フランスのガラス工芸家 ルネラリックのジュエリー、宝飾、ガラス職人としての歴史と香水瓶
ルネラリックの素晴らしき才能
最初の宝石デザインがルーブル美術館に展示された1884年から死に至るまで
ルネラリック(フランス人、1860年-1945年)は、初期にアールヌーボー様式で、
後にアールデコ様式で、驚くほど美しく独創的な作品を手掛けました。
彼は変化を受け入れ、流行を作り出し、裕福な権力者のみならず、中流階級のお客様に向けた作品も提供する会社を立ち上げ、成長させました。
ラリックは芸術とデザインの達人であり、様々な物質を融合した美しい作品の制作を追い求めました。
その中でも彼が好んだのがガラスだったのです。
彼は自身の芸術的な構想を成し遂げるため、ガラスの性質を研究し、作品制作に様々なガラス作りの技術を使用しました。
ラリックは機械化されたガラス製品の製造法を導入していたものの、彼の作品を大量生産ととらえるのは決して正しくはありません。
彼の全作品は、その多くの製造工程が手作業なのです。
この個々に合わせた製造法が、美しさと質においてラリックのガラスを格別にしています。
- 1913年にデザインされたLizards and bluetsを見つめるルネラリック。
写真は1925年頃撮影されました。
コーニングガラス美術館はこの花瓶の黒いオパーク版を持っています。
ラリックの60年という長く多作なキャリアは、作品と重要な出来事で視覚的に展示されており、初期の宝石職人(1885-1908)から、単独でのガラス研究(1909‐1919)へ移行します。
ガラス職人として第二のキャリア(1920‐1925)、そして晩年の建築用ガラス職人としての職務(1926-1945)をたどっています。
作品は、装飾的な花瓶、自動車の飾り、たばこのアクセサリー、宝石、香水ボトルと化粧台アクセサリー、テーブルウェア、照明、鋳物と金型モデルというようにテーマ別に展示されました。
ルネラリック:宝石職人(1885-1908)
1860年に生まれ、ラリックは幼少期をフランスの北東にある小さな村Ay(エイ)の野原や森、庭園を探検して過ごしました。
彼はパリの学校で絵画の腕を磨き、12歳で初めて絵画コンテストで優勝しました。
1876年に父親が他界してから、ラリックは2年間名誉な宝石職人ルイス・オーコック(フランス 1850-1932)の下で見習いとして働きました。
オーコックのスタジオで彼は、宝石職人並びに金細工職人となるために必要な技能を学びました。
ラリックは1885年にはパリで独立し、1891年にはガラスの研究と実験を始めました。
ガラスは象牙や宝石の原石と比べて、柔軟でそれほど高価でなかったため、ラリックにとって終わりのない創造力の根源でした。
ラリックの最初の宝石作品は、フランスでjoaillerie(ジョエルリ)として知られるスタイルで、台枠や構図は貴重な石や金属を誇張し輝かせるようにデザインされました。
最終的に、ラリックやフランスのその他アールヌーボーの宝石職人は、bijouterie(ビジュトゥリ)という異なるスタイルの宝石で有名になりました。
Bijouterie(ビジュトゥリ)は宝石の全体的な構図と色を重視して、半貴石と、角や骨、エナメル、ガラスといった非伝統的な材料を組み合わせたデザインを組み入れました。
ラリックがガラス職人に転身してからも、彼は決して宝石に対する愛情を捨てきることなく、後にプレスガラスを材料にした宝石を作り上げることとなります。
ラリックの宝石職人としての絶頂期は、1900年のパリで開催されたパリ万国博覧会でみることできます。
それは、全世界から5000万人以上が参加した影響力のあるワールドフェアでした。
そこではラリックオリジナルのアートヌーヴォー宝石や骨董品100点が展示されました。
ガラスへの移行(1909-1919)
1909年には、ラリックは名高い香水製造者 フランソワ・コティ(フランス、1874-1934)のために、上品なガラスの香水ボトルを作成し、1909年から1913年の間に、約16個のボトルとそのストッパーをコティの香水向けにデザインしました。
- 1909年にデザインされた香水ボトル、ストッパー、箱。酸エッチングされ、緑青を用いたブロー成型のボトルとプレス成型のガラスストッパー。ボトル:高さ14cm、幅5cm、奥行5cm 箱:縦15cm、横6.5cm、奥行6cm
彼は1930年代にかけてガブリエラ、ゲラン、ルシアン・ルロン、オルセー、ロジェ・ガレ、ウォルト、その他香水製作者向けのボトルデザインを作り出しました。
ラリックはまた、お客様が好きな香りを入れられる香りボトルを彼自身のブランドで(特定の企業と組むまず)デザインしました。
フランスの香水産業におけるラリックの成功により、宝石職人からガラス職人への道が確固たるものになりました。
生産を続けるため、1909年にラリックはパリの郊外Combs-la-Ville (コン・ラ・ヴィール )という町に大きなガラス工場を借りました。
ラリックは、香水ボトルに加え、装飾的な花瓶、テーブルウェア、照明器具、自動車モデル、建築用ガラス、そしてデスク、たばこ、化粧台のアクセサリーを生産しました。
ラリック初のガラスだけを扱った展示会は1912年12月に、フランスのヴァンドーム広場で開催されました。
その開催に際して、彼は客引きのため、深緑のプレス成型ガラスのメダルをデザインしました。
べダルの側面にある浮彫のヤドキリが印象的で、反対の側面には、“ルネラリックのガラス展示会へご招待 1912年12月 パリヴァンドーム広場24番地にて”と記されていました。
ノルウェーの芸術評論家で芸術家理事であったニールセン・ラルヴィクによる
1912年のカタログでは、ラリックのガラス製造における賢明な機械の使用を称賛しています。
ラリックの真の強さがここにあります。彼の完成された
職人技によって、作品の芸術的質に全く影響を与えることなく、
機械を利用することができています。彼の手にかかれば、機械が
その役割を顕わにせず、手作りでは成しえないほどの数の作品に
彼のアイディアを表現することができるツールとなります。
1913年にラリックは、彫刻家モーリス・ベルゲリン を雇い、ロスト・ワックス技法のガラス工芸・造形ワークショップを実施しました。
1914年には、ベルゲリンの助けを借り、ラリックはロスト・ワックスの製造に関する特許を申請しました。
ロスト・ワックスの作品を作るための最初のステップは、陽性のワックスモデルを作ることです。
ワックスは難溶性の土または石膏混合物で覆われ、乾燥します。
次に加熱することで、ワックスが内から溶け、空洞のある鋳物となります。
そして造形または鋳造されたガラスをその中に流し込み、ゆっくりと冷まします。(焼きなまし)
最後に、鋳物を慎重にガラスからはがし、比類ない作品が完成します。
コレクションにあるラリックの鋳物とモデルはこちらをご覧ください。
- 左:1930年の花瓶 Martins-pecheurs sur fond de roseaux(アシを背景に飛ぶカワセミ) ロストワックス法を使ったブロー成型ガラス。 高さ26.3センチ、直径32.1センチ右:1932年の花瓶のモデル Martins-pecheurs sur fond de roseaux(カワセミとアシ) ワックスと塑像用粘土の鋳造モデル。 高さ32.1cm、直径29.6cm
ルネラリックの ガラス職人(1920-1925)
1921年にラリックは東フランスにあるWingen-sur-Moder(ウィンジャン・シュル・モデ)のAlsatian(アルザス)という町に新しい工場を完成させました。
- 1928年にデザインされた車の飾り(カーマスコット)Victoire(勝利) 酸エッチングされたプレス成型のガラス、金属のラジエーター・キャップ、その下は木製の土台。 高さ23cm、幅24.6cm、奥行10.1cm
ガラス制作は、Alsatian(アルザス)地区で認められた産業だったため、ラリックは地元のガラス製造者を彼の工場で雇うことができました。
現在も稼働しているWingen(ウィンジャン)工場では、ラリックのガラス生産の幅と量が拡大しました。
1920年代には、女性の社会的役割が急激に変化しました。
この“新しい女性”は投票をし、車を運転し、振る舞いや見た目はより緩やかになり、しばしば煙草も吸うようになりました。
ラリックが1920年代にデザインしたプレスグラス作品の中には、ラジエーター・キャップや自動車の飾りに加えて“新しい女性”向けの灰皿や煙草アクセサリーがありました。
ラリックはガラスの特徴的な性質に魅了されました。
その特徴の一つは、光を送り、反射し、拡散させることです。彼はこの固有の性質を照明デサインに大きく反映させました。
彼のキャリアを通して申請、発行された16つの特許のうち、4つが光を使ったものです。
最も知れ渡ったラリックの代表的なガラス作品の一つが花瓶です。
1909年から1942年の間に、ラリックは450以上もの異なるスタイルの花瓶をデザインし、3つのガラス製造技術を使用しました。
吹き込み鋳造、プレス鋳造、そしてロスト・ワックス鋳造への吹き込みです。
ラリックはガラス製品の機械製造法に関する多くの特許に申請し、受諾されましたが、それを大量生産ととらえるのは正しくありません。
全ての作品が多くの製造工程において手作業で行われていたからです。
ちょうど1900年の万博で、ラリックの宝石職人としてのキャリアが絶頂に達し、1925年のパリ万国博覧会で、ガラス職人としてのキャリアが絶頂に達しました。
ラリックのガラスは、革新的なパリの展覧会で展示され、アールデコ様式に名を連ねました。
自然からくる様式化したモチーフ、機械の美化された表現力、大胆な色、そして人の姿を古典的にまとった薄型の覆いは、この新しい芸術トレンドを特徴づけています。
彼がロスト・ワックスの花瓶を多く展示した博覧会では、彼自身のパビリオンを建築するだけでなく、400フィートの高さに及ぶLes Sources de France(フランスの春)と呼ばれる光り輝くプレスガラスの噴水を作り上げました。
その噴水では、ギリシャ神話に登場する13人の女性を描いた大きなガラスの像が特徴的です。
- 1925年のパリ万国博覧会で設置られたラリックの光り輝く噴水、Les Sources de France(フランスの精神)の夜景。建築家マーク・デュクリュゾー。ラリックのパビリオンは噴水の右に位置しています。
ラリックは、博覧会のカタログとガイドの前置きに“ガラス製品”というエッセイを書きました。
そこで彼は多くのガラスを取り入れたことに対する主催者を称え、装飾そして建築材料としてのガラスの良さと可能性を称賛しています。
1925年のインタビューで、フランスの芸術評論家マクシミリアン・ゴーチェからラリックの独創的な手法を 問われたとき、彼は主に2つのインスピレーションを明らかにしました。
それは、女性と自然です。
どちらも、彼がデザインしたほぼ全ての宝石やガラスに見受けられます。
私は見つめ、観察します。女性、子供、鳥の飛行、
水中の魚のように光と調和した木、
そして突如、形、姿、しぐさ、動きが調和され、
私の心に刻み込まれ離れません。
そしてそれがこれまで見てきた他の組成要素と合わさります。
これが長い間私の心の中で熟考されたとき、
作品が出来上がり、後はそれを拾い上げるだけなのです。
ルネラリックの任務と建築用ガラス(1926-1945)
ラリックは、1920年代に、建造物、豪華客船、そして列車に向けた多くの装飾的な建築用ガラスを作成するよう任命されました。
この任務の中には、黒い鳥やグレープが描かれた装飾的なパネルがありました。
これは、1928年頃に、暗い青色の寝台列車であるLe Train bleuまたの名を“青い列車”のためにデザインされました。
この豪華な列車は、有名なオリエントエクスプレスが経営するベルギー国際寝台列車社によって作られ、運用されました。
- 1932年にWanamaker's Men's Store(ワナメイカーのメンズストア)のために作成されたパネル、Athlete et feuillages(アスリートと枝葉) 緑青が施されているサンドブラストのガラスパネルで、銅コーティングされた金属フレイムがついています。 高さ2.83メートル、幅1.64メートル、奥行9.5cm
1932年にラリックは、フィラデルフィアにある
Wanamaker’s Men’s Department Store
(ワナメイカーのメンズデパート) のために、
サンドブラスト技法を使った大きなガラスパネルを作成しました。
ジョン・ワナメイカーは1877年にWanamaker’s Department(ワナメイカーのデパート)
をオープンし、フィラデルフィアで初めて、アメリカ全土でも初頭のデパートとなりました。
1932年に少し離れた通りにMen’s Store(メンズストア)がオープンしました。
1930年代の世界大恐慌により、豪華な品物の国際市場は低迷し、1937年にラリックはCombs-la-Ville(コン・ラ・ヴィール ) 工場を閉鎖せざるを得なくなりました。
3年後、第二次世界大戦により、Wingen(ウィンジャン)の工場も一時的に閉鎖しました。
ラリックは1945年5月9日に85歳でこの世を去ります。
それは連合国の勝利宣言の翌日でした。
Wingen(ウィンジャン)工場は、息子マーク・ラリックによって、その年の暮れに再び稼働を開始しました。
それは、父の会社を現在まで続けようと誓った彼の努力だったのです。