されるのを楽しみにするようになりました。
      次第に知識も深まりましたね。そんなある日ベネチアングラスのネックレスがショップにUPされたんです。私は一目ぼれしました。

      店長さんへお問い合わせして、商品の詳細を確認しました。
      私がこのサイトで得た知識を投げかけたら「その内容は実体験なので僕のサイトにしか乗ってないんですよ。ご覧になったのですか?」と喜ばれていました。
      すごく知識が豊富で感じがいい方でした。商品が気に入らなければ返品もOKということなので購入したんです。



      届いたベネチアングラスのネックレスを開けると、チェーンの部分がビーズでできていて、ペンダント部分はミッレフィオリという伝統的な技法と24K金箔でつくられたその姿に感激。
      さらに光に当たるとキラキラと小さいころに感じたあのワクワク感が蘇ってきました。ムラーノガラスなのでやはり普通のベネチアンガラスと違いますね。
      買ってよかったです。
      あと、色々と丁寧に説明してくださりありがとうございました。
      今もサイトが更新されるのを楽しみにしています。

      口コミ4 イタリア旅行で現地でベネチアングラスを断念

      実は、旦那とイタリアのベネチアに新婚旅行に行ったときに、ムラノ島で手に入れようと楽しみにしていたベネチアングラス。
      事前にあんなに下調べまでしていたのに!でも初めての海外旅行での緊張か疲れか私は熱を出してしまい予定当日ホテルで待機状態。

      あ~なんで旅行最終日にこんなことに。
      見兼ねた旦那が、イタリアだし空港にもベネチアンガラスあったよ。と。
      違う!ムラノグラスじゃないとダメなんだから。
      旦那からしてみたら意味が分からないですよね。ベネチアングラスに種類があるなんて思いませんから。

      そう簡単に日本でなんか買えないんだかね。高いし偽物かもしれないんだから。
      後ろ髪を引かれる思いで日本へ帰国。
      友人には「あんな楽しみにしていたのにベネチアングラス買ってこなかったの?」と大爆笑されました。
      だって、下手にベネチアングラス詳しくなっちゃったからムラノしか欲しくなかったんだもん。と言うと、ネットショップで売ってるよ。それか個人輸入でもすれば?と意地になった私はネットを検索。

      するとここショップにたどり着きました。ここのお店すごいことにアンティークのベネチアングラスも取り扱ってるんですよ。
      ですから、価格や価値なんかも折り紙付きなんです。
      さらに知識も深まりますしね。私が下調べした浅い知識なんかよりずっと作品の歴史背景がみえてすごいの。
      ムラノムラノと拘った私は=「高級」と思っていたんですが高級と言われる技術や歴史があったんですよね。
      アンティークもすごく興味を持ったんですが、まずは先にベネチアングラスのネックレスを購入してみようと。



      可愛いハートのペンダントがついたスカイブルーが生えるベネチアングラスのネックレス。
      他にもルビーのような濃い赤やゴールドなど複数ありましたが水の都ベネチアをイメージしてこの色を選びました。
      結婚記念日につけて食事に行ったとき、旦那にどうしたのその可愛いネックレス。と言われました。
      「これがムラノのベネチアングラスだよ」というと「え~っ?」と驚いていました(笑)熱を出して現地では購入できなかったけど、すごく満足しています。
      思いのほか値段も安くて次は色違いが欲しいです。いつかはベネチアングラスのアンティーク1つは欲しいです。

      口コミ5 カジュアルスタイルで出かけるときに

      私にとって休日友人と出かけるときに悩むのが洋服。
      カジュアルスタイルがなぜかラフなスタイルに。

      正直申し上げますと、夜中に小腹がすいてコンビニに買い物を行くような姿といった方が伝わりやすいですかね。
      普段はスーツをきているのであまり気にしてなかったんですが、姉にもよく言われるのが普段着がダサいと言われてたっけ。

      そんな私にも彼氏ができていつもは仕事帰りにスーツのまま合流して食事を楽しんだりしていたわけですよ。
      再来週の休みの日たまには昼間どこか出かけようと。
      どうしょう・・・。スーツでなんて行けないし、私服ダサいし。

      そこで姉に相談して洋服は借りることに。
      アクセサリーぐらいは自分の使えと私もその日出かけるから貸せないし。と冷たい言葉。
      そこで、高級感があってお洒落で私の手の届く金額とアクセサリーを探していました。

      そこで見つけたのがこのベネチアングラスのネックレスです。
      正直デニムにシャツ姿だけでもこのネックレス1本つけるだけで超お洒落になるんです。
      念のため、お店の方にカジュアルスタイルに合いますか?とたずねたら、ビジネススタイルでもカジュアルスタイルでもベネチアングラスは高級感、華やかさが出ますよと教えていただきました。



      長さが約76cmあるので胸元まであり目を引くネックレスです。
      5色のガラスはオールシーズン使えそうですし、チェーンの輪も大きくて個性があるのでこれを身に着けるとお洒落上級者に見えます。

      嬉しいことに収納のポーチがついているので持ち運びが便利で、仕事帰り彼氏と会うときにさっとスーツにつけるのもOK。
      スーツではもう少し短めに大きいチェーンで留めます。
      すると、また印象が変わるんです。

      彼氏にもいつもと雰囲気違うね。と言われました。
      姉にあの時助けてもらったので、もう1本ベネチアングラスのネックレスを買って共用しようと思っています。

      口コミ6 母のベネチアングラスは本物か査定

      幼いころ母親が大切にしていたベネチアンガラスのネックレス。
      私はずーっと憧れていました。

      あんなに大切にしてるんだから高価な品なんだろうなと思っていました。
      でも、大人になり海外旅行の雑誌なんかみたりするとイタリア・ベネチアの工芸品・ヨーロッパのお土産に人気!なんて数千円で掲載されていて、そんなもんなんだ。と思っていたんです。

      久々に実家に顔を出した時そのことを思い出して、お母さんあのベネチアンガラスのネックレスまだあるの?と聞いたらまだ大切にしてるよ。なんて言うので、誰かのお土産?なんでそんなに大切なの?たかがガラス細工のベネチアングラスじゃんと。と聞くと、あんたは馬鹿だね~安物や粗悪品しか見てないから本物の良さがわからないだよ。
      き~悔しい。じゃ何なのよってベネチアングラスって!
      このショップに気軽なお問合せをするところがあったんです。
      で、母が大事にしているベネチアングラスはこんなのだけど本物とか偽物あるのか。問い合わせてみました。

      意外なことにベネチアングラスってアンティーク品なら数十万円、現在もムラノでつくられた作品は高価で一つ一つ手作りで名誉ある窯元で作られ同じものが存在しないとのこと。

      技法も様々あるということなど詳しく教えていただきました。
      数千円で売られてる品はヴェネチアンガラスであっても粗悪品でムラノではない品らしいです。目から鱗です。
      母上ベネチアングラスは奥が深いですね。
      ついでに、ショップでベネチアングラスのムラノガラスも取り扱ってるということなので、覗いてみました。



      買うつもりはなかったんのですが画像でも一際、私の目を惹いたこのネックレス。
      グリーンとゴールドが入り混じった大きめのビーズが、モダンででありながらもどこか懐かしく感じるこのムラーノガラスに惚れてしまいました。

      で、購入しちゃいました。
      今度実家に顔出すとき付けてこうと思っています。
      眺めてると魅了されるのがベネチアングラスの本物では。と思っています。
      シックな服装に差し色で着けるととても素敵で自分でも何度も鏡で確認しちゃうほどです。

      イタリアのヴェネチア製 ベネチアングラスの歴史

      今までベネチアングラスの製造が正確にいつ始まったのかはわかっていません。最も最初に制作が始まったと言われる可能性の一つは、ヴェネトの人々が、繁栄するアドリア海(アドリアからアルティノ)のローマの海岸沿いの町でローマのガラス製造の技術を学んでからこの河口の島に移動してきた期間ではないかと言われています。

      イタリアで発見された最初のガラスの断片

      「フィオラリオ(フィオレ職人)」であるドメニコという者によって署名された西暦982年の公正証書によると、彼は吹きガラス、主に「フィオレ」として知られるガラス瓶を作っていたと記載されています。ベネチアンガラス製造の唯一の証拠は、1961-62年に見つかったガラスの断片で、 炉跡と共に、トルチェッロの広場で発掘調査中に発見されました。ガラスの断片は、ムラーノ下層 (サン ・ ドナート教会) だけでなく、ラグーン自体でも発見されています。

      最近の発掘

      最近では、1992-93年の間に、 マラモッコ (リド島にある小さな場所) で発掘調査中に、明らかに4世紀終わりから第 5 世紀のものであるいくつかの陶片が見つかりました。 2 つの切り捨てられた円錐形ビーカーと長い首の丸みを帯びたボトルが一緒に発見され、同じ頃のものと思われます。

      ガラス製造の技術の発展

      12世紀 から14 世紀の間、戦争や貿易のために東の諸国、特にシリアやエジプト、東ローマ帝国と繋がるようになったことで、ガラス製造の技術は確実に発展しました。

      記録として残されているのは、13世紀の最後の20年から14世紀半ばまで、ムラーノ(グレゴリオ・ダ・ナポリ、バルトロメオ ・ ダ ・ザラ、ドニーノ)でガラス上にエナメリングされたアートです。13 世紀には、ギルド(同業者による自治団体)の活動を制御する規則を書いたラテンの策定法令がありました。1441 年、それが方言で書き直され、「Mariegola dell’Arte dei Verieri de Muran」と呼ばれていました。Mariegola (または Matricola)では、製造から販売、税金、そして所有者と製造者や他の職人の間の関係まで、ガラス製造のすべての段階を網羅した規則がありました。

      初期

      ガラスの歴史は四千年以上に遡ります。古代の伝説によると、シリアの川の砂の岸辺沿いで偶然作られたとあります。フェニキア商人は、硝石ブロックを使用して焚き火を起こし、その時に溶けて砂と混ざり合ったことでこの新しい素材が生まれたのです。他には、ガラスの出現は、特定の金属の融合プロセスから生じたという説もあります。

      古代のガラス製造拠点地の跡が、メソポタミア、エジプト、シリアで発見されています。紀元前 10 世紀からガラスはバルカン半島および南ヨーロッパで普及し始め、ヘレニズム時代 (第 4-第 1 世紀紀元前) には地中海全体に広がりました。

      ローマ時代のガラス

      しかし、ガラス生産に新しい生命を吹き込んだのはローマ人で、その頃ガラスは急速に普及しました。パレスチナの発明による吹きガラス技法は、紀元前 1 世紀までさかのぼり、溶融ガラスという骨の折れる製作法に取って代わり、無色ガラスを作れるようになりました。吹きガラスの製作法と型にガラスを吹いて作る製法は2 世紀と 3 世紀の間にさらに発展しました。

      写真の作品はシリア、パレスチナ、東部、ギリシャ語、北イタリア、地中海のエリアなどからの作品で、考古学遺産部に保存されている、1世紀から4世紀までのローマ芸術の豊富なコレクションの一部です。北ダルマチアにあるエノーナ、アッセリア、ザラの共同墓地で見つかったこのコレクションの中には、墓の中で発見された吹きガラスでできた納骨用の壺などがあり、ムラーノのガラス職人のインスピレーションの元となった古代の形態や技術を知るための重要な参考品となりました。

      このようなお皿やゴブレット(足つきの酒杯)などのサンプルは型の中で形を作り、それから切断され、それから彫刻が施されました。グラスは装飾突起が施されたり幸運を願うメッセージが刻まれ、様々な形の香水の瓶はカラフルな棒や、様々な吹きガラスの装飾でデコレーションされていました。この写真はの作品は中世(10世紀から11世紀)まで遡る、ムラーノガラスの「考古学」の断片で、サン・ドナート教会の土台で発見されました。

      14世紀から17世紀:黄金期

      中世とルネッサンス

      ヴェネチアングラスの芸術は中東、特にシリアとの強いつながりがもたらしたもので、その頃、シリアの繊細でエレガントなガラス製作の仕事は世界に知れ渡っていました。

      最初のベネチアングラスの職人はそのいくつかを輸入し、模倣してグラスを作りました。14世紀までにベネチアングラスはかなりの発展を遂げ、毎日少なくとも12品は作成されていました。その頃作られたものの中には、inghistereという長い首に玉ねぎのような形のボディのボトルなどがあります。

      14世紀ごろ

      とはいえ、イスラムの生産に影響を与えるくらいにガラスアートの先進的な存在となったのは14世紀半ばになってからでした。その主な理由としてはムラーノアンジェロ・バロヴィエ(1405-1460)が透明なガラスを発明したことです。歴史上初めて透明でクリスタルのようなガラスが登場したのです。その結果、バロヴィエとムラーノは名前を知られるようになりました。

      カラフルなエナメルで装飾された透明なガラスは一般家庭やドージェ(ヴェネチアの総督)、そして法王にも求められるほどの人気でした。装飾品の中には1470年頃から有名な青いバロヴィエのグラスなどのルネッサンスの象徴的なモチーフを復活させたものがありました。他にも、エナメルドットの輪っかだけを、近い半円(折れ線)のようにアレンジしただけのものありました。

      16世紀

      16世紀になると、ムラーノのガラス生産は純粋な芸術の特徴をすべて取り入れましたが、その中には複雑なものもあり、現在もムラーノガラスの巨匠たちによって引き継がれています。

      純粋で透明なクリスタルの使用が始まり、独特の調和のとれた洗練されたガラスを創り出し、新しい装飾技術が試されたのはこの時期でした。そのうちの1つは、すでにローマ時代に使用されていたダイヤモンドポイントの彫刻で、Vincenzo d'Angelo dal Galloがムラーノ(1534年〜47年)に再導入し、レースのようなエレガントな作品を制作しました。コールドペインティングも実験され、その時代のアーティストから影響を受けたテーマのオブジェクトを逆にして適用しました。

      16世紀と17世紀:発明と妙技

      16世紀には新しいタイプのガラスも発明されました。冷たい水の中に熱く未完成のものを浸して作られた荒れた表面や半透明のガラスを作り出すアイスガラスが特徴のフィリグリーは、ムラーノが生み出した最も魅力的な作品の一つです。1527年頃にFilippo Catani della Sirena(またはSerena)によって発明され、平行または織り合わされた筒の中で、白(ミルクガラス)または着色ガラスの薄い糸をガラス棒に様々な方法で取り入れて作られました。今日でも非常に普及している手法です。

      これらの16世紀の製作法は17世紀へと引き継がれました。ムラーノのガラス職人のスタイルは、その持っている技術を活かすべく、装飾的な機能を持つ、より奇妙な形態に向かう傾向にありました。例としては、エキセントリックな動物型のシャンデリア、花瓶や祭壇用の瓶や花の形をして羽や紋章、ギザギザ模様や網目模様や線の模様が施してあるグラスなどがあります。

      17世紀

      一方、アベンチュリンの発明は、17世紀にさかのぼります。これは堅い石のようで、創造が非常に困難であった特別なガラスペーストであり、19世紀の終わりまで、この技法は複数回失われました。

      17世紀の終わりに向かって、"羽の形をした"装飾が初めて登場しました。これらは特殊な器具を使用して羽毛の中に櫛で梳いたようなミルクガラスの糸を包むことによって作られました。

      17世紀はムラーノのガラスメーカーが移住し、海外でヴェネツィアの仕事をしていた時代でもありました。これは、特に1630年の疫病の後に、街を襲った深刻な金融危機の結果でもあります。さらに、ボヘミアングラスは1670年代または1680年代に市場に登場し始めました。

      ムラーノガラス職人の活躍

      しかしながら、ムラーノガラスの職人はヨーロッパでかなりの名声を享受していました.16世紀以降、ガラスメーカーの実際の王朝がありました。前述のBarovier、dal Gallo、Serenaの名前に加えて、Ballarin、Bortolussi、Dragani、Mozetto、Della Pignaなどがいます。

      ムラーノを世界的に有名にしたのは、彼らをはじめとする偉大な巨匠たちなのです。

      18世紀:ファッションと創造性

      ボヘミアングラスとの競争

      18世紀の初め、金融危機の終焉が見えない中、ボヘミアとの競争は問題となっていました。

      地元の人たちの反対にもかかわらず、ムラーノのジュゼッペ・ブリアーティ(1686-1772)は、時代に適応することを主張しました。彼はボヘミアングラスの秘密を手に入れ、同じような製法をヴェネチアングラスに適応させ、ファッショナブルなものにしました。

      ジュゼッペ・ブリアーティ

      ブリアーティは、花束、葉、多色の花で装飾された複数の水晶のアームのあの有名なシャンデリアも発明しました(ヴェネチアのCa 'Rezzonico Museumには、彼の製作した壮大な作品の一つが展示されていますが、以来このジャンルの数多くの作品が作り続けられています)。例外として、彼はヴェネチアで炉を開く許可を与えられました。そこでは、彫刻されたフレームや鏡、そして大切な時に飾るデゼリ(デザートから由来した言葉)と呼ばれるテーブルセンターピース、そして象眼細工されたガラスの家具などのたくさんの作品を作りました。

      上の写真の作品はブリアーティのものではありませんが、その時代に制作された作品です。例えば、16世紀にすでに複雑な手順を経て製作され、18世紀を通して非常に人気があったムラーノミラーは、エナメルガラスや彫刻が施された豪華なフレームでした。もう一つの例は、イタリアの庭を再現した水晶の大きなセンターピースで、1760年前後に作られ、数多くの作品で構成されています。

      この時代の特徴を示すもう一つの例はfixè sous verreです。これらは絵画あるいは、ヴェネチアの画家ピエトロ・ロンギによる現代的な作品からインスパイアされた場面をガラスに貼り付けたエッチングのことです。18世紀の有名ガラス職人には、ジュゼッペ・ブリアティの弟子たち(Giacomo Giandolin, Lorenzo Rossetto, Zuane Gastaldello)、ヴィットーリ・オメストレ、アントニオ・モッタ、ヴィンチェンツォ・モレッティなどがいました。

      イミテーションの喜び:18世紀と19世紀の礼拝と「ラティーモ」

      18世紀には、違う素材に見えるように作られた、様々な種類の「模倣」ガラスが非常に高く評価されました。

      例としては、オパールのように見えるオパリンガラスがあります。陶器やカルセドニーのように見える"ラティーモ"と呼ばれる不透明な白いガラス(ミルクを意味する「ラテ」が語源です)や、瑪瑙、オニキス、マラカイトやラピスラズリのように半貴石のように見える多色の縞模様の多彩な不透明ガラスなどがありました。

      すでにローマ時代に知られていたカルセドニーガラスは、ルネッサンス時代にムラーノに登場しました。それは、白、着色またはオパールのガラスとクリスタルの残渣を混合し、融解した物質(銅、銀、コバルトなど)の異なる混合物を添加して、様々な色の脈のような模様があるものです。

      ローレンゾ・ラディ

      17世紀以降は、アベンチュリンの断片も追加することで、さらなる模様や筋が生じました。カルセドニーの「秘密」は、世紀の終わりに失われてしまいましたが、19世紀半ば頃に復活しました。これはローレンゾ・ラディのおかげです。1856年には同じ16世紀の構図が展開され、広大な色彩範囲のベインティングのために最も単純な直線状のオブジェクトが作成されました。

      1861年、ラディは実際に新しく設立された博物館に多くの作品を寄贈しました。

      磁器のイミテーション

      18世紀に多く作られたもう一つのガラスは、ローマ時代にも知られていたもののその頃とは違う技術を使って製造された不透明な白いガラス(ラティモ)です。15世紀の終わりに製造が始まり、中国の磁器を参考にして作られました。

      ヨーロッパで磁器が作られるようになったのも18世紀です。ベネチアの不透明なガラスもこの頃に徐々に有名になりました。チノワシ、神話のテーマ、ロココのモチーフを描いたエナメルや金の装飾が施され、新しい製作技術で作られました。

      ムラーノのこの分野の優れた専門家はミオッティ家と、1739年に作品を金で飾る独占権を国から与えられたバルトリーニ兄弟でした。

      18世紀から19世紀:衰退期

      18世紀後半からは、人々の好みが変化し、ますますボヘミアングラスが好まれるようになりました。ボヘミアングラスは厚みのある、明るいクリスタルにホイール彫刻で装飾されていました。ジュゼッペ・ブリアーティ(Giuseppe Briati)をはじめ、ムラーノのガラスメーカー達は、その手法を取り入れてヴェネチアの形と色で再解釈したガラスを生産するようになりました。

      ムラーノ炉は、食器、花瓶、奇妙なボトル、オブジェクトやバスケットなどの毎日使う品も生産するようになりました。彼らは透明クリスタルと色ガラスを可溶性の多色エナメルと組み合わせ、花瓶、紋章、鳥、様々な風景で装飾したり、金箔を貼ったりしました。

      ベネチア共和国の滅亡

      ベネチア共和国が滅亡した時(1797年)、ガラス産業の衰退が激化し、地元生産を抑制し保護するために従来行われていたすべての措置が消滅してしまいました。 ナポレオン時代、芸術と貿易のギルドは廃止され(1806年)、1815年からはオーストリアのルールの始まりに伴い、ボヘミアンの製品が市場に浸透しました。同時に、ムラーノでは、輸入された原材料と完成品についての税を増額したため、多くのガラス職人が移住し、無数の「レシピ」と職人技が失われてしまいました。

      ただ二つだけ例外があります。ビーズの生産Benedetto Barbariaが製作したオリジナルのテーブルプレートです。これらの中には1816年にムラーノを訪れた皇帝ナポレオン1世や1816年に訪れたオーストリアのフランシス1世のために作られたものもあります。しかし、一般的には、ベネチアングラスの業界にとってはこの時代は非常に憂鬱な期間であり、多くのガラス炉が閉鎖を余儀なくされました。1820年にはわずか16の製作所しか残っておらず、そのうち5個のみが吹きガラスを生産していました。

      残った製作所で、熟練した勇敢なガラスの巨匠たちは、過去からの技術と秘密を復活させることで革新と変革を試みることによって、この19世紀後半の芸術的および経済的危機に対応したのです。

      1850-1895年:再興期

      この時期に活躍したのは、危機に対応するために様々な戦略を採り入れたガラス職人と起業家たちでした。

      彼らは古いモデルを再現するためにアンティーク商人から手数料を受け取る一方、製作方法が非常に複雑であるために廃ガラスになってしまった特定のタイプのガラスの製造の秘密を引き出すことに成功しました。先に述べた、Lorenzo RadiとVincenzo Morettiが、それぞれカルセドニーとムッリーネの研究に参加していたのはこの時期でした。

      様々な技術の復活

      フィリグリーの生産も、ビーズメーカーのDomenico Bussolin、Lorenzo Graziati、Pietro Bigagliaらによって再発見されました。彼はすでに、アベンチュリンを復活させていましたが、それを薄い杖の紋章の生き生きとしたポリクロミーで使用しました。

      優れた品質と技術的な完璧さ、シンプルで直線的な形をした作品は、19世紀半ばのファッショナブルなビーダーマイヤースタイルを反映しています。

      更なる進化

      しかし、ムラーノのガラスメーカーが、その卓越した技術でますます複雑化した作品を作るようになったのは1860年代に入ってからでした。特に2つのガラス工場、アンティークモデルを専門とするF.lli Tosoと、海外市場向け、特に英国向けの商品を製作していたSalviati&C.は顕著でした。以前は見たことがなかったような美しい、明るくてカラフルな巨匠のガラスが世界中の展覧会で展示され、前代未聞の成功を果たしました。

      職人をサポートする博物館や学校の設立

      この頃にはベネチアングラスの博物館も開館し、彼らの仕事をサポートする学校を作りました。ほぼ1世紀の忘却の後、ムラーノは再び芸術的なガラス生産の中心になったのです。しかし、19世紀後半、職人技が磨かれ、ヨーロッパ全体でアール・ヌーヴォーが確固たる地位を築いていたにもかかわらず、ヴェネチアングラスのスタイルはまだ過去の影響を強く受けたものばかりでした。

      1895年にビエンナーレで開催されたガラス展で、近代化への鍵となった唯一の作品はArtisti Barovier Fornaceによる優れたスパイラル・ステム・カップだけでした。

      1900-1970年

      20世紀初めからの40年

      ムラーノ・グラスは、より多くの洞察力を持つ企業がアーティストやデザイナーと仕事を始めた1900年代、革新への道を切り開きました。

      1920年まではそのような機会は稀でしたが、ヴィトーリオ・トソ・ボレラ(1906-09)によるアール・ヌーヴォーのボウル、ハンス・ストルテンベルク・ルルシェによるトーソの兄弟のために作られたポリクロームフィラメントの花瓶、Artisti Barovierガラス炉で製造されたVittorio Zecchinによる、Klimtスタイルのモザイクガラスのスラブ(1914年)などがそれにあたります。

      1921年から1940年

      1921年に新しく設立されたガラス工芸品のCappellin&Veniniは「芸術監督」という役割を設定しました。任命されたのはまさしくZecchinにほかなりません。これはまったく新しいことであり、他の企業もまもなくこの例に従いました。

      技術的専門知識があるムラーノならではの芸術、デザイン、そして前代未聞の発展性が結合し、複数の表現形式を持ち、そのスタイルが引き継がれていきました。そしてそれぞれの製作所は徐々に独自のアイデンティティーを作り出していったのです。

      1920年から1940年の作品の特徴

      1920年代と1930年代にZecchinによって製作された様々な作品は、材料と形の純度、透明性、明度が特徴でした。しかし、1925年にナルトCappellinとVeniniが分かれてしまいます。Zecchinはまもなく独立し、彫刻家のNapoleone Martinuzziが1931年までVeniniの芸術監督に任命されました。とりわけ、彼は不透明で厚い新しいガラス「pulegoso」を発明しました。 pulegosoには無数の空気の泡(puleghe)が含まれていました。それを利用して、彼は明確なプラスチックのような、オリジナルの作品を作りました。

      そのエレガントなS.A.L.I.R.にはデコスタイルが反映されており、Guido Balsamo Stellaによるボヘミアンフランツペルゼルの装飾が施されています。しかし、グイド・カドーリン、アルフレド・バルビニ、ウンベルト・ベロット(「錬金術師」)、カルロ・スカパなど多くのアーティストがガラス製作に取り掛かってきた頻度が増えており、ビエンナーレ賞や賞を受賞した他の国際展に出展しました。

      1940年代から70年代

      戦後になると、ムラーノではさまざまな傾向と関心が発達し、特別な強さと質の高い結果が得られました。

      1930年代の終わりにここで検討され始めた重いガラスも、1950年代から1960年代にはさまざまな形で発展し始めました。例としては、AVEM用のGiulio Radiによる作品の多色ガラス質材料、またはSeguso Vetri d'Arte用に作成されたFlavio Poliが作成した水中ガラス(いくつかの重なった透明レイヤーでできている)があります。

      ガラス工房Venini(ヴェニーニ)

      一方、Veniniは、伝統的な手法を好み、フリーハンド手法や「incalmo」手法(加熱によって別々に加工された作品を結合して1つのオブジェクトを構成する)などの技術や、彫刻、紋章などを好んで作品に利用しました。Veniniのガラス工場は1932年から1947年までCarlo Scarpaによって指揮されました。Fulvio Bianconiが1948年に引き継いだ時、それはムラーノの生産の前衛でした。

      そこでは不朽の名作が製作され続けました。何年にもわたって数多くのイタリア人と外国人両方による無数のアーティストやデザイナーたちが協力して素晴らしい作品を作り続けています。イタリア人には、ルドヴィコ・デ・サンティラナと1960年代から1970年代にかけての非常にオリジナルの作品を制作していた娘ローラ(Laura)、Toni Zuccheriなどがいます。外国人の中ではフィン・タピオ・ヴィルカラが特に印象深い作品を作っています。

      その他の製作所

      他のガラス炉も、古代の技術を独自に再解釈しました。Archimede Segusoは、繊細な模様を持つ様々な実験に特化していました。そして他にも、オリジナルの縦糸の花瓶を作りました。1965年から画家Luciano Gaspariが運営していたSalviati工場は、非常に軽い吹きガラスに注目し、Carlo Morettiは彼の作品をエレガントで珍しい大胆なアイテムを作るために食器や家具に費やしました。 20世紀のムラーノガラスをガラス愛好家やコレクターのためのカルトの対象にしたのは、これらの結果の質、痛ましい研究、無限の実験、脆弱性、表現力でした。

      現代

      1980年代に行われた研究や実験の基本的テーマは、特定の機能にこだわるよりも、表現の手段としてのガラスの魅力を引き出すことでした。

      ムラーノの高度に熟練したマスターは、他の人々のプロジェクトや連続した作品を実行するだけの通訳の役割を超えて、自分の創造物で自分自身を確立したいと感じ始めていました。そして、多くのアーティストにとって、無限の可能性を秘めたガラスは、インスピレーションの源であり、表現するための手段となったのです。

      現代の代表的作品

      このトレンドのいくつかの例としては、島のテクニックの最も繊細で現代的な通訳者であるLino Tagliapietraによる複雑な硝子体の作品、Luciano Gaspariによる繊細な作品、マリア・グラツィア・ロシンやクリスティアーノ・ビアンキンの90年代の複数の材料を元に作られた実験的作品などがあります。

      ムラーノで活躍する外国人アーティスト

      ムラーノで働くことが基本的な役割を果たした外国人アーティストによる作品もあります。例としては、日本人の大平陽一は作品にモザイクガラスを使うことが多く、ガラステッセラ(モザイクガラス)の組み合わせに個人的に関わり、それからアンフォラのガラス製作の職人たちがそのガラスを吹いて作品を作り上げます。アメリカ人デール・チフリーデール・チフリーは、アーティストとしての活動を始めた60年代からここで働きました。