ヨーロッパにおける陶器・陶磁器の歴史とマイセンが果たした役割

ヨーロッパにおける陶磁器の歴史


ヨーロッパでの陶器の歴史はとても素晴らしいものです。

幸運なことに、評判や生き残りに関しては、勝者も敗者もいます。

こちらの記事では、ドイツ、フランス、イタリア、そしてイギリスといったヨーロッパの陶器の歴史について述べています。

そして、どのようにして彼らがこの美しいアートを応用し、大きな絵に当てはめたのかを見ていきます。

世界を照らすような存在であったドイツは、中国人がどうやってその素晴らしく固く半透明に薄く、高品質の磁器を作ったのか、という古代のなぞを解き明かしました。


1710年、マイセンの街で、彼らはそれを成し遂げました。


しかしながら、真の磁器の発見は、当時、今の私たちにとっては信じがたいようなひどい境遇におかれたのです。

 

ドイツの陶器

ヨーロッパ (ドイツ)陶器の歴史と作品

1710年、ドレスデンの近くにあるサクソニーのマイセン(後のドイツ)で、ヨーロッパの他国よりも一足早く中国の固い材質の陶器の秘密を発見しました。

ポーランドの王でサクソニーの選挙人であったアウグスト二世は、錬金術師のヨハン・フリードリッヒ・ベドガーを捕らえ、その物を解明するまで捕虜としました。


その後、ベドガーは若くして工業中毒により、無一文で亡くなってしまいました。

アウグストのひどい仕打ちです。


マイセンは、7年戦争(1756-1763年)でサクソニーが敗れるまで、それを独占し守りましたが、この敗北により、陶器の構成物やかまの技術は流出しました。


そして、それは高価なパトロンを陶器メーカーにもたらしました。(もし貴方が王子様なら、もちろんそうするはずです。)もし自分の陶器工房を持っていなければ、何ももっていないことと等しいことだったのです。


30近くの工房が、1758年から1775年辺りに急激に栄えました。

しかしマイセン、ニンフェンブルク、ベルリンでは、18世紀の終わりごろ、陶器の珍しさが衰え、ほとんどの工房が廃業しました。

こちらではマイセンの食器の魅力を解説しております↓




  

フランスの陶器

ヨーロッパ フランス 陶器 歴史


柔らかい材質であるカオリンが含まれない磁器は、16世紀の終わりごろ、フランスで先駆けて生産されていました。

いくつかの重要な存在の工房が、パリを中心に設立されました。

1693年頃、セント・クラウドが初めて商業用の陶器の生産を行いました。

チャンティリーは1730年に設立されました。

ヴィレロイは1737年に設立され、後にメネシーへ移りました。


ヴァンセンヌは最も重要なメーカーの一つで、1756年、パリの南西、セーヴルへ移りました。


ルイ15世が、その地の占有権を主張し統治し始めたためです。

1769年、セーヴルでは固い材質の陶器の生産が始まりました。


それより数年前、カオリン(中国人が長い間使用していた陶器の秘密の材料で、正式にはチャイナ・クレイと呼ばれます。)がリモージュで発見されました。


これは彼らにとって大変幸運なことでした。


その後すぐ、リモージュは何も飾りのない白の陶器を作成する場所を作り、それを装飾や艶塗りのために、320キロ以上離れたセーヴルへ送りました。


彼らがしっかりそれらを包装していたことを願います。

その当時の道は非常にぐらついたはずですから。

18世紀の後半、その企業連合は終わりを迎え、多くの独立したメーカーがフランスで栄え始めました。

イタリアの陶器

ヨーロッパ イタリアの陶器 歴史

一番初めに、ヨーロッパにおける地元の消費者に向けた陶磁器製品の生産と彫刻は、マイセンとセーヴルを少しずつ模倣しました。

イタリアは違いました。

ここでは、16世紀の半ばには柔らかな材質の磁器が作られていました。

そして、その後、ナポリの有名なロイヤルの工房で、美しい作品が作られました。

固い材質の磁器は1720年代より、ヴェニスやドッチヤで生産が始まりました。


1737年からはフローレンスの近くで、ジノリファクトリーによって生産が始まりました。


そのナポリの工房、カポディモンテは、スペインの王の息子である、バーボンのチャールズによって初めて設立されました。

彼の妻はマイセンを設立した、ドイツのロイヤルファミリーの一員でした。

チャールズはスペインの王になるために、場所を移らなければなりませんでした。

そして、誰もがそうするように、彼も自身の工房を自分の側に置きました。

その工房はエル・レティロとして知られるようになりました。(心地の良い隠れ家という意味です。)

チャールズの息子、フェルディナンドもまた、陶器に対して強い思いを持っていました。

そして、父のナポリの工房を再構築するために、多くの努力を費やしました。

彼は成功し、その仕事ぶりから称賛を得ました。



1799年のフランスの侵略で、イタリアの一部はスペインから奪われました。

地元の人々は他国のルールに縛られる日々にうんざりしていました。

そしてフェルディナンドの素晴らしい工場もやり玉に挙げられました。

陶器ショップの雄牛は気になります。


推測では、ジノリファクトリーは、品質を恐れ、カビやその他の残り物を買い取ったのではないかと思われます。

ある説では、これはただ、ナポリのカポディモンテの伝統が得た栄光の日々を受け継ぎ、陶器のマークをマーケティング戦略として使おうと試みたのではと言われています。


ともかく、この歴史的な事実の中の疑いは、カポディモンテの名前とNマークを真の意味で守るものはなかったということです。

インターネットでこのことについて調べると、その後、多くの工房が我こそが本当のカポディモンテだと主張したようです。

真実は、本物のカポディモンテは、バーボンのチャールズがスペインの王になるためにイタリアを去った時に消え去ってしまったのです。マドリッドの近くに、よみがえらせた新しい工房、"心地よい隠れ家"のみだったのです。

新生カポディモンテは、フェルディナンドのもとで、息を飲むほど素晴らしい仕事を行いました。

デザインの年表では、唯一、オリジナルのカポディモンテと離して伝える事が出来るでしょう。ジノリは、彼ら自体が素晴らしい企業でしたが、新しいカポディモンテを設立しようと試みて、失敗しました。

今日、残念なことに、カポディモンテの新しいバージョンは誰の物でもないようです。

カポディモンテはイタリアの、不透明でおとぎ話のような、もう今はなき工房です。

イギリスの陶器

ヨーロッパ イギリスの陶器 歴史


イギリスの陶器工房は、他のヨーロッパ諸国のそれとは違いました。

彼らは始めから商業的な展開を行っていましたし、ほとんどの場合、同一の貴族からの資金を享受出来ませんでした。

例外は、エール・フィツァーバーグ4世が、高品質な物を作るメーカーの雄大な野心を支援した、ヨークシャーのロッキンガムです。

言うまでもなく、彼らは経営を行う資金が続きませんでした。

イギリスでは、1567年、オランダから二人の陶芸家がイギリスの地を踏んだことから全てが始まりました。

彼らは艶メッキ加工の秘密を知っていました。

艶のあるメッキ加工がされたそれは、デルフト陶器として知られ、1600年代から1700年代にかけて、ロンドン、ブリストル、そしてリバプールといった各地に広がっていきました。


デルフト陶器はその後、塩焼石器や、スタフォードシャーを陶器生産の中心地にした、クリームウェアと取って代わりました。

柔らかい材質の陶器は、ロンドンのチェルシー、ライムハウス、セント・ジェームス、バウ、ボクスホールで発展しました。

そしてブリストルはダービー、ロングトン・ホール、リバプール、そしてローストフルに続いて活発になりました。


固い材質の陶器は、1768年にウィリアム・クックウォーシーによって特許が得られました。さらに進んだ全く新しい、実験的な素材、陶磁器は、1799年、ジョシュア・スポード二世によって生み出されました。


高級陶磁器は、本来、イギリスの製品ですが、アメリカ、他のヨーロッパ諸国のメーカーでも視点によっては採用されました。

有名なメーカーでは、アメリカのレノックス、ドイツのローゼンタール、フランスとドイツのヴィレロイ&ボッホがあります。


これらのメーカーの陶磁器は、近代コレクションにおいて重要な役割を果たしています。

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