エミールガレ 花瓶

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      アールヌーボーを代表するエミールガレの魅力

       エミールガレは現在でも、美術館で博覧会があるほどのフランスの有名なガラスの工芸家です。


      ガレは植物に大きな興味を持ち、ガラスの中に植物のはかなくも美しい生命の誕生を表現することに、優れていたガラス工芸家です。


      なので、ガレが残した作品の中には非常に多くの、植物を題材にした作品が残っています。
      ガレはその天才的な才能を発揮し、フランスのパリで1889年に開かれたパリ万博でグランプリを受賞します。


      この時に陶磁器部門で金賞、家具部門で銀賞を受賞します。
      このようにガレはガラスの工芸家と思われがちなのですが陶磁器、家具、建築の作品も非常に素晴らしい作品が数多く残っています。


      家具や建築の部門ではガレの代表的な技法でもある異なる木と木を組み合わせて作った寄せ木のマルケトリという技法がとても有名です。

      エミールガレはドーム兄弟、ルネラリックと共にアールヌーボー・アールデコ期に大きな影響を与えた歴史的な芸術家なのです。

      動画でエミールガレの歴史を見る方はこちらから↓

       

      エミールガレの紹介

      今日はエミール・ガレの生涯を彼の作品とともに、お伝えしていきたいと思います。


      フランスのガラス工芸家 エミールガレの人物写真

      ※エミール・ガレ 1889 年


      エミール・ガレはフランスのロレーヌにガラス工場を持つシャルル・ガレの 息子として1846年ナンシーで生まれます。

      エミールガレの故郷 フランスのナンシー

      とても勉強熱心で、特に文学、哲学、植物学で優秀な生徒でした。


      高等中学校を卒業後、研究を続けるためにドイツに行きますが、その時、既に化学やガラス製造技術に興味を抱いていたのです。

      父親の会社の従業員であったビクター・プルーヴェと仲良くなり、 ガラス装飾について一緒に勉強し始めました。

      そんな中1870年、戦争でビスマルクによるロレーヌとアルザスの合併など、エミールガレの感性や作品に影響を及ぼす出来事が起こります。

      戦争中は歩兵部隊として大好きなガラス工芸も出来なかったり、 故郷の一部をプロイセンの兵士によって数カ月占領されたりしました。

      フランスが敗北するまでのこの長い期間が、彼にとってかなり苦痛だったようです。

      退役後、彼はサウス・ケンジントン美術館やキュー・ガーデンへコレクションを見にロンドンへ行ったり、パリ、イタリア、スイスを旅したり転々とします。

      旅行中は美術館で、歴代の文化、イスラム美術や18世紀の金細工や銀食器のロココ様式といった中世の装飾モチーフ、 そして鮮明で美しい色彩や形状の庭園に浸ったそうです。

      では、ここからは作品と一緒に 彼について、より詳しく説明していきたいと思います。

      エミールガレ アラベスク文様の花瓶
      ※エミールガレ アラベスク文様の花瓶
      エミールガレ 中世貴婦人の花瓶
      ※エミールガレ 中世貴婦人の花瓶


      とにかく自然的なものに夢中なエミール・ガレは、花や動物といった自然の形状をガラス装飾へ転写するアイディアや、ガラス製品への装飾開発に対する意欲は素晴らしいものでした。

      1877年、家業を継ぐ為にナンシーに「ラ・ガレンヌ」という家を建て 翌年、牧師の娘であるアンリエット・グリムと結婚します。
      1878 年は「ラ・ガレンヌ」に新しい炉とアトリエを構え、充実した生活を送っていました。

      また、パリで初めての展覧会を開催し紋章や、 シリアやベネチア模様がある中世の装飾に影響されたエナメルを使用した 様々なスタイルの作品に挑戦したそうです。

      エミールガレ 有職紋水差し エナメル作品

      ※エミールガレ 有職紋水差し エナメル作品

      エミール・ガレ  「A la Carpe(鯉)」

      ※エミール・ガレ  「A la Carpe(鯉)」

       

      日本的芸術を取り入れたエミールガレ

      そんな彼ですが実は、日本の芸術からも大きな影響を受けています。

      1880 年から 1889 年の間の花瓶やお皿の数々は、東洋の影響がとても反映されていて、彼も熱心に改良を重ねていました。

      1885 年には、日本人学生の高島得三と出会い、日本美術の基礎知識を教わりながら、より一層精巧なガラス装飾の為、植物や花、自然や動物の形状についても知識を深めていきました。
      エミールガレ 鷹に雪持松文花瓶
      ※エミールガレ 鷹に雪持松文花瓶

      エミールガレ 笹に雀文花瓶

      ※ エミールガレ 笹に雀文花瓶

       

      エミールガレの植物に対する情熱

      彼の有名なセリフで 「美しさは真実であり、真実は自然の中にある」と哲学的エッセイを書いているほどです。


      自然は神から無限大多数に表現されると信じていて、全ての物事は唯一無二であるべきと考えていたそうです。

      いつの時代も人の手で作られた物を愛し、その反面、大量生産された物をあまり好みませんでした。

      ガレは植物、樹木、葉、藻類、昆虫、それらの形状や色合いの 熱心な研究をして、いわゆる自然主義者としての芸術家でしたが、そういった意味で、装飾模様の様式の確立避けていたんです。

      彼の作品はジャン・オーギュスト・ロダンといったナンシーの芸術家へ 影響をあたえたのです。

      エミールガレ フロックス文花瓶

      ※エミールガレ フロックス文花瓶

      エミールガレ ノウゼンカズラの花瓶

      ※エミールガレ ノウゼンカズラの花瓶

      エミールガレ 薔薇が描かれた花瓶

      ※エミールガレ 薔薇が描かれた花瓶

       


      そんなガレの閃きの手助けにもなっていたのは、メモをする習慣です。

      後に妻であった「エンリエット・ガレ」がそれらを集め、「Ecrits pour l'Art(芸術の為の書き込み)」が出版されました。

      メモは芸術に対するビジョンついて、混合的芸術技術について、訪問した園芸展示会について、情熱や感情、豊かさについて賞賛する、ロマン派の詩や文章についてなど、様々なコメントが集約されています。



      ガレの最高傑作が次々と生み出された背景

      彼は 1880 年に出会った詩人シャトーブリアンや、ビクトール・ユーゴ、そしてシャルル・ボードレールの思想、人柄に好感をもちました。

      1892 年には、「Les Fonds de la Mer(海の底)」と題した花瓶にはその彼にたいして「おお海よ、誰もあなたの秘めた財宝を知らない。

      あなたのその深さも誰も測り知れない。皆があなたを妬む。

      あなたは秘密を守り続ける。」といったオマージュまで残しています。

      1896 年の「Les Fleurs du Mal(悪の華)」はボードレールの闇のように 暗く不吉な植物がちりばめられています。

      彼はロベール・ド・モンテスキューやメーテルリンクの詩にも熱心で、ロマン派だけにとどまらず、特にヴァージル、ヘシオドス、ダンテ、シェークスピア、ヴィヨン、ミュッセやラマルティーヌにも及び、 花瓶装飾をより高めていったそうです。

      これらが、パリの文芸や芸術のサロンにて多くの依頼を受け、 大きな成功を収めたのです。

      エミールガレ フランスの薔薇
      ※エミールガレ フランスの薔薇


      エミール・ガレは父である「シャルル・ガレ」の影響で陶器や土器の技術にも興味を持っていました。

       

      粘土やスズの酸化物に釉薬を使い、 1892 年シャン・ド・マルスのサロンにて最後の土器を展示しています。

      エミールガレ初期作品 紋章の陶磁器カップ&ソーサー

      ※エミールガレ初期作品 紋章の陶磁器カップ&ソーサー

      彼は他にも、ガラスへ彫刻や酸のエッチングにも挑戦していて、ガラスの色や材質で様々なニュアンスが生まれる技法として極めていました。

      エミールガレ 菊に蜻蛉の花瓶

      ※エミールガレ 菊に蜻蛉の花瓶

      エミールガレ 蜻蛉が描かれた扁形花瓶

      ※エミールガレ 蜻蛉が描かれた扁形ゴブレット花瓶



      彼は自身の芸術と細やかさへの技術を開発して「la Violette(バイオレット)」という杯を制作します。

       

      カップには一本の紫色の花が吹きガラスに施されており、脈の細やかな部分まで丁寧な装飾が施されています。

      また、ルバーブの葉の形状を用いたカップも作り上げ、「L'Orge(大麦)」や「Les Chardons(あざみ)」と呼ばれた細長い花瓶には、大きく稔った大麦が見事に施されています。

      ガレの植物の世界観はさらに広がり1900 年、昆虫に興味を持ちます。

      昆虫を化石化させ樹脂や琥珀へ入れる等試していて、1903 年にトンボを用いたゴブレット作品「Libellule(トンボ)」を制作しました。

      何年か前の 1900 年に制作された「Le Scarabée(てんとう虫)」や「A la raie(スケート)」の花瓶作品には、ガラスにエナメルを使用して描かれた作品を作っていたり、1899 年に彼はカエルやオタマジャクシをテーマにしたシリーズを 展開していきます。

      この頃というのは、新たに富を築いた一般市民の間に芸術を楽しむ生活様式が広がり、その流れを受けて陶磁器、ガラス製品、シルバー製品が飛ぶように売れていました。


      エミールガレ おたまじゃくしの花瓶
      ※エミールガレ おたまじゃくしの花瓶

      1900 年に、ガレは自然主義な芸術的主観は地質学にも着目し、マカライトやアズライトといった化学知識を用いて半透明のクリスタルを使い、「Géologie(地質学)」という花瓶をも制作しました。

      1892 年には、学者として60周年を記念して「パスツール花瓶」を制作しています。


      エミールガレ 蜻蛉に蜻蛉の花瓶
      ※エミールガレ 蜻蛉に蜻蛉の花瓶

      エミールガレが暗い作品を作った理由

      冒頭でも少し触れましたが、エミール・ガレは 1870 年代から、プロイセンとの戦争からも影響を受け、その頃から常に神秘的な感性を持ち、徐々に暗く象徴的な作品を制作するようになったのです。

      1888 年に制作された「Orphée et Eurydice(オルフェウスとウンリュディケ)」や
      1889 年の「Mer Profonde(深海)」を見ると象徴的かつ、幻想的なビジョンへ移り変わっているのがよくわかります。

      さらに 1900 年からは装飾テーマが夢や悪夢といった非現実的な陰陽へと一気に変化していきます。

      1900 年の「Aube et Crépuscule(夜明けと夕暮れ)」は 夜の蝶と海面から出てくる手を表現しています。

      1903 年には、灰色の雲の上に木々や家々が並ぶ、暗雲漂う風景を表現した器の制作をしました。

      エミールガレ トンボの鶴首型花瓶

      ※エミールガレ トンボの鶴首型花瓶

       

      ガレが残した木材作品

      ガラス・陶器等と極めていく中で、彼のその才能は木材や木工芸でも発揮します 。

      じつは遡ること1865 年には、花瓶やガラス製品を展示するための家具の制作まで行っていました。

      友人のビクター・プルーヴェとエキゾチックな木材の香りや木目を研究し、繊細で優雅な家具や装飾品といった究極の芸術品を制作しました。

      エミールガレ マルケトリ技法 コスモスの花が描かれたアンティークテーブル

      初期の作品はルネッサンスの影響で大き目の設計でしたが、1899 年の万国博覧会でビクター・プーヴェルと共に作った「Les Orchidées et les Insectes(蘭と昆虫)」は高級感があり、且つ小さな家具と合わせたドレッサーを制作し、世間では注目を浴びます。

      1894年には日本美術を取り入れて、繊細な装飾で仕上げた豊かな作品「アラ ジャポニカ」を発表。


      その作品は、金で竹を彫刻し、銅で鎮護の花や枝を描いているのが特徴となっています。

      他に 1892 年、ランス地方ポメリーの親戚へ「ハーブと畑のテーブル」と題した作品を作っており、その品は、スカッシュ枝、マメ科植物の枝、きゅうりの蔓 そしてキャベツの葉等がトレイの淵や列に装飾された素晴らしい作品でした。

      1893 年も彼は同じく継父の牧師グリムの為に、「les Fruits de l'Esprit(精霊の果実)」と題するお花や果物の彫刻をあしらった家具を制作し贈っています。


      エミールガレ 木製作品 ピアノ
      ※エミールガレ 木製作品 ピアノ
      エミールガレ 木製作品 食器棚
      ※エミールガレ 木製作品 食器棚


      類い稀なるエミール・ガレの異質なまでのこの才能は、さらに飛躍し1904年には、
      Aube et Crépuscule(夜明けと夕暮れ)」と題したベッドとワードローブ、それに合わせたチェストを 椅子と2客セットで、友人のヘンリ・ハーシュの結婚のお祝いに拘りぬいて制作した作品を贈りました。


      ベッドには、頭と足元の部分にベニヤと真珠で二匹の夜の蝶が施され、夜景に蝶が舞い金色の粉を撒く、夜と夢の象徴を表現していデザインとなっています。

      そして、エミール・ガレの素晴らしい活動を支えたのは300人の従業員でした。

      彼らの助け無しにはガレの豊かな創造性は発揮されず、ユニークなガラス装飾の実現は成しえませんでした。

      彼はウィリアム・モリスのユートピアの概念を受け、仕事は家族が住む場所の側で 創造することを楽しむべきと考えていました。

      ガレもアトリエのほぼ全ての作品にサインをして、作品のデザインと制作における従業員の助けをしっかりと感じていました。

      毎度おなじみ彼の親友エミール・プルーヴェも、グラフィック構成や家具の装飾モチーフのデザインと制作において 重要な手助けをしています。

      こういったエミール・ガレの活動の貢献は、彼の創造性にとどまらず、彼の自然観察、結晶やガラス繊維の複雑な化学的知識、作品中のガラスの色と包含物、そして発明と装飾の才能が一目瞭然ですね。

      エミールガレ さくらんぼの木の実のテーブルランプ

      ※エミールガレ さくらんぼの木の実のテーブルランプ

      エミールガレ 藤の花のテーブルランプ

      ※エミールガレ 藤の花のテーブルランプ


      1901 年にエミール・ガレは、地域の美術工芸品を促進する目的でアントニン・ドーム、ルイ・マジョレルとユージン・バランと共に ナンシーに学校を設立しました。

      彼にとってアールヌーボーは、充分に創造的でないため、腑に落ちない感じでしたが、ナンシーの学校はアールヌーボーにとって重要な位置づけとなったそうです。

      1904 年、エミール・ガレは白血病により 58 歳でこの世を去ります。

      彼の奥さんアンリエット・ガレは、工場を維持するために、夫と共に歩んできたビクター・プルーヴェの指導の下、従業員、デザイナー、ガラス職人、彫刻家の助けを借りて、生涯彼の仕事を継続したそうです。


      1914 年、彼女が他界する前、夫のメモ書きを集めた「Ecrits pour l'Art(芸術の為の書き込み)」の出版はそんな、夫ガレの仕事と才能を一番身近で見ていた彼女だからこそ、後世に伝えたい願いだったのかもしれませんね。


      エミール・ガレの魅力を余すことなくお伝えしましたが、いかがでしたでしょうか。


      勤勉且つ、純粋に自然を愛したナンシー派の先駆者である、彼の生涯を知り、作品をより一層お楽しみいただければと思います。

       

      エミール ガレ マイゼンタールのガラス職人との関係

      エミール ガレ マイゼンタールのガラス職人との関係についてお話をします。

      このマイゼンタールとは工房のことで、ガレがデザインしたものを製造する場所になります。

       

      基本的にガレの第1期時代の作品は、ガレが作ったものですが2期くらいからはマイゼンタールに委託していたようです。

      今で言うところの、OEMの考え方に近いのではないでしょうか。

      マイゼンタールのガラス工房の始まりは、このフランス北東部のビッチュ地域で初めにガラス工芸が始まった13世紀に遡ります。


      そのころから18世紀の初めまでは燃料である薪を求めてガラス工房は転々と移転して経営されており、マイゼンタールやその近郊のいくつかの町では過去にガラス工房が作られて移転した経緯がありました。


      1700年にセバスチャン・ブルガンが過去にガラス工房があった場所に新しいガラス工房を立ち上げます。


      その後その工房は1824年にブルガン・シュヴェレール社の所有となり、1855年からはニコラ・マチュー・ブルガンがマイゼンタールガラス工房の理事となります。

      この人物が1860年頃までに共同制作を始めたのがシャルル・ガレ・レヌメであり、エミール・ガレの父親です。


      この時はまだこの2者間の取引数はそれほど多くありませんでした。


      1861年にメッツで行われた博覧会にシャルル・ガレとマイゼンタールガラス工房はそれぞれ出展しています。


      当時、マイゼンタールのガラス製品はサン・ルイやバカラといったクリスタルガラスの工房のものよりも品質も価格も低く見られていました。


      シャルル・ガレにはガラスからクリスタルガラスに転向するという選択肢もありましたが、それをせず彼は、また息子のエミール・ガレはガラスでアートの神髄に迫ることを選択します。


      マチュー・ブルガンや他の関係者の協力のおかげで、マイゼンタールはいくつもの応用技術が使えるようになり、エミール・ガレにもそれを実際に体感させることが出来ました。

      ブルガン・シュヴェレール社は1867年のパリ国際博覧会に出展し、銀メダルを受賞しています。
      マチュー・ブルガンの手により工房はすぐに大きくなります。


      作品の大部分は実用的なもので、鋳造品と吹き上げ成型のハンドメイドものを制作していました。
      1889年から1903年にはマチュー・ブルガンの息子であるアントニー・ブルガンが工房の理事となります。

      エミール・ガレとブルガン・シュヴェレール社のコラボレーションは、1867年にエミール・ガレが父親の会社のアートディレクターとなったことから始まります。


      そのコラボレーションは、1894年ナンシーにエミール・ガレのクリスタルガラス工房が開かれるまで続きます。


      1884年と1889年の展示会に出展した際の紹介文から、このコラボレーションで使用された技術の変遷を辿ることが出来ます。

      どちらの展示会でも吹き上げ成型はマイゼンタールで、装飾はマイゼンタールかナンシーのどちらかで行われています。

      1、 色付けと装飾 マイゼンタールでの研究により、まだら模様(細かいガラスの組み込みも含む)やマーブル模様(金属酸化物の組み込み)、金属箔(金や銀、プラチナの薄片や粒子の組み込み)が出来るようになりました。


      またマルケトリ(寄木細工のようなちりばめ細工)も、実際に制御できるようになったのはナンシーに移った1894年以降ですが、マイゼンタールで作られたものもあります。


      2、 エナメル加工 ガレは新しい半透明エナメル技術と不透明エナメルの技術を発表しています。
      ガレはエナメル加工で艶消しを好みました。


      3、 グラヴュール技法 グラヴュール技法はナンシーで行われていましたが、マイゼンタールの名前で発表されていました。
      回転研磨機でのグラヴュール(彫刻)と酸でのグラヴュール技法がよく用いられていました。

      ガレの製品は、最初はシャルル・ガレの、1867年からはエミール・ガレの指示により、
      準備中のデザインと同様に石膏もナンシーで作成した後マイゼンタールに送っていました。


      他の場所で鋳造した作品も、吹き上げ加工やエナメル加工はマイゼンタールで行っていました。
      ガレ親子のマイゼンタールでの主な相談相手は、エミール・ガレと同い年でブルガン・シュヴェレール社の装飾部門の責任者をしていたデジレ・クリスチャンでした。
      彼はおそらくエミール・ガレの代理としてグラヴュール職人チームの責任者も務めていたと思われます。


      1885年にエミール・ガレとブルガン・シュヴェレール社、そしてデジレ・クリスチャンの間で交わされた契約書では、こんなことが定められています。

      「装飾全般はデジレ・クリスチャンが行う。ガレ氏は絵付け装飾部門に定期的な仕事を供給する責務を負う。


      クリスチャン氏は自身が出来うる最適な改革を行う権利を留保している。


      ただしそれはその新しい技術をエミール・ガレとブルガン・シュヴェレール社のどちらにも紹介し、かつどちらも拒否することが出来るという条件付きである。」

      デジレ・クリスチャンはガレの製法の流出を防ぐために一役買うなど、ガレの助手のような存在であったようです。


      エミール・ガレがナンシーにクリスタルガラス工房を建てた後、マイゼンタールのノウハウをナンシーに移す必要がありましたが、デジレ・クリスチャンにナンシーに来ることを説得することは出来ませんでした。


      最終的には、他の技術者をナンシーに呼び寄せました。
      また、ガレは装飾前のガラス製品をマイゼンタールから購入してナンシーに送る取引を望んでいましたが、工房とデジレ・クリスチャンの要求で契約した内容と価格の高さが取引の障害となっていました(契約内容は不明)。


      1894年にナンシーのクリスタルガラス工房を立ち上げてからも、エミール・ガレはマイゼンタールのガラス工房との関係をすべて断ち切ることはしませんでした。


      1889年にはブルガン・シュヴェレール社の株を10株、1900年には14株保有していました。