氷コップは明治・大正の日本のガラス

日本のガラス製品の歴史

日本のガラス生産は弥生時代前期からといわれています。

そのガラスの原料などは長い間、中国から求められていました。

そして、日本国内で原料がつくられるようになったのは、

奈良時代であることが記録から推測されています。

しかし、そのガラス製品は神仏具として制作されたものです。

1543年平安時代にはポルトガル人が種子島に漂流した事が

きっかけに外交が始まり、

日本人が容器としてのガラス製品を知りますが、製造はされませんでした。

それは、当時のガラスの素地が鉛分の多い素材で作られ、

熱や衝撃に弱かったため、生活用具として使用するには決定的な

欠陥があったからです。

いわゆる実用性に欠けていたのです。

 

しかし、江戸時代に入ると長崎では土産物用としてガラス製品が売られ、

次第に大坂から江戸に知れ渡ると、そのガラスの美しさは

江戸の人々を魅了します。

そして、江戸では安価なガラス製品の大量生産が始まります。

 

なぜ、実用に適していないガラス製品を商品化したのか

 

もともと、日本にはガラス技術にかわる陶磁器類や漆器類の技術があり

生活用具として流通していたため、ガラス製品は生活道具の一つとは考えず

必ずしも必要な製品ではなかったので、使用して壊れると再び加工できる

リサイクル可能な製品として、ガラス製品は遊び道具(お土産、贈答品)

として制作されたのです。

ヨーロッパでは生活必需品の実用性のあるガラス製品を求めるのに

反して、日本では江戸庶民には金魚鉢、楽器、

豪商には宴席のおもてなし用の杯や杯洗にガラス製品が求められ

それが人気だったのです。

 

 

 

明治時代から新たなガラス時代へ

明治に入り日本に新しいガラス時代が訪れます。

 

日米修好通商条約が結ばれ、鎖国が廃止され貿易が始まると

海外からの優れたガラス製品が日本に輸入販売され始めます。

石油ランプをはじめとし、良質な板ガラス、上質なカットグラス、

造形が見事な吹きガラスなど、どれをとっても魅力的な品々で、

その実用性と便利さを兼ね備えたガラス製品に人々は憧れを抱くようになります。

 

そしてガラス職人たちも、実生活に役立つ製品開発を試みるようになります。

しかし、振り返ると江戸時代から日本のガラス製造は200年以上の歴史が

あるのにもかかわらず、外国のガラス製品と比べ発展の遅れがありました。

 

そして、明治政府もガラスの近代化を目指します。

明治6年に本格的洋式ガラス工場「興業社」「工部省品川硝子製作所」

「京都府舎密局硝子工場」が誕生します。

政府の指導のもと、工場の機械化と外国人技師の指導によりガラス製造が躍進を試みます。

この事業では板ガラスの開発を目的とされていました。

しかし、ガラス製造事業は幾つもの失敗を重ね、

残念ながらこれらの官営会社は、短い期間で幕を閉じます。

その結果、その渦中で生まれたのが明治を代表する民間の硝子工場です。

そして、職人達の有志によって、いくつかのガラス事業が展開されるようになったのです。

 

しかしながら、ガラス板の製造を成功させた会社は出てこなかったのです。

このように、明治時代は国内で板ガラス製品の開発に費やす時代でありました。

 

また、明治時代のガラス製造は外国人から技術の伝授は江戸時代では

考えられなかった、時代の背景が窺がえます。

 

その時代背景を思いながら明治時代のガラス製造の苦難を頭の片隅に作品を鑑賞していただきたいです。

 

明治時代のガラス職人

明治政府の発案で官営工場ができ、次いで、民営の会社ができた一方、

幕末のビードロ職人、また新たに、この道を選んで仕事を始める人もいました。

その中で、今も尚業界にその名をとどめるガラス職人がいます。

老舗加賀谷久兵衛の従弟沢定次郎は独立し本所に工場を開き、

薬瓶やランプホヤのガラス製品を制作しました。

また、彼の従弟の岩城滝次郎は沢定次郎に18歳で弟子入りし、

官営の品川硝子製作所に努めそこで、イギリス技師2人のもとで修業したのです。

彼の才能は瞬く間に開花し、異例の昇進を果たし25歳の若さで職工長になるほどでした。

彼はのちに、京橋で工場を開き品川硝子工場で修得した様式製法の他に本所で習った和式の技法を取り入れ和洋折衷の独自の工法を編み出し、色ガラスの食器、文具などを制作し、世間を驚かせました。

そして彼はガラスのあらゆる可能性を追究しました。

東京府工芸博覧会、勧業博覧会にそれぞれ作品を出品して賞を受けています。

滝次郎は、その後日本で初めて本格的なステンド・グラスに成功します。

一代で名工の名をほしいままにし、会社経営においてもまた成功をおさめます。

こうして、ガラス事業もこのような人物の存在により次第に繁栄の地歩を固めていきます。

 

ですが、滝次郎43歳の時に渡米先から帰国後、

板ガラスの制作に挑みますが、失敗に終わっています。

 

明治~大正時代のガラス製造

明治中期から大正にかけて、ガラス業は個人業者の執念と研究により

職人の技術はかなり発展していました。

また、大規模工場の機械化による大量生産の時代の歩みも早まりました。

 

ただ、解決すべき問題が一つあります。

滝次郎ですら制作ができなかった板ガラスの製造開発法です。

このころ、板ガラスの輸入はベルギーを主として欧米各国からの高額な取引で行われていました。

この輸入額による国家的損失が憂えて、板ガラスの国内生産の声が高まります。

そこで再度、政府が板ガラス製造の会社を興す計画が考えられました。

しかし、日露戦争などの影響をうけ板ガラスの製造はここから

十数年空白の状態が続きます。

そして、明治42年(明治が終わる2年前)ついに、

兵庫県尼崎の旭硝子会社によって板ガラスの開発に成功します。

 

 

 

明治・大正のガラス製品の経緯

 

板ガラスの開発には日本はやや遅れをとりましたが、その開発の中で

様々な、ガラス製品が誕生しています。

いつの間にか板ガラスの制作から、ガラス装飾品や食器、文具まで手を伸ばしていたのです。

 

明治、大正の和製ガラスは、技術的には西洋のガラスに比べると、

やや、劣ります。

当時遅れをとっていたガラス工芸ですから、職人はその技を修得するために

努力を惜しまず、想像を絶するような苦難を乗り越えていったことが窺がえます。

その結果、誕生し花開いたのが、いじらしくも美しい

「明治・大正のガラス」です。

 

独特の色やフォルムに遊び心といった日本人ならではの繊細で粋な計らいが

施された美しい作品には、魅力を感じます。

 

そして、明治後期から西洋と同じ素材であるソーダー石灰の開発により、

透明感のあるガラス製品が仕上がるようになっています。

 

 

ガラスの華、氷コップ

今となっては、明治・大正のあの繊細で優美なガラスを作りだした、

日本独特の技術と技法は当時の職人とともに返らぬものになりました。

それを、窺い知ることも残されたガラスの中にしか見つける事ができなくなってしまったわけです。

ですから、明治・大正のガラスは私たちにとって魅力満載の文化遺産とも言えます。

特に、明治、大正にかけて誕生したのが、ガラスの華ともいえる「氷コップ」です。

まさに、名の通りかき氷を入れるガラス容器です。

 

この氷コップは様々な文様、色、形状とバリエーションが豊富さと姿形の可愛らしさから

コレクターの間でも非常に人気が高い製品となっています。

技法には、宙吹き技法、プレス、型抜きとありますが、やはり宙吹き技法のガラスの方が、かなり高価な品となっています。

吹きガラスの氷コップをみると、職人の巧みな技をうかがえます。

吹き上げて仕上がるガラスの曲線美は魅力あふれる作品として仕上がっています。

 

このように、明治・大正の和製ガラス工芸は日本の歴史とともに歩んできました。

薩摩ガラス、江戸切子など国内でおいても海外よりガラス工芸が技術の遅れをとりながらも、職人の努力により魅力ある文化遺産として今日まで愛され続けています。

 

Baccarat(バカラ)と日本のガラス

 

日本の昔のガラス製品に度々登場するギヤマン。

ギヤマンとはオランダ語で「Diamant」

江戸時代、ガラスやガラス製品のことをこう呼んでいました。

いわゆる、ガラス製品の古風的な呼び名です。

ここで、ふと思い出されるのがbaccarat(バカラ)のモデルでも

ディアマンというダイア型のカットが施されたクリスタルグラスの存在です。

また、江戸時代から日本はオランダから茶道道具の水指を輸入しています。

そして、明治以降のギヤマンの茶道にはギヤマンいわゆる、ガラス製品が使用されています。

更に、驚くことにその茶道道具のほとんどがbaccarat(バカラ)製品なのです。

茶道にガラス製品も意外ですが、その製品がbaccarat(バカラ)製というのに興味がそそられます。

 

春海藤次郎とbaccarat(バカラ)

バカラと日本の関わりは100年以上遡り、明治時代になります。

宝石商の安田源三郎が、ヨーロッパ土産として親戚の春海藤次郎へ

クリスタル製品の花瓶やディアモントのお皿を贈ったことがきっかけと

なっています。

 

当時、春海藤次郎は美術商である春海商店の三代目の店主であり、茶人としても

活躍しており、この美しいクリスタルのカットと金彩が施されたガラスに

一瞬にして魅了されたのです。

春海氏自らの手で一生懸命この製造元を突き止め、これこそが

Baccarat(バカラ)だったのです。

 

春海baccarat(バカラ)

明治37年頃に、春海氏は一目で魅了されたクリスタルガラスbaccarat(バカラ)の

輸入をはじめます。

そして、茶人であったことから多くの茶人にもバカラ製品を広めます。

しかし、茶道は和風を重んじるもので、バカラの洋風なデザインの器は

茶室に似合いませんでした。

そもそも、茶道の茶碗などをイメージして作られた作品ではなかったので

当たり前です。

 

 春海商店の特注品

春海氏は、やがて茶道用具として似つかわしいバカラ製品を望むようになり、

春海藤次郎、本人がデザインしたものを注文するようになります。

いわゆる特注品です。

現在も、春海商店はありますが、そこには当時のオーダーデザイン画が残されています。

また、baccarat(バカラ)にも春海商店からの注文をうけた図案が残されています。

 

ここで、日本の切子で色々なデザインが誕生しています。

これらのガラスデザインは千筋紋、切子、被せガラスが特徴となっています。

切子とダイアモンドカットも結びつきも窺がい知ることができます。

 

春海好み

「金縁切子折水指」このモデルのタイトルを聞いただけで、お茶を嗜む方なら

お気づきのはずです。

水指はお茶をたてるときに使う、あの水指のことです。

「金縁切子枡鉢」も水指と菓子鉢用途にデザインされた特注品です。

 

茶事は、振る舞いや、生け花、掛け軸など美術的要素が詰まっています。

そんな、茶会でバカラクリスタルが使用されるのは十分有り得ることですが、

当時はかなり斬新、奇抜だったのではないでしょうか。

 

これをきっかけに、春海商店はバカラと深い関わりを築いていきます。

茶事で使用する、懐石料理の器やお酒の徳利、汁椀、飯椀やグラスなども

特注で製造され茶道界でもバカラ製品は広まっていきました。

 

当時バカラの特注品一つは家一軒買える程の高額だったと聞きます。

このとき、春海藤次郎が諦めていたらどうなっていたでしょうか。

日本のガラス工芸はさらに遅れをとっていたのではないでしょうか。

 

これらの、春海商店からの特注品はバカラでは、

「春海好み」として復刻版も販売されています。