エミールガレとジャポニズムとアールヌーボー

エミールガレの花瓶の凄さと歴史解説



先出しになってしまうのですが、こちらの左側が備前焼の獅子頭火入れって作品なんですよね。

備前焼とエミールガレの怪獣の顔の比較

そして、その右側にあるのが、エミールガレの作った『日本の怪獣の頭』という作品になります。

たまたま同じものが、奇跡的に作られた!?
もちろんそうではありません。
日本の備前焼が先で、それがヨーロッパ、フランスですね。
に渡り、それを目の当たりにしたエミールガレが備前焼の作品を模倣して、当時新しい芸術表現に可能性を見出したガラスを使って生み出された作品なのです。

この作品から分かる通り、エミールガレは、日本美術から深く影響を受けていますし、実際に相当数の日本美術のコレクションをしていたそうです。


目次はこのようになっております。

1.ジャポニズムってなに!?

2.アールヌーボーってなに!?

3.エミールガレの生い立ち

4.北海と出会い日本の心を学ぶ

5.実際の作品はどれくらいすごいの?

6.まとめ

 

1850〜1900年代のフランス芸術の時代背景


まずですね、エミールガレを理解する上で、理解しておかないといけないことが、2つの新しい芸術。

なんですよね。

ですので、まず最初にジャポニズムについて、次にアールヌーボーについて解説させて頂きます。


1760年くらいにイギリスで産業革命ってのが起こったんですよね。

ざっくり言ってしまうと、人がやってたことを機械がやってくれるようになって大量生産できるようになったんですね。

そこで洋服を大量に作れるようになったり、蒸気機関車が出てきて物の往来が活発になって、いろんな工場ができてきたという背景があります。

こんな感じでまず最初にイギリスが発展して、そのほかの国々も産業革命みたいなのが波及して、それぞれ発展していくこととなります。

じゃあフランスってその当時どういう感じだったかと言いますと、遅れること1830年くらいから産業革命が起こります。

貴族の人達は、元々すごいお金を持ってたわけですよね。

でも、産業革命によって富を得たのは、貴族の人たちではなくて、その下のランクの人達、ブルジョワジーって言って
資本家とか経営者の意味になるんですが、この人たちの層が爆発的に稼いで富裕層になっていたというわけなんですね。

だから、そんな会社の社長は、めっちゃお金持ってるわけじゃないですか。

その富裕層の人たちが、どうやって生活を豊かにしていこうかという風に考えて行った時に、やっぱり行き着くところは装飾品なわけですよ。

自分の部屋に良いものを飾りたいとか、カッコいいものを飾りたいという思いがあったんですね。

やっぱりヨーロッパってイギリスもそうなんですが、その上のランクの人たちの生活に憧れるわけですよ。
だから、振興成金の人々も、貴族みたいな豪華な生活に憧れを持ってたんですね。

ではそんな時代の中、どんな芸術が流行っていたのかと言いますとロココ様式をリバイバルしたネオロココ時代でした。
ロココ様式については、こちらで詳しく解説しておりますのでお時間のある際にご覧ください。



ただし1867年に開催された、パリ万博から雰囲気が変わり新しい芸術として、ジャポニズムの前進のジャポネズリーがブームになります。

 

ジャポネズリーとジャポニズムの違い


ジャポネズリーと言うのは、中国様式との区別ができておらずジャポニズムの劣化版と考えてください。

感覚的には、カリフォルニアロールって感じですかね。

あれを私たちは寿司って言わないじゃないですか。

でも、現地の人からすると、これが寿司かぁ・・・・


お〜寿司めっちゃ美味しい!

って感じだと思うんですよね。


だから、ジャポネズリーがカリフォルニアロールで、ジャポニズムを魚の切り身が乗った本物の寿司としましょう。

そんなカリフォルニアロールの状態でも、当時としては新しい芸術だったので『すげーかっこいい!』ってなってたんですね。

そして、これはフランスナンシーから段々と芸術が花開いていくことになります。

この後も出てくるんですが、基本的には流行ってのは都市から始まるじゃないですか。

福岡の天神初の、クレープ屋さんが・・・・

全国でブームなっています!
ってのはあんまりイメージできないと思うんですよね。

やっぱり流行の発信地は東京であって、分かりやすく言うと原宿は流行の最先端ですよね。

これはフランスも同じで、やはりパリが流行の最先端なわけですよ。

そしてナンシーは、1つの地方都市だったんですね。今もそうですが。

じゃあなんで、ナンシーからかって言いますとね、まずゴンクール兄弟ってのがナンシーにいたんですね。



この兄弟は、1850年代から、日本美術の素晴らしさを美術家や文筆家、もちろん一般の人々にも論じた兄弟なんですね。

イギリスのロンドン万博が開催されて、日本の商品が多く出されたのですが浮世絵とか、竹細工とか、漆器とか、歌麿や北斎の浮世絵を見たゴンクール兄弟は、日本の美術に大きな感銘を受けるわけですよ。



そして、その後に、フランスで1867年にパリ万博が開催されますよね。

ここから本格的にフランスの人々にも、日本の芸術が入ってくるのですが、ゴンクール兄弟は日本が好きすぎて、結局1881年には『芸術家の家』と言う本を出し、それには詳細な日本美術の紹介と詳しい解説を添えて、それを読むだけで、日本の芸術が分かるものでした。

こういった人物がいたことによって、ナンシーの芸術家は日本の美術に深い造詣を持っていたんですね。

その中には、ドーム兄弟、マジョレル、もちろんエミールガレもいました。

それだけでなく、ある1人の重要な日本人の存在があります。

高島北海という人物ですが、1885年4月〜1888年3月までナンシーに住んでいたのです。

この北海という人物ですが、幼少の頃から絵画の才能を表してはいたものの、職業としてはそれを選ばず農総務省に入り森林化学を担当します。
「森林科学」とは、森林についてあらゆる方面から科学的に研究する学問のことをいいまして、森林が私たちの生活に果たす役割、森林を保護する方法など、森林をテーマとする研究をする人ですね。

今の感覚で言うと、YouTuberとしての才能があったけど頭がいいから、国家公務員を選んだと言うところでしょうか。

親が長州藩のお偉いさんだったので、美術家という不安定な道をえらばせてくれなかったのかもしれませんね。

そして、北海は当時日本よりも進んでいたフランスのナンシーで、どのようなことが行われているのかを研究するために、留学して来なさい!

と命令を受けて、ナンシーに3年間住むことになったんですね。

先ほどもお伝えした通り、北海は幼少の頃から絵画の才能があり、また森林化学を先行していたことによって、植物に非常に造形が深い人物でした。

北海はナンシーに住んでいる間に、仕事をしながらも現地の芸術家に対して、絵付けや植物を始めとした昆虫の構図の描き方を教えました。

今ですね、北海の描いた花々や昆虫を出してるのですが、エミールガレの描いたその構図とかなり近いものがあるのは分かっていただけるのではないでしょうか?

ゴンクール兄弟の日本についての深い造詣、高島北海という日本美術に精通する日本人がいたことによって、ナンシーから世界へ大きな影響を与えるジャポニズムが育っていくことになります。

1888年、当時エミールガレは42歳でした。

では次にアールヌーボーについて解説して参ります。


元々はイギリスでアールヌーボーの原型である『アーツアンドクラフツ運動』ってのがあったんですよね。
産業革命によって、丁寧な仕事で1つ1つ家具や壁紙を作る人たちの仕事がなくなっていくことに危機感を持った、ウィリアムモリスが、こんな機械で作られたものなんて、芸術って言わないんだよ!


芸術ってのは、職人が1つ1つ作る物でしょ!

って言い始めた運動が、フランスも届いたわけですよ。
そして、それらの内容をみたフランス人はモリスさんの考えに共感して、俺らもこの考えを取り入れてやっていこう!

ってなります。

今までもですね、当たり前ですが職人さんが1つ1つ丁寧に作ってたわけですよ。

じゃあ、それまでと何が違ったかって言いますと、新素材が出てきてたんですね。

技術革新によって、鉄とかガラスとかそう言った新素材を使って芸術を表現できるようになってたんですよ。

これを新しい芸術という意味で『アールヌーボー』っていうんですよね。

だからこのアールヌーボーって言った時に、ガラスを使う『エミールガレ』とか『ドーム兄弟』とかが出てくるんですね。

他にもミュシャとかがいますけど、このアールヌーボーの特徴ってのは、自然とか『柔らかな曲線』を作品の中に取り入れてることなんですね。

不規則な動きとか、柔らかい曲線とか、そういうのを表現しようとしたら、やっぱり女性の髪がなびいてるところとか、くびれてるところとか、植物の葉がしなってるところとか、森林の奥ゆきとかになってくるじゃないですか。

だから、そんな作品が多いわけですよ。

そしてこれらってのは詳細に分けると2つに、分類できるんですよね。

ここからさっきのジャポニズムと繋がってくるんですが、まずひとつ目がパリ派で、2つ目がナンシー派なんですね。

だから、パリとナンシーって実は同じアールヌーヴォーでも、ちょっと違うんですよ。

パリ派って何かと言いますと、みなさんご存知のアルフォンスミュシャとか、グスタフ・クリムトですね。

感覚的には、『絵画』これがパリ派のアールヌーヴォーなんですよ。

ナンシー派っていうのは、工芸品ですね。

だから、ガラスとか鉄を使って作品を作ってるもの。

それがナンシー派のアールヌーヴォーという風に考えてもらうとわかりやすいと思います。

このパリ派とナンシー派なんですけど、最初に認識されだしたのは、パリ派のミュシャの方なんですね。

花の都パリっていうくらいなので、先にパリ派が来てその次に1900年のパリ万博をきっかけに、ナンシー派アールヌーボーが起こるんですよね。

エミールガレとか、ドームナンシーが一番活躍したこの1900年のパリ万博なのですが、ここで「あっ、ナンシー派のアールヌーヴォーも美しいじゃん。」という風に認識されたわけです。


実はこんな感じで、アールヌーボーってのは、2つに分けることが出来るのです。

こう言った感じで、フランスでは1800年代中盤からジャポニズムが来て、後半にアールヌーボーというダブルパンチで、さらに芸術が発展していくことになります。



話はガレに戻りまして、元々ガレはお父さんが工房を持ってたんですね。
お父さんはシャルル・ガレって人なんですが、お父さんはフランス政府が晩餐会で使用するグラスとかを作ってて、お父さんの時代から凄い工房だったんですよね。

でも、そのお父さんからエミールガレは今後このガラスの業界(テーブルウェア全般)ってのは、もっと競争が厳しくなっていくから、俺たちこのナンシーって田舎で戦っていくには、お前(エミールガレ)はデザインを勉強するんだ。

ということで、エミールガレは最初の方はデザインの勉強していくわけですよ。

ちなみにその頃、どういうテーブルウェア工房があったのかって言いますと、マイセン、サンルイ、バカラ、セーブル、などなど皆さんご存知のブランドが存在し、これらの最強ブランドがライバルとして立ちはだかっていたわけですよ。

ですので、やっぱりこういった最強ブランドと戦っていくためには、まだまだ王室御用達って言われているけれどもいつ終わりが来るかは分からない。

そこでガレが選んだのが、植物学でした。
なぜ植物を選んだのかと言いますと、そもそもナンシーというのは園芸植物の種苗(しゅびょう)生産が盛んで、ベコニアやフクシアの品種改良ではヨーロッパで一大中心地であったし、ヨーロッパ諸国やアメリカ大陸から羨望の目で見られるほどに進んでいたために、植物のことについては最先端だったからですね。

そういった植物も、先ほど説明したブルジョワ家庭に植えられ、庭師付きの豪邸を構えてお客様をもてなす。

このように、フランスの産業革命と植物というのは、密接に結びついていたんですね。

ちなみに私たちの感覚からは、ちょっと分かりにくいですがヨーロッパ、特にイギリスの人って自分の戸建ての家を持って、その庭に美しい花々を植えて、それを見せることも踏まえて家がデザインしてあるんですよね。

だから、私たちがイメージする『花』とは捉え方というか、植物の価値、がちょっと違うかもしれませんね。

そういったことから、幼少の頃からガレは植物に深い造詣を持っていました。

こういった状態だったので、1867年に開催された日本の作品が多く展示された、パリ万博では植物を多く扱うジャポニズムに大きな影響を受けたことでしょう。

1867年、当時、エミールガレは21歳でした。

そして、1885年に先ほど紹介した、北海と出会ことになります。

高島北海

その後の出来事なのですが、1888年に装飾美術中央連合って言ってちょっと小っちゃいけど、正式な発表会というようなところで、エミールガレは『菊とカマキリ』っていう作品を出すんですね。

これが、ジャポニズムを反映した作品なんですよ。

エミールガレ 菊とカマキリ

菊とカマキリがエナメル、透明ガラスの中に描かれているんですね。

技法面では、透明クリスタルに、当時としては新しい色ガラスを使い菊の花と葉、カマキリの輪郭を浮き上がらせます。

 


ここで、エミールガレの作品ってなんかすごい!と。

何かかっこいいねと。新しい可能性を感じるんじゃないか?

というところが認められていって、段々とエミールガレの実力が認知され始めるんですね。

そのあとにですね、エミールガレの名前を世界中に知らしめる出来事が起こるわけです。

この菊とカマキリも素晴らしく美しいんですが、評価された作品ってのはこの次の作品なんですよね。


それまでは、日本様式の表面をただなぞっただけの構図だったのが、北海と出会うことによって、そのような植物をただ単に装飾の一部にするのではなく、そのままの姿を器や花瓶や家具に、取り入れていくこととなっていきます。


では、そう言った時代背景やガレの生い立ちを理解したところでここからは実際の作品を見ていきましょう。

クロッカスやユリの蕾は花器となり、蜻蛉はテーブルの足になりました。

エミールガレ クロッカスの花の花瓶

エミールガレ 蜻蛉のテーブル
自然の姿をそのまま描写することは、日本の工芸品によく見られる特徴でこうした日本的な作品を多く残しています。

しかし、ここで一番皆様にお伝えしたいのはガレは、日本の「もののあはれ」の感覚を理解していたという点です。

おそらくこれは、ナンシー派以外の工芸家では実現できなかった領域ですが、北海がナンシーに滞在し、北海が日本の美術、及び日本人の心までをも教え込んだことによって、ガレはそれを作品に取り込んでいます。

このように芸術の最高点に達した、エミールガレですが1889年のパリ万博が開催されます。

その時に出したのが、皆様も一度は見たことがあるであろう、鶴首瓶『蜻蛉』です。

エミールガレ 鶴首型 蜻蛉の花瓶

悲しみの花瓶のシリーズの1点なのですが、こちらの作品は中央に蜻蛉が描かれ池へと落ちていく様子が描かれています。

儚い命の死にゆくさまを、表していますが、黒という色調が悲哀の様子を助長させています。

黒のガラスを使うというのは、一般的には当時のヨーロッパではありませんでした。

やはり、王侯貴族を頂点とするヨーロッパにおいては金が一番華やかで、力を象徴する色であり、ガラスで金を使うことが出来ずとも、それとは違う色で(前回のような下地にエナメルガラスを使って上から色ガラスを入れるなど)芸術を表現するのが普通だったからです。

そんな価値観が一般的な中、エミールガレというのはありえない黒を基調としたガラスを使ったのです。

この、黒を使ったのも『日本の侘び寂び』から大きく影響を受け、その心という部分までを理解してからでしょう。

このときにエミールガレはガラス、陶磁器、木の商品、この3つを出展して金賞と銀賞を受賞したんですね。

ここでエミールガレは、ガラス工芸においてアールヌーボーを代表する工芸家という風になるんですね。

この頃の芸術というのは、定義が決められていました。

彫刻、建築、絵画、これが大芸術でその他は少芸術ですよ!

という風に言われてたんですね。

簡単にいうと、大芸術は美術品として認めますが、少芸術はそれには含まれませんよ。ってことですね。

私たちは、絵画を見ても花瓶を見ても美しいと感じることができますが、当時のヨーロッパはそういう感じではなかったんですよね。

特に作り手側の気持ち的に、工芸品って花瓶とか腕とかテーブルを作るわけじゃない!?

でもそれってさぁ、純粋な美術品って言えないよね。

俺はさぁ、ただ見るためだけの『絵画』純粋に芸術を追いかけてそれを描いてるけど、そういう工芸品って実用でも使えるし、なんか逃げてる感じがするじゃん。

そんな感じで同等とは扱えない、そういう雰囲気というか空気感があったんですよね。

大芸術がえらいみたいな風潮ですね。

こう言ったのがあって、この頃の工芸家ってすごく苦労してるんですよ。

しかし、ガレは1889年のパリ万博で、小芸術に分類されていたされていた工芸品を大芸術の分類まで持っていき認めさせた、凄い人なんですよね。


その次、1900年ちょうどに、またパリ万博が開催されます。

この時の万博でも、グランプリを受賞するのですがここからはエミールガレのそれらの作品を見ていきましょう。

 

ヴェロニカ 1892年

エミールガレ ヴェロニカ

作品の中央部を見て頂きたいのですが、何かのメッセージが書かれています。

これは制作物が芸術として成立するには、表現すべき意味(抽象的な観念)が込められていないといけません。

このメッセージには、どの作品にも「愛国心」をテーマに掲げ、偉大なる祖国への愛がメッセージとして刻まれています。

ですので、小芸術から大芸術に押し上げるための1つの戦略だと考えることが出来ますよね。

 

菊 1900年 

エミールガレ 菊の花の花瓶

ガレにとっての『菊』の花は、日本の花としても認識されていました。

実際に北海の送ったメッセージに、『菊の国についてお伺いしたいことがたくさんございます。』と語っている資料も残っておりガレにとっては、特別の花だったのでしょう。

エミールガレ 菊の花のデッサン画

こちらはエミールガレがデッサンしたものになりますが、作品と見比べてみると、そのまま菊の花が描かれた写実的な作品に仕上がっています。

 

 

蘭文花瓶 1900年

エミールガレ 蘭文花瓶

エミールガレ 蘭文花瓶

ドーム兄弟の作品もそうですが、蘭の花を題材にした作品は多く作られています。

エキゾチックで奇妙な形をした蘭の花ですが亜熱帯の植物であり19世のヨーロッパでは珍しい植物でした。

そのため、栽培方法は確立しておらず貴族や、上流のブルジョワジーだけが楽しめる宝石のような花でした。

表面のカトレアからは、神秘的で微動だにしない美しさや生命力が表されていますが、裏面を見てみると花は枯れ、儚さを感じます。

表面だけを見れば、美しいものでも裏面の哀れさを入れることで、『生』と『死』の対比が強調されています。

 

 

水仙文花瓶 1900年

エミールガレ 水仙文花瓶

春一番に咲く、水仙の花が描かれています。

背景が紫であり暗い印象を与えますが、水仙の白さとのコントラストを生み出し、バランスのとれた美しい作品に仕上がっております。

マルケトリーという技法を使っています。

溶けたガラスの表面に、あらかじめ準備しておいた色ガラスを片を貼り付け、再度加熱処理して素地にならし込み色模様を作り出します。

 

 

ヒトヨタケ 1902年

エミールガレ ヒトヨタケ

先ほど説明した、北海に習ったと思われる装飾と形態の一体化の最高傑作作品である「ヒトヨタケ」でございます。

ヒトヨタケは、数日間かけて成長すると、夜になって笠を開きその名の通り、一夜にして柄だけを残して溶けてしまう植物です。

ガレはこの短命な、ヒトヨタケの成長を3段階をそのままランプの形に表現しました。

この作品は、共存する生命の死を糧として成長を遂げ、また土に帰っていくヒトヨタケの姿に象徴される、自然の摂理を表しています。


このヒトヨタケは、エミールガレ晩年の最高傑作と言われ、これを作ったガレは白血病によって1904年に亡くなってしまいます。

1901年から白血病を患っており、少し制作しては休養を繰り返していたと言われています。

そのため、この作品の中に自分の生時代の躍動感を取り入れ、晩年の死への悲哀さを重ね合わせてるのかもしれません。

 

最後にまとめなのですが、エミールガレがなぜここまで日本のことに詳しく、今の私たちでも惹かれる奥深い芸術を生み出すことが出来たのかが、ご理解して頂けたかと思います。

そこには、日本様式を深く追求したゴンクール兄弟がいて、心の部分を教えてくれた北海がいて、産業革命からアールヌーボーという植物を題材にしたものが扱われる時代背景があり、ガレはちょうどその中心にいたのだと思います。

ガレの歴史を知り、それを理解することでまたさらにガレの魅力が引き立つのではないでしょうか。


本日の動画が、参考になったという方がいらっしゃいましたら、チャンネル登録といいねの方よろしくお願いいたします。

 

今日はここまでご視聴いただきまして、ありがとうございました。