フランスの高級ガラスブランド バカラ(baccarat)村の歴史
フランス北東部に位置するバカラ村にクリスタルガラス工場が作られたのは1764年、ルイ15世によってガラス工場の設立が許可されたと言われています。
それ以前のバカラ村はどのようなところだったのでしょうか。
また、現在のバカラ村はどうなっているのでしょうか。
ここでは、ガラス工場設立以前のバカラ村の歴史と、現存するバカラ村の主要建築物の歴史を見ていきましょう。
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ガラス工場設立以前のバカラ(baccarat)村
バカラの小さな村は心地のよい谷にあり、ムルト川が流れるヴォージュ山脈の谷間に位置しています。
小川をまたがって、右側にはバカラのクリスタルガラス工場と何軒かの住居があり、大きな石橋で左側の村の主要部分と繋がっています。
バカラ村の名前が初めて登場するのは13世紀の終わりごろ、1292年の財産分割法の中に現れています。
当時は荒れるムルト川の右岸に建つ廃屋の寄せ集めといったようなものしかありませんでしたし、近隣唯一の都市であるドゥヌーヴルと一体として考えられていたようでありました。
しかしながら、おそらくこの小さな内輪の共同体であったとしても、バカラという名前はこの時から既に日常的にその地を表す用語として使用されていたようです。
実際の所、その独自の地区は、自然に村の主要部分からは離れて構成されていて、村はリュプト川の支流によって隣の丘陵とは隔たっています。
この支流はモワン・ドゥ・マメ池の谷間を通過して、その水はもっと下流でムルト川に注ぎ込んで無くなります。
1292年の財産分割法にはブシャール・ダヴェヌの司教からブラモン地区のアンリに向けての譲渡について明記されていて、左岸の小さな支流が流れているところの先から全部を譲渡し、右岸はメスの司教の国王特権区としてそのまま保存されました。
その後ドゥヌーヴルはその司教に属することをやめましたが、バカラはそのまま残りました。
しかしこの少数グループの家々は、聖職者たちの住居があったおかげでこの時代の大多数の領主たちよりも常に聡明で大切にされており、実際の権威を取り遅れることはありませんでした。
司教たちの城によって守られており、ドゥヌーヴルと同様に険悪な敵対関係があったため、ブラモン卿は自身が所有する莫大な財産のためにメスの司教区をささげることになり、建築には慎重に検討し注意を払って1300年から1320年の間に大きなタワーを建設しました。
今も現存しており、「ささげの塔」と名付けられたこの塔は、今も村の起源を伝えています。
アデマル・ドゥ・モンティ司教はバカラを強固な城壁で囲むことによりそれに答えました(1330年)。
ロレーヌ摂政とシャトー=サラン地域を取り合う戦争の勝利者である彼は、シャトー=サランを手に入れ、自分が所有する他の地方と統合し、結局のところ自分が勝利した影響力を使ってささげの塔を買い取り、自身が作った城壁へと繋げました。
またはバカラの歴史を知るための記録
我々がバカラの研究をするにあたって、まず城塞を作り上げたのは一番最後の司教であるアデマル・ドゥ・モンティであったということをまず申し上げたいと思います。
その何年か後、この司教は我々が現在も見ることが出来る大きな塔を手に入れました。
この歴史的大建造物は14世紀の初めにブラモン卿でありドゥヌーヴルの第一領主でもあるアンリ2世によって建設され、その近郊に所有していた莫大な財産のためにメスの司教にささげられました。
そのような事情により、ささげの塔と名付けられたのです。
この塔は真っすぐでない四角の意思を積み上げて建設されており、全く飾りや凹凸もなく、建築様式も何もなく、物体としての圧倒的な大きさ以外に注目すべき点はありません。
基礎を除いた壁面の高さは2m86cmで(これは正に昔のロレーヌ地方の長さの単位トワズに一致する)、この幅は建造物が終わるまで保たれています。
建物は何とかかろうじて石積みで設置されている階段でたどり着くことが出来ますが、その大部分は荒廃して損なわれてしまっています。
この建物は4階建てで建築されていて、光を窓からと城壁の峡間部分にたまたま穴が開いたとみられる14か15の開口部から取り入れていて、それらの開口部はすべての面に分散しています。
しかしながら、南側にある壁は別で、そこは全くプライベート用だったようです。
この特殊性を理解するのは簡単です。
実際の所、もしメスの司教が人にこの城塞を登ることを許したとき、城の側面に穴が開いていたら1日も弓矢から身を守ることが出来ないでしょう。
大きなアーチ形の開口部が北の高い場所に位置していて、そこから簡単に足跡を辿ることが出来る大きな階段にたどり着くことができ、それらは今日では崩れてしまっている丸天井の下にあります。
そこからしか塔に上るための二つ目の階段にたどり着くことは出来ません。
建物の横に穴をあけて作られ、石積みの開口部とつながっているこの初期の入り口は、メスの司教がささげの塔を買い取り自分の城と繋げたときに壁で覆ってふさがれました。
そのため、ジャンダルメリー市役所の下に見られる大きなアーチ形の通路がこの城塞に入り込むたった一つの入り口となりました。
すでにその何年か前からこのブラモン卿の作品の取り壊しを模索していましたが、請負業者が期待する見返りを出すことが出来ず、この文化財の破壊は中止されました。
床が無くなったのもこの時期です。
床はお互いに接近した梁に支えられた状態になり、その梁は建物の強度に貢献していました。
かなり高さのある尖塔型の屋根は同様に取り除かれました。
その時から初期のささげの塔は内部も外部も厳しい気候にさらされることになり、完全に放棄されてしまったようです。
階段はだんだんと崩れていき、修繕することなど思いもよらないほどでした。良い状態に戻すのにどれだけの費用がかかることでしょう。
この廉価な方法で覆う工事は少なくとも物好きな人々にこの古い建物の上から美しいパノラマを観察することを可能にするでしょう。
しかし誰が主導権を取るべきなのでしょうか。市役所の幹部でしょうか?我々の中で現世を離れた独創的なやり方をしたい人が成し遂げたのです。
それは好戦的な司教であるアデマル・ドゥ・モンティ、ロレーヌ摂政とのシャトー=サランを取り合う戦争でこの塔を獲得した彼は、他の地方の都市を奪い壊滅させました。バカラの町への報復を恐れた彼は防備を強化すべきだと考え、塔の所有者であるブラモン卿のアンリ2世に買い取りを持ちかけたのです。
城と結合したのはコンラッド・バイエル・ドゥ・ボパルト司教のもとででした。
バカラ、ロレーヌ地方のクリスタルガラス製造技術発祥の地
フランス北東部、ムルト川の流域に位置するバカラ村は、クリスタルガラスの製造で有名です。
クリスタルガラスはガラスの中でも薄く繊細なことで世界的にも名高く、美しさと豪華さ、そして品質の高さを兼ね備えており、その技術情報は異例にも世代から世代へと二世紀もの間製造工場にて引き継がれています。
ここからは、建築物とその歴史について見ていきましょう。
労働者用共同住宅
クリスタルガラス工場の労働者用共同住宅は「クリスタルガラスの宮殿」と名付けられており、ライムの木に沿ってガラス職人たちの住居である建物がいくつも並んでいます。
ガラス職人たちは、クリスタルガラスの「工房の窯」が準備が出来たことを知らせる鐘の音が鳴るとすぐに、工場に走っていきます。
元々は中庭の周りに1764年に建てられた4つの労働者用居住地で構成されていて、その中で2つある突き出た部分は2人の現場監督専用の住居として使用し続けられており、今日でもクリスタルガラス工場の技術者や情報技術者に使用されています。
この集合住宅地は、様々なものを取り入れて大きくなり、工場労働者の子供たちのために小学校も含まれていました。
労働者用の小さな家は4つの部屋がある3階建てで、一つまた一つと隣接して建っており、そこには今も60家族が暮らしています。
これらの住居では1823年から家賃を免除されています。感情をこめて想像するに、前世紀の労働者やその家族たちは蝋燭と灯油ランプの明かりがともる中、この城の招待客を連れたベルリン馬車が通るのを見つめていたことでしょう。
今日でも、朝の四時には、駐車場には労働者たちの出勤の車が集まり混雑します。小さな入り口を毎日800人ものガラス工場の従業員たちが通勤のため通ります。
聖アンヌ礼拝堂
1775年に建立され、白と労働者住居の間で冷作業用のアトリエの横にあるこの小さな礼拝堂は、ガラス工場が建てられたころに工場敷地内に居住するガラス職人たちのために作られました。
昔は屋根が完全にスレートで覆われていました。現在はバカラの歴史をテーマにした臨時の展示場として使用されています。
バカラ クリスタルガラスの城
1764年に建築されたこのクリスタルガラスの城は、ガラス工場の買い手であるエメ・ダルティーグのために増築され、1817年に側面に主要部分を2つ付け加えました。
19世紀には、ここはガラス工場の経営者の邸宅として使用されていました。
1階のラウンジは1998年に修復されて工場の来客者専用となっており、青や赤、黄色の13室の素晴らしい寝室があり、
部屋ごとにシャンブラン伯爵、シャルル10世、フォントゥネ、アルティ―グ、モンモランシーといった名高い名前をつけられています。
室内のインテリアはとても豪華で、シャンデリアや花瓶、蝋燭台やガラス装飾品が飾られています。
キッチンの戸棚にはリュネヴィルの食器があり、階段の手すりについている球やドアの取っ手はクリスタルガラスで出来ています。
また、この建物は全体がフランス風の生活の中のアートが反映されています。
洗面所には浴槽と洗面台、古い給湯設備があります。そして、一階からは19世紀初頭に、
プライベートの小道と一般用の小道の2分された眺めの良い豪華な庭の景色が広がります。
バカラ美術館
この城には、インフォメーションと2015年に新しくオープンしたばかりのクリスタルガラス美術館もあります。
ここでは700点以上に上る写真やイラストなどによる、吹きガラスやカットガラス、彫刻、金箔飾りや多色エナメル彩色などのガ
ラス加工技術が装飾作品や香水瓶などの技法などが詳しく様々な方法で情報が展示されています。
手の込んだ舞台装置のような空間の中で、訪問者はバカラの遺産を象徴する作品を見つけます。
2014年にバカラが250周年になるのを祝って開催された、クリスタルガラスの伝説バカラの展示会の時に
展示されたものもあります。
その他、展示されている代表作は、1828年に初めて工場を訪れた時にシャルル10世に提供した水差し、
またロシア皇帝に提供した24本のろうそくを灯す大燭台、肘掛椅子だけでも作成に250時間はかかるマハラジャ用の家具な
どがあります。
小さい部屋ではその他の作品を作る工程を見ることが出来ます。アルクールシリーズやロシア皇帝の印象的なグラスなど・・・。
権威ある王室からのオーダーや、世界中の有力者たちに着想を得た作品が並ぶテーブルを最後に迎えてくれます。
サン=レミ教会、20世紀のモダンアートの至宝
1944年に解体されたバカラのサン=レミ教会は、土台部分がムルト川にありました。
その後、1953年から1957年の間に建築家のニコラ・カジが地元の建築家ラクネールの助けを借りて再建されました。
この教会は三位一体の三角形の記号が全体に配置されていて、鐘楼はピラミッド型で地上55メートルの高さで建てられています。
教会内にあるステンドガラスの「証言する人々」の色ガラスは2万ピースあり、バカラのクリスタルガラスで制作されており、
すべてバカラの職人たちによって手がけられ完成しました。
150トン以上のクリスタルガラスがコンクリートの中にはめ込まれています。テーマは「生と光」となっています。
聖櫃と聖歌隊に対して左右対称の洗礼盤は12使徒を表現した大ステンドグラスにより光を浴びることになります。
上部ではクリスタルガラスの板が細かくカットされコンクリートでつなぎ合わせて集められ、色とりどりの光の輝きを放っています。
格天井は130ピースのヴォージュのモミで作られています。
ネオ=ルネサンス様式の市庁舎
1924年に建築家ヘンリー・ウィルフリッド・ドゥヴィルによって建てられ、2004年に改築されたこの建物は、フランドルの邸宅様式に着想を得ました。
正面には彫刻家ミシェル・マレルブ作のグレーのクリスタルの丸い装飾壁、道側には
また違ったクリスタルガラス細工があり、川側にはクリスタルによる女性が刺繍などを
する姿を表現した装飾壁があります。厳かな正面階段から上の階へ上ることができます。
そこにはジャン・プルヴェ作の欄干があります。客間は1924年にこの部屋のために
特別にデザインされたバカラ社のクリスタルガラス製の4つのシャンデリアと6つの
壁灯で飾られています。
バカラと香水
最後に、バカラと香水の関係について見ていきましょう。
バカラの有名な高級モデルプレステージの文様はフランスのクリスタルガラス工場で
メゾンの香水瓶の作成から誕生しました。
この豪華な香水瓶の芸術によりバカラクリスタルガラス工場は重要な役割を果たしました。
1897年には1日150個の香水瓶を作成し、1907年には4000個に達しました。
バカラのサインを使用することを許された、美しい香水瓶たちは、名高いメゾンからいくつもオーダーを受けました。
ピヴェール、ウビガン、ジャン・パトゥ、キャロン、ジャンヌ・ランバン、ゲラン、ディオール(ミス・ディオール1949年、ディオ―リング1957年、ディオリッシモ1955年、ジャドール2001年)など・・・。
それらはバカラ美術館でも鑑賞できますし、南仏グラースにある香水瓶美術館
でも同様に見ることが出来ます。
1942年にサルバドール・ダリにデザインされたエルサ・スキャッパレリの
香水ロイ・ソレイユは金色のショーケースの中に展示されています。
この香水瓶はバカラのクリスタルガラス製で、世界に200点ほどしか
残っていないものです。
このシュールレアリズムの香水瓶は燃え立つ太陽の中に栓カバーの役割を果たす
鳥の飛翔によって無邪気な表情を表現しています。
ジャック・ゲランが1937年にロシアのバレエプロデューサーであるディアギエフ
へのオマージュのために作成した豪華な香水瓶は青いバカラのクリスタルガラス
製で、蝶結びを表す金箔で覆いつくされています。
2006年にはベルサイユ宮殿とのコラボレーションで格式高い「女王の通った後」
の香水瓶を作成し、素晴らしい香水調香師であるフランシス・クルジャンがマリー
=アントワネットの香水を再現しました。
バカラは香水瓶づくりからコスメ香水産業に乗り出しました。
「レ・ラルム・サクレ・ドゥ・テーベ(テーベの聖なる涙)」に加えて
「ユヌ・ニュイ・エトワレ・オ・ベンガル(ベンガルの星月夜)」と
「アン・セルタン・エテ・ア・リヴァディア(リヴァディアのある夏)」を
同じクリエーターが作成しました。
1998年にクリスタルガラス・宝石細工工房バカラから1500点だけ販売された
このシリーズは、希少な香水になっています。