エミールガレが現在までに及ぼした、フランス国外のヨーロッパガラス工房への影響
生前から、エミール・ガレ(1846-1904年)は3つの芸術分野で非常に素晴らしい功績を上げてきました―――陶芸、ガラス工芸、そして木工です。
しかし今日では、彼のガラス工芸が世界的に一番高い評価を受けています。
芸術的表現の可能性を無限に持つガラス工芸こそが、ガレによって完璧に支配されていた分野だからです。
非凡な観察力と、伝統から現在までのすべてのガラス加工技術に精通した知識のおかげで、彼は協力者たちにも自分のアイディアをしっかりと伝えることが出来たのです。
このことは、ガレの芸術作品を理解する上で非常に重要なことです。
実際、ガラス作品は今日まで様々な分野の専門家たちが力を合わせた結果なのです。
エミール・ガレの象徴主義的ガラス芸術は、並外れた複雑性を持っています―――この芸術は、複数の技術を探求した結果なのです。 テーマは通常植物や自然に強くインスパイアされています。
ガレの芸術はまた文学的知識の影響も大きいです。
ガレは事実文学的な人間でありました。
しばしば彼は芸術的なひらめきを古典や同時代の文学作品から得ていました。
並外れた素晴らしい作品は、有名なものから無名なものまで様々な詩を引用したものが装飾の一部をなしていました。 この引用によって伝えられるメッセージは、哲学的な、詩的な、また政治的な秩序を持ち、ガレのガラス作品だという価値を与えるのです。
ヨーロッパでは19世紀の終わりから、芸術的なガラス工芸品は万国博覧会での国をまたいだ交流に非常に影響を受けてきました。
フランスはその中でも重大な役割を果たしました。 1889年のパリの万国博覧会の前には、新しいアイディアというのは特にパリのアーティストたち、オーギュスト・ジャン(1829-1896年)やフランソワ・ユジェーヌ・ルソー(1827-1890年)からやってきていました。
パリ近郊のパンタンのクリスタルガラス工房や、ロレーヌ地方のバカラのクリスタルガラス工房も重要な役割を果たしました。
1884年や、とりわけ1889年の成功の後、エミール・ガレは注目の的となりました。
1889年の国際的な成功の後、その影響が一番強く、また一番直接的であったのはフランスにおいてでした。
その影響がその他のヨーロッパ諸国、つまりドイツ、ベルギー、ボヘミア(チェコ西部)地方、ロシア、スウェーデンなどで感じられ始めてきたのは少し遅れて、1897年のブリュッセル万博や1900年のパリ万博の直前ごろでした。
一般的に、ガレの後継者たちは彼の技術的な知識を使い、また植物をモチーフにした装飾の価値を認識している人に限定されます。
後継者たちの大部分は、模倣者とは認識されませんでした。 ガレのアイディアに加えて、後継者たちそれぞれの想像力と技術的能力を持ってすれば、しばしば収益性によって幅はせばめられるものの、彼らはそれぞれ違った芸術的方向性にたどり着くのです。
イタリアでのエミールガレの影響
二つの国、イギリスとイタリアにおいては、ガレのガラス工芸の影響を認めることは出来ませんでした。 このことは、この二か国で昔から続いている豪華なガラス製品の工房が製法も素晴らしいという高い評価があることで説明できるかもしれません。 それらのイタリアもしくはイギリスのガラス工房は非常に成功しており、創業の当時は時々ガレのお手本となっていました。
しかしながら、一つ例外がイタリアでありました。 ハンス・ストルテンベルグ・レルシュ(1867-1920年)はノルウェー人の画家を父に持ち、母はドイツ人で、パリで修業をしました。 1894年から1905年の間、造形美術の国内展覧会にガレと同じ時に出品しました。 装飾美術の分野に常にあこがれを持ちながら、ムラーノのフラテッリ・トソと一緒に1911年から1920年の間作品作りをしていました。 それらの作品は、エミール・ガレ最新作の型にはまらない自由なバリエーションのように捉えられていました。 彼は彫刻家として、変則的な形の型作りをし、ガラスのマルケトリ手法によって装飾を施すことに没頭していたのです。 それはガレのマルケトリ技法とは使われる手法が異なっていました。 モザイクと、ガラスの糸と粉を使用するのです。
3-1 ムラーノのフラテッリ・トソ作
ハンス・ストルテンベルグ・レルシュ構想、ステインベルグ基金貸出、
Glasmuseum Hentrich im Musem-Kunst-Palast蔵 デュッセルドルフ
写真L. Milatz
花瓶 1911-1912年 杯 1918-1920年
ベルギーでのエミールガレの影響
1897年のブリュッセルでの万国博覧会のほんの少し前に、レオン・レドルというベルギーのサン・ランベール渓谷にあるクリスタルガラス工房の責任者が、アールヌーヴォーのベルギー人アーティストであるフィリップ・ウォルフェール、ヴィクトール・オルタ、そしてアンリ・ヴァン・ドゥ・ヴェルドとのコラボレーションを始めました。 ガレの影響が認められるのはウォルフェールとレドルのところで、同時にパリのアーティストであるエルネス・レヴェイエとユジェーヌ・ミッシェルとの類似性も認めることができます。 これらの影響はとりわけ金銀細工師ウォルフェールの作品で顕著に見られます。 セラミック製、銀製、エナメル加工金属の装身具、彫刻や水瓶といったものです。
1906年から1908年の間、ミュラー兄弟のジャン・デジレとユジェーヌは、サン=ランベール渓谷の工房でたくさんのガラス製品のモデルを作り上げました。 色の層を作り、酸でグラヴュール(彫刻)を施し、酸化銀による着色をし、熱着色効果での絵付けをしました。 これらの手法は、ガレの1895年制作のシリーズに由来しており、ミュラー一家には非常によく知られていました。 それというのもミュラー兄弟の何人もが、1897年以前にガレがナンシーに新しく開いた工房に雇われていたからです。 サン=ランベール渓谷の工房では、1920年代の終わりまでガレの作品群に従って制作が行われていました。
3-2:ベルギーのスランにあるサン=ランベール渓谷のクリスタルガラス工房
花瓶 「オーキッド(洋ラン)」1896年
フィリップ・ウォルフェール デザイン、 Reiss-Engelhorn-Museen蔵 マンハイム
写真 F.Schlechter、ハイデルベルグ
ゴブレット 手つかずのブドウの木
デジレとユジェーヌ・ミッシェル デザイン、旧Georgio Silzerコレクション、Augustinermuseum蔵 フライブルグ、 写真M.Jensch
ロシアでのエミールガレの影響
ロシアでは、二つのガラス工房が1900年から1914年のガレの作品群に影響を受けました。 一つはサンクトペテルブルクの帝国ガラス工房で、もう一つはグシ=フルスタリヌイのMaltsov一家のグシガラス工房です。 帝国ガラス工房は、回転盤によるグラヴュールの質の高さで19世紀の半ばからよく知られており、1896年には既にフランスのガラス工房に進路を見出し、パリのアーティストであるエルネス(1841‐1913年)やユジェーヌ・ミッシェルの影響を受けていました。 他にも帝国ガラス工房は、厚いガラスに鮮明な色の粉を混ぜ込んだり、無色のクリスタルガラスにグラヴュールで深い沈み彫りを施したりした大きな花瓶を制作していました。 1900年以降、層がいくつも重なったガラス作品たちは、とりわけ酸や回転盤によるガレのグラヴュールのシリーズに発想を得て、ガレよりも後の時期に作られました。 これはグシガラス工房も同様のケースと言えますが、それについてはあまり知られておらず、研究もなされていないのが実情です。
3-3:花瓶 手つかずのブドウの木
帝国ガラス工房 サンクトペテルブルク 1909年
Glasmuseum Hentrich im Musem-KunstP蔵 デュッセルドルフ、写真 Lothar Milatz
ドイツとボヘミア(チェコ)でのエミールガレの影響
1897年にライヒェンベルグ美術館で行われた、アメリカ人アーティストのルイス・コンフォート・ティファニーガラス作品展は、まずボヘミアで、続いてドイツにイリゼ(虹色に輝く)ガラス製品の生産地を広げ、アールヌーボーのスタイルに参加させるきっかけとなりました。 ハルラホフのノヴィー・スヴィエト(チェコ)にあるガラス工場Gräflich Harrachsche Glashütteは、フランスの影響、特に初めはパリの影響を受けていることが他の工房と異なっていました。 1880年ごろにはすでにオーギュスト・ジャンに発想を得た着色シリーズを生産していました。 1895年に工房のトップであるテオドール・カドレックがフランスに赴きました。 1900年の直前には、色を重ねた多層ガラスに酸によるグラヴュール加工で凹凸を付けた花の装飾の第一弾を作製しました。 花の装飾はイリゼガラスの表面に作られており、凹凸部分には金で、底は深い赤で彩色されています。
首の長い花瓶 1903-1910年頃作
Ludwig Moser & Söhne作、カルロビ・バリ ドヴォリ、
パッサウGlasmuseum蔵
写真 G. Urbánek
ガーベラの花瓶 1904年頃作
Gräflich Harrachsche Glashütte作 ノヴィー・スヴィエト ハルラホフ、
フライブルグ Augustinermuseum蔵、写真M.Jensch
ドイツやボヘミアのガラスへのエナメル彩色は色がとてもはっきりしていて、ガレのニュアンスを付けるエナメル彩色や濃淡のぼかしとは異なっていました。 しかし、1905年頃までには植物が主な装飾の題材を占めていました。 装飾は1882年の「Floret-Glas」シリーズで試されたテクニックを使って制作されています。 1902年には「ジャスピス」シリーズが、1900年から1904年には「フォルモサ」シリーズが誕生し、これらはパリ近郊のガラス工房ルグラ・エ・シーの「インディアナ」シリーズにとてもよく似ています。 1900年から1905年の間に、カルロビ・バリのドヴォリにある高級クリスタルガラス工房のLudwig Moser & Söhneは、無色ガラスのくぼみに深く刻まれたくすんだ花の装飾を手がけました。 1904年ごろに誕生した「フロリダ」シリーズは、エミール・ガレのガラスのマルケトリ技術のバリエーションだといわれています。 無色ガラスに応用したのです。 1900年のパリ万国博覧会では、Moserは既にこういったガラスのマルケトリ作品を出品していましたが、グラヴュールと組み合わせてはいませんでした。 完全に彫刻して刻み込まれた装飾のマルケトリ作品が見受けられたのは1902年から1906年の間のことでした。
しかし、ボヘミアでのガレの影響はとりわけ工業製品への層を重ねた着色と酸によるグラヴュールに関したものです。 いつも新しい技術や装飾を研究していることで知られるポランのガラス工房ジョセフ・リーデルは、1900年のパリ万博に初めて酸によるグラヴュールを施した作品を発表しました。 それらの装飾は、バカラやサン・ルイといったクリスタルガラス工房との類似性がありました。 1904年以降は花のシリーズに続いて、ガレの工房に着想を得ていました。 ランプの生産は1890年代の初めからリーデルの得意とする領分でした。 1902年に、層を重ねた着色に酸によるグラヴュールを使った様式の植物の装飾をあしらったランプが発表されました。
テプリツェにあるJosef Rindskopf’s Söhneの工場は1900年のパリ万博に曇りガラスにマーブル模様をつけ、酸と回転盤によるカメオ彫刻で植物を描いた作品を発表しています。 「洪積層ガラス」と呼ばれるこのガラス作品群は、赤い胴を熱着色することで作られる緑のマーブル模様が特徴的です。
1903年から1910年の間、ハイダにある完璧な装飾技術で知られているガラス装飾のアトリエ、カール・ゴールドベルグは酸によるグラヴュールにも情熱を注いでいました。 虹色に輝くガラス作品で有名な、Eleonorenhainにあるガラス工房ウィルヘルム・クラリックも1905年に同様に酸によるグラヴュールに没頭していました。 クラリックの工房では1920年代にもう一度酸によるグラヴュールを採用し、1925年から1930年にはガラスのマルケトリを使用しました。
クロスターミューレーにある高級ガラス工房Johann Lötz Witweは、1889年の万博でガレと同じグランプリを受賞しており、1909年にAdolf Beckertの指揮のもと酸のグラヴュールで花の装飾を施した連作を作り始めました。 Lötzの工房では1922年から1925年の間、遅ればせながら再度同様のシリーズを発表し、時折RichardやVelesのサインが入っていました。 それらはガレの工房で作られた製品と似通っていました。
3-5 花瓶「洪積層」
Josef Rindskopf’s Söhne作 テプリツェ
パッサウGlasmuseum蔵、写真Gabriel Urbánek
3-6
クレマティスの花瓶 1909-1910年 菊の花瓶 1923年
Johann Lötz Witwe クロスターミューラー Johann Lötz Witwe作 クロスターミューラー
Adolf Beckertデザイン、パッサウGlasmuseum蔵 パッサウGlasmuseum蔵、写真Gabriel Urbánek
ドレスデンのミューゲルンにある会社Beckmann & Weisは、ヴァイスヴァッサーの大きなガラス工房Vereinigte Lausitzer Glaswerke AGのような同様の作品を1910年から1920年の間に制作しました。 1918年から1929年の間には、ニコラス・リゴットやその他のサン・ルイクリスタルガラス工房にいた従業員の指揮のもとアトリエを開設し、Arsaleのサインを入れた、ガレの工房の製品と似たような作品を作っていました。
ガイズリンゲンにある工場Württembergische Metallwarenfabrikは、無色ガラスに酸によるグラヴュールで花の装飾を施し、エナメル彩色で金を浮き立たせたシリーズを作製していました。 バイエルンの工場Glashüttenwerke Buchenauでは、Ferdinand von Poschingerが虹色に輝くイリゼガラス作品とは別に3つの高級作品のシリーズをガレに着想を得て発展させました。 1899年、この工場では製品の芸術性を高めるために、ドイツ人画家Julius Diez(1870-1957年)とCarl Schmoll von Eisenwerth(1879-1947年)とのコラボレーションを始めました。 1902年からは、層を重ね、酸や回転盤によるグラヴュールを使用した作品が作られ始めました。 ガレ特有のグラヴュール手法が採用されたことは明らかですが、花の装飾の配置が左右対称でモチーフの反復を行うところが異なっています。
3-7
A 虹色に輝くイリゼでマルケトリの花瓶 1899-1900年
B 菫の花瓶 1900年頃
C ノウゼンハレンの花瓶 1902年以降
すべてGlashüttenwerke Buchenau、Ferdinand von Poschinger作
パッサウGlasmuseum蔵、写真Gabriel Urbánek
このタイプの装飾は、シュレジエン地方のペータースドルフにあるガラス工房Fritz Heckertでも同様に1900年ごろに作製されていました。 この工房では、ガレよりずいぶん前の1870年に既に酸によるグラヴュール手法が使われていましたが、1905年に凹凸によって図案化された植物の装飾を作るために再び採用されることとなりました。
スウェーデンでのガレの影響
スウェーデンではガラス工房コスタ・グラスブリュックが1898年からガレに着想を得た高級ガラス製品を初めて作り出しました。 1900年のパリ万博では、この工房は金賞を受賞し、工房の彫刻師であるAxel Enoch Boman(1875-1949年)は銅賞を受賞しました。 このガラス工房の初めての芸術装飾家Gunnar Gunnarson Wennerberg(1863-1914年)は1902年までと、1908年にここで働いていました。 1907年に彼の後継者となったKarl Lindeberg(1877-1931年)は、酸によるグラヴュール手法でモチーフの反復を用い、凹凸の彫刻部分は半透明で底は無色ガラスに白い粉をかけたような装飾を好んで用いました。 植物の装飾を使った製品は1918年まで作られました。
3-8 花瓶 1900年頃
コスタ・グラスブリュック作 スウェーデン
デザイン Gunnar Gunnarson Wennerberg
旧Giorgio Slizerコレクション
フライブルグ Augustinermuseum蔵
写真 Michael Jensch
工房コスタの後に続く第2のガラス工房はレイミューラー・グラスブリュックです。 この工房でガレの手法を用いた製品づくりは1901年から1914年まで続きました。 初めてのマルケトリ手法の花瓶は、Betzy Ählströmと Anna Bobergが作成し、1902年トリノに出展されました。 このとても難しい技術は優秀なガラス吹き職人であるFredrik Kessmeierのおかげで非常に素晴らしい結果を招くことになりました。 1903年からは、この工房はコスタの元芸術協力者であったAxel Enoch Boman (1875-1949年)とFerdinand Boberg (1860-1946年) 、Alf Wallander(1862-1914年)と雇用契約しました。 そういったわけで、酸と回転盤によるグラヴュールを施したガラス製品はコスタのものと似ています。
3-9 マルケトリの花瓶 1902年
レイミューラー・グラスブリュック作
デザイン Anna Boberg(左)、Betzy Ählström(右)
Austrian Museum of Applied Arts/ Contemporary Art蔵 ウイーン
写真 MAK/Ekkehard Ritter
1914年には、スウェーデンの3番目のガラス工房であるオレフォス・グラスブリュクがガレの様式に従った酸によるグラヴュールの製品を作り始めました。 1917年まで、若い芸術家Fritz Blomqvistは個性的な作品をデザインしていましたが、ガレの作品や他のコスタやレイミューラーの工房とは画風が全く異なっていました。 1916年に、ガラス吹き職人のKnut Bergkvistが組み込み装飾の技術を発明しました。 作品を装飾したのちに再加熱し、無色ガラスの層を回復させる技法です。 この手順は既に1899年にドーム兄弟によって特許が取られていました。 この技術はグラールと名付けられ、1920年代になるまで工房の2人の装飾職人であるSimon Gate (1883-1945年) とEdward Hald (1883-1980年)に使用されていました。
現代ガラスアートへの影響
第一次世界大戦の終わりまで、エミール・ガレがガラス芸術に与える影響は、ヨーロッパの有名ガラス工房の大部分には際立ったものはありませんでした。 ドイツやベルギー、ボヘミア地方においては、実際芸術的な重要性はないにしても、1920年代の終わりまでにいくらかの反響がありました。 大戦後、ガラス工房の経営状況は実際のところ非常に厳しくなりました。 技術的、芸術的な試行錯誤をする良き時代は過去のものとなったのです。 多くの高級ガラス工房は、閉鎖するか製品を大量生産する方向に舵を切ることを余儀なくされました。 芸術性の高いガラス工房でも戦争の影響を受けない国にあったものは生き延びました。 フランスでもモーリス・マリノ(1882-1960年)やフランソワ・デコルシュモン(1880-1971年)といった偉大なアーティストたちのおかげで生き残った工房もありましたが、そこはガレの芸術的影響をもはや受けていません。
ヨーロッパのガラス工房がガレのお世話になったのは、製品を量産するという見地と花の装飾だけだと言えます。 時の権力者は、ガレの象徴性と、ガレ以外持ちえない繊細というよりも複雑なガラス加工のテクニックを吹き飛ばしてしまいました。
しかしながらガレの2つの技術革新は、今日においてもガラス芸術に影響を与え続けています。 回転盤によるグラヴュールの刷新と、熱型作りによる形成と彫刻の組み合わせです。 1889年の出版物で、ガレは自分より先行するガラス工房をこう形容しています。 「冷たく難解な作品だ。」 ユジェーヌ・ギヨームは、細かい石のグラヴュールについて話しながらこのテーマに対して返答しさらに付け加えています。 「ジュフロワが1800年代初めに仕上げた作品は、芸術家の憂鬱とその仕事が直面する実践の難しさしか伝わってこない。」 実際のところパリのロマン・ヴァンサン・ジュフロワ(1749-1826年)の作品は技術的に完璧といえる出来栄えでありながら、芸術家の感性は全く感じられないのです。
3-10
A, カメオ「ナポレオン」 1801年
ロマン・ヴァンサン・ジュフロワ作、パリ
写真 フランスにおける起源から現在までの宝石への彫刻の歴史 1902年パリ出版 より
B, 花瓶「イースターのアネモネ」1892年
エミール・ガレ作、ナンシー
エコールドナンシー美術館蔵、ナンシー
写真 ステゥディオ・イマージュ、ナンシー
エミール・ガレはグラヴュールを使った芸術を完全に新しいものとして復活させました。 その手法はグラヴュール技術の可能性をすべて使って、芸術効果をつけた足跡を覆い隠してしまうのではなくむしろ残すことを躊躇わないものでした。 伝統的なグラヴュールの手法では、そういったアプローチでは理想から遠ざかってしまうと考えられていました。 これがヨーロッパで伝統的に回転盤を使ったグラヴュールを使用していたガラス工房にガレのアイディアが即座に真似されることのなかった理由です。 しかしながら存命中から、ガレをロレーヌ地方のガラス芸術工房や、クリスチャン兄弟、ガレがいなくなった後のマイゼンタールガラス工房、ナンシーのドーム兄弟、ルネヴィルのミュラー兄弟がお手本としていました。
1920年代になると、グラヴュールなどの彫刻の装飾は新しい伝統とみなされるようになりました。 グラヴュールはよく平坦な沈み彫りでかたどられており、深く彫刻されたガラス作品たちは幾何学的なモチーフが描かれ大抵光沢がありました。 二人の芸術家がその方向から距離を置きます。 ナンシーのアリスティッド・コレットと、シュトゥットガルトのWilhelm von Eiffです。 コレットは大きなガラス製品に深い浮き彫り入れて艶なしに仕上げ、ビュランを使ってものをつくることに没頭しました。 肖像画と玉石の浮き彫り彫刻で非常に有名なVon Eiffは、もっと小さな作品を作っていました。 彼は弟子たちとともに「木版技術」と名付けられた技術を発展させました。回転盤の痕跡が彫刻の表面に残るように仕上げたのです。 Von Eiffは無色ガラスに「時々ガレの、また時にパリのユジェーヌ・ミッシェルのグラヴュールを」施したと言うことができます。 1927年からは、Von Eiffはナンシーのアリスティッド・コレットのような電撃的な彫刻家とともに彫刻作品を制作しました。 この二人のアーティストたちは彫刻芸術と1930年代のヨーロッパのグラヴュール技術、特に1932年と1934年のヴェネツィアビエンナーレ(国際美術展覧会)に影響を受けました。 コレットのクリスタルガラスへの彫刻は革新的なものでした。 シュトゥットガルトに設立されたVon Eiffの学校は、1950年代のドイツ人ガラス工芸家たちの影響を受けています。
旧ボヘミアのチェコスロバキアでは、ガレの様式のグラヴュールは1920年代の終わりまで使用されていませんでしたが、三つの学校がガレ様式のグラヴュールに専門化されます。 そのうち2つはオーストリア起源で、ノヴィー・ボルとカメニツキー・シェノフにあります。 3つめは純粋なチェコ由来の学校で、1920年にジェレズニー・ブロトに設立されました。 彫刻技術の養成はプラハの装飾芸術学校で、Josef DrahoÁovský(1877-1938年)の指揮の元に遂行され、伝統的な彫刻と製版を玉石とガラスに行いました。 その生徒の一人、カメニツキー・シュノフのAlfred Fritsche (1909-1945年)は初めてガラスの彫像にグラヴュールを使用しました。 1945年以降、このタイプのグラヴュールはチェコスロバキアで非常に流行しました。 DrahoÁovský の弟子のひとりであるKarel Hrodek (1915-1990年)は、ノヴィー・ボルの芸術学校でグラヴュールの講師となりました。 その生徒であった2人、Vacláv CiglerとJiÍí Harcubaは現在も活躍中で、チェコでは非常によく知られています。 Ciglerは光学レンズや接着レンズに彫り込まれた抽象的な彫刻の研磨に情熱を傾けました。 Harcubaは肖像の沈み彫りへのグラヴュールを専門としていました。 現代ガラスアートにおいて、回転盤のグラヴュールは様々な可能性を広げる役割を果たし、それはガレが生み出した芸術の遺産と言えるのです。
3-11 A) 球状花瓶 扇子と山形模様の装飾 1928年、
Aristide Colotte作 ナンシー
Augustinermuseum蔵、フライブルグ、写真Michael Jensch
- B) 洗礼用の水瓶 1929-1930年
Wilhelm von Eiff作、シュトゥットガルト
グラヴュールと彫刻 Nora Ortlieb と Arnold Hamann
Augustinermuseum蔵、フライブルグ
写真 Michael Jensch
3-12 A)花瓶 2人の横顔 1937年