ブローバ社 最強のミリタリーウォッチカンパニーへ 戦禍の努力

戦場と作業場でブローバがアメリカを勝利へ導く!

Bulova 'Hack' system

Soldiers sync their watches before heading into battle using the Bulova ‘Hack’ system / Credit: AOM 

 

ブローバの成り立ち

ジョセフ・ブローバはわずか19歳の頃、アメリカで事業をしようと、故郷のチェコを後にしました。

当時すでに時計製作と金細工の世界に没頭していたジョセフは、ニューヨークに着いて間もなく、ティファニー社に就職をします。

 

1875年、ジョセフはティファニー社を退社した後、ニューヨークでJ.ブローバ社の設立に至ります。

 

第一次世界大戦の終盤、ジョセフは消費者が、これまでの懐中時計よりも、腕時計を好んでいることに気づきました。

単にこれをブームだという人が多い中、ジョセフは自分の信念に基づき、大きな賭けに出ることにしました。

それが1919年の紳士用腕時計のフルラインの発表だったのです。

 

彼の信念は正しく、1924年にブローバは初の女性用腕時計のフルラインを発表しました。

その革新的な製造技術や部品の標準化、そしてデザインにおいてのリーダーの地位を確立したブローバは、世界的な現象を巻き起こすこととなりました。

 

ミリタリーウォッチとしてのブローバ

1940年代前半、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカの参戦の必要性が高まり、ブローバはアメリカ政府と戦争支援の協定を結びます。

 War advertisement

War production advertisements for Bulova / Credit: Bulova

 

ブローバ社が製造したものは、航空計器、望遠鏡、航海時計、航海腕時計、時限ヒューズ、そして宝石のベアリングなどに渡りました。

 

1924年の女性用腕時計の生産から、わずか10年にして、ブローバ社は、「戦場で勇敢な兵士たちが、敵を空からも、海からも、陸からも敵を撃破できる!」機器を開発するまでに成長したのでした。

 

1940年代の戦禍、ブローバは多くの軍事用の時計を製造していました。

その中でも最も人気の高かったモデルの2つは、「ハック」ウォッチと「A-15パイロットウォッチ」でした。

 

ブローバ 第二次世界大戦 ‘ハック’ ウォッチ

Bulova WWII Hack Watch

Bulova WWII ‘Hack’ watch / Credit:The Truth About Watches

 

海外で戦うアメリカ軍への継続的な支援の一環として、ブローバ社は完全に新しいシステムを開発を開始します。

「ハック」ウォッチと呼ばれたその時計には、ハッキングセカンド機能が備わり、特に航空兵が重宝しました。

お互いの時計を同期させることができ、様々な作戦の正確な実行を可能にしてくれる時計でした。

 

ブローバ A-15 パイロットウォッチ

Bulova A-15 Pilot Watch
Bulova A-15 Pilot Watch / Credit: Rolex Forums user

アメリカ軍A-15パイロットウォッチの仕様は、「戦争に勝利した時計」と称され、3大時計メーカーであったアメリカのウォルサム社、ブローバ社、エルジン・ナショナル・ウォッチカンパニーに提供されております。

 

1943年、アメリカ空軍はブローバ社が提供した新しい仕様のA-15をテストするプロジェクトを遂行中でした。

そのテストでは戦場の過酷な状況で生き残るためにも、厳しい条件をクリアする必要がありました。

ブローバ社によって開発された時計には、経過時間の表示機能と、夜光文字盤が搭載されていそうです。

 

戦争に勝利したのは時計のおかげでもあると評価される理由は、終戦末期にアメリカ連合軍が1日±30秒の精度と正確性を持つ時計を着用した事で、ドイツ軍を追い返すことに成功したからだといわれております。

ブローバ社はアメリカの主要時計メーカーの一社として、この国家的義務を、真剣に受け止めていたのです。

 

ブローバ社の戦時中のカタログ Bulova wartime advertising

Bulova wartime advertising / Credit: Bulova

ブローバ社は、戦争に勝つために、多くの工場や施設を改造し、重要な精密機器や重要品目を開発しました。

それに加えて研究所も立ち上げ、戦争中や戦後に陸軍省によって使用されました。

 

一方、人事面では、直接戦争で闘っていない従業員達は、アメリカ軍の必要物資の製造のため、過酷な労働を行っていました。

ブローバ社の従業員はさらにボランティアにも従事し、代表的になところでは赤十字、共同募金会、全国戦争基金、血液バンク、看護士支援や軍事国債運動などに参加していました。

 

また、従業員達は稼いだ賃金の中から10%以上を軍事国債の購入に充てていたのです。

 

戦争が続く中、ブローバ社は戦後のビジネスにおいても消費者の需要を保とうと、広告費の予算を増やすことにしました。

 

広告費の増加とともに、ラジオ208局からは、1年365日、毎日、毎時間、「Bulova Times the Nation」、「America Runs on Bulova Time」と流れるようになり、その時期中に30万回以上の時報を届けました。

ブローバ社は、時報の25%を軍事国債のプロモーションに充て、繰り返し「勝利への投資-軍事国債を購入せよ!」と宣伝しました。

  

ジョセフ・ブローバの息子である、アドレー・ブローバは、戦争の後遺症が残る退役軍人を支援するために、ジョセフ・ブローバ時計学校を創立しています。

 

Joseph Bulova School of Watchmaking

Joseph Bulova School of Watchmaking / Credit: Bulova

学費は完全に無料で、プログラムの運営に関わる全ての費用をブローバ社が負担しました。

その目的は、退役軍人達の社会復帰を支援し、戦争で得た技術を活かす場を提供し、修了後に安定的な職場を提供することでした。

1945年、9月2日、日本の降伏によって第二次世界大戦は幕を閉じます。

こうして、1946年にはジョセフ・ブローバ時計学校の第一期生の退役軍人が卒業し、時計産業でそれぞれの新たな仕事が始まろうとしていました。

そして、卒業生たちは全国の宝石店に配属され、苦労した退役軍人は幸せで有用な職業に就く事ができたのです。

第二次世界大戦の全期に渡り、ブローバ社は顕著な忠誠心でアメリカ軍を支え、その努力は今日でも記憶に残されています。

 

(Eric Mulder, June 25, 2021)

出展: 

  • "BULOVA’S WARTIME EFFORTS" https://montrespubliques.com/new-1minute-reads/bulovas-wartime-efforts
  • Blova Japan https://bulova.jp/