日本のガラス ガラス用語集(氷コップ)2
ガラスについての用語集
金赤(紅)ガラス
鮮やかなルビーのような明るさを持つ金で発色された赤色ガラスです。
金を、塩酸と硝酸を混ぜた混合液である王水に溶かして、原料に加えます。
そして、コロイド発色させるのです。
これは17世紀の後半頃に、ドイツのヨハネ・クンケルが開発したものとなります。
薩摩でも幕末頃に、この方法が試されたようですが、残念ながら成功はしなかったようです。
日本で初めて成功したのは明治時代に、品川硝子で、でのことでした。
品川出身者であった大重仲左衛門らがこれを、被せガラスにしてグラヴュールを施すという、大変美しく見事な製品を作り上げたのです。
このガラスは、明治・大正時代の装飾に多く利用されています。
金彩
彩色をガラス面に金を使用して施す方法となります。
水金という金の塩化物を硫黄、テレピン油などと混ぜたものをガラスに塗り、低温で焼き付けるのです。
この方法は、明治時代の頃からすでに行われていた方法です。
伝統的な技法には、いくつか種類があります。
油やにわかで溶いて塗ると焼付を行わなくてもいいという方法や、金と水銀のアマルガムを焼き付けて金を定着させてしまう方法などがそうです。
焼付を行わない方は、はがれやすいものではありますが、溶剤の種類によっては、多少ですが長持ちすることもあります。
金泥
にわかで金粉を溶いたもののことをいいます。
焼成を行わず、ガラス面に塗って文様を描くだけですので、はがれやすくなっています。
グラヴュール
研磨剤と油をつけながら、ガラスに彫刻を彫っていくものです。
使用するのは小さな銅製のグラインダーです。
ウィール・エングレイヴィングともいいます。
グラインダーの大きさや種類はいくつかあり、それを使い分けて複雑な文様を彫っていきます。
写実的な肖像のようなものを彫るのにも向いているのです。
推奨彫りにも使用されていた技法となります。
それをボヘミアでカスパー・レーマンが16世紀末頃、ガラスへの応用を始めました。
そのことにより、ボヘミアやドイツなどで優れた作品が作られるようになったのです。
江戸時代になると、日本でもこれを真似たものが作られるようになりました。
本格的な技法は、明治時代、品川硝子に招かれたエマニュエル・ホープトマンにとって伝えられました。
この技法のことは、摺り模様と呼ばれていたのです。
とても高度な技術と手間が必要な技法でした。
そのため、カット用の設備を使い、グラヴュール風に花模様に彫る「花切子」のほうが広く広まっていったのです。
明治時代の日本では、ボヘミアでよく見られたような、グラヴュールや摺り模様の立体的な彫りの作品はあまり見られることはありませんでした。
作られた製品の多くは、浅い彫りであるアブブレードと呼ばれるものだったのです。
コアガラス
この方法は、古代のエジプトやメソポタミアでよく行われていた成形法です。
土などでコア(芯)を作り、熔けたガラスを周りに何重にも巻きつけ、冷やします。
冷めたら中のコアを取り出して、容器にしたものがコアガラスとなります。
その多くは、異なる色のガラス糸を表面に巻くのです。
そしてまだ柔らかいうちに、先の尖った道具を使用して、規則的に引っ掻くことでマーブル状の美しい文様が作られます。
腰切子
容器の下半分に文様を彫ったり、平切子を行ったりするもの。
コップなどによく見られる技法です。
薩摩ガラス
九州の薩摩藩で、幕末頃に作られていたガラスのことです。
島津家の第27代藩主であった島津斉興が弘化3年(1846年)にこのガラス製造をはじめました。
そこから続く斉彬が自分の代でさらに、その製造を拡大させたのです。
びいどろの職人であった、四本亀次郎を江戸から招いて、ガラスの製造をはじめました。
そもそも、最初は薬を入れるための薬瓶を製造するために行われていたのです。
しかし、5年も経つと、薩摩藩にいた科学者たちと協力をして、赤色ガラスの製造を始めたと言われています。
安政2年(1855年)には、郊外にある磯という場所に、大きなガラス製造設備が作られたのです。
他の色々な工場群とともに集成館と呼ばれるようになりました。
ここでは紅ガラス製造竈が4基ありました。
銅赤ガラス用が2基と、金紅ガラス用が2基です。
さらに水晶ガラス(クリスタル・グラス)の製造竈が1基。
板ガラス製造竈も1基。
そして、鉛ガラス製造竈が大小あわせていくつかあったと記録されています。
オランダ人の医師であるポンペがここを見学した際には、安政5年当時にここのガラス製造部門で働いていた人間は100人以上であったといいます。
このことからも、ガラス製造はかなり大規模に行われていたということがわかります。
斉彬が安政5年に没したあとも、その事業は継続して行われていきました。
しかし、文久3年(1863年)の薩英戦争の折りにこの集成館は消失してしまいました。
ですが、明治初年になるまでガラス製造はその近くで再び再開したのです。
製品の種類は記録に残っているだけでも多数あります。
薬瓶、切子を施した瓶や蓋もの、いろんな色を混ぜたねじれ形の瓶などといったさまざまな種類の器物や、板ガラスなどがあります。
透明ガラスに藍色や赤の色ガラスを載せてカットした薩摩切子と呼ばれる製品が、その中でも特に有名な製品となっています。
板ガラスは鋳造によって製造されていました。
当時のものと考えれる、分厚い製品が残っているのです。
薩摩製のガラスにはさまざまな色ガラスが作られましたが、金赤ガラスだけは確認されていません。
サンド・ブラスト
19世紀のアメリカで開発された技法となります。
圧縮空気と一緒に細かい粒子を吹き付けることで、ガラス面に傷を付け、艶消しのような状態にしたり、彫刻したりする方法となります。
考え出されたきっかけとしては、砂浜の近くにある家の窓ガラスがすぐ曇ってしまうことをヒントに得たと言われています。
砂を当初は使っていましたが、現在では細かなプラスティックなども利用されているのです。
マスキングをした部分は、そのままの状態で残りますので、手を加えたくない場所にはエッチングと同様に、マスキングで保護します。
粒の大きさや圧力の強さや時間などを変化させることで、仕上がりを調整することができます。
かなり繊細なものも表現することが可能なのです。
比較的大きめなガラスにも簡単に加工できてしまいますので、装飾用のパネルなどに需要が多くあります。
明治の半ば頃から日本でも、この技術が導入されています。
品川硝子
明治6年(1873年)に英国人技師を招いて、東京に設立したガラス工場です。
場所は品川に設立され、日本で初めて洋式のガラスの工場だったと言われています。
しかし、明治9年になると経営難になり工部省に買い上げられました。
そこから18年になるまで官営で運営されていたのです。
品川硝子が再び民営に戻ってからは明治25年まで運営が行われていました。
その名称は品川硝子製造所や品川工作分局というように、官営になってからさまざまな名称へと何度か変化しています。
ですから、その全部をあわせて「品川硝子」と呼ばれることが多いのです。
外国人ガラス技師を品川硝子では、何度も招いています。
日本人に舶来吹きなどの技術を日本人に伝え、多くの技師たちを育てています。
日本のガラス工業の基盤を作るという、大事な役割を果たしたのです。
徐冷(なまし)
ガラスは高い温度を利用して成形が行われます。
だからこそ、固まるときにガラスの内側と外側とでは、冷却温度の差から歪みを生じてしまうのです。
この差はガラスの厚さが厚いほど起こりやすいと考えられています。
このままの状態で放置すると、ちょっとした衝撃を与えるだけで破損してしまうのです。
ですから、ガラスが完成すると、一度加熱をして時間をかけながら少しずつ冷ますことで、この歪みを取り除くことを徐冷と言うのです。
ガラスを製造する過程の中で、この作業は決して欠くことができない作業となっています。
丈夫で実用的なガラス製品を作るためには、この作業を正しく行わなくてはいけないのです。
この徐冷技術は江戸時代では普及することが遅れてしまっていました。
そのため、日本に実用的なガラス製品が広まるのを妨げることにも繋がっていたのです。
ある程度の厚みがある製品は、専用の西洋式設備で一昼夜かけて徐冷が行われることもあります。
江戸時代や明治時代の最初の頃は、灰を多く入れた箱に製品を入れて、埋め、なましを行うことが一般的なことでした。
セレン赤ガラス
オレンジ色を帯びた赤色ガラスのことです。
硫化カドミウムと金属セレンを使って着色がされました。
19世紀末にセレンを使った赤色ガラスはドイツで開発がされました。
日本では大正時代に実用化がされたのです。
ガラスの消色剤として、セレンはすぐれているので、そちらにも利用されています。
ソーダ石灰ガラス
一般的なガラスで、現在は板ガラスや日用の瓶などに利用されています。
主原料は、ソーダ灰、珪砂、石灰石です。
古くから天然ソーダを利用して作られていました。
成形がしやすく、原料も安いのでガラス製造の主役として重宝されてきたのです。
江戸時代と明治時代前期には、鉛をたくさん含んだ組成が行われました。
ソーダ石灰ガラスは明治10年代から少しずつ作られるようになったのです。
ダイヤモンド・ポイント彫り
ダイヤモンドのように、ガラスよりも強度の強い材料を使ってガラスに模様を彫っていく技法のことをいいます。
スクラッチングという線を彫るもの。
スティップリング技法という微細な点描だけで表現されているものとがあります。
スクラッチングは、16世紀のヴェネツィアでよく使われていました。
一方、スティップリング技法は17世紀のオランダでさかんに使用されていた技法となります。
日本にこの技法がもたらされたのは、江戸時代の頃でした。
柘榴石を使って線彫りしたと考えられる作品が多く見られます。
この作品をギヤマン彫りと呼ばれていました。
しかし、このギヤマン彫りは装飾法としては広く伝えられることはなかったのです。
玉切子
水玉模様にカットされたものです。
U字型をした断面を持つ回転円盤にガラスを押し付けることだけで、簡単にカットすることができるのです。
宙吹きガラス
型を使うことなく、吹き竿の先に巻き取ったガラスを宙空で吹くことで成形する技法のことです。
吹きガラスが本来もつ自由で伸びやかな形を造形することが可能となります。
他のガラスを鎔着したり、ハシやハサミというようないろんな道具を使うことで、成形も自由にすることできるのです。