自然を愛したフランスのガラスの工芸家 エミールガレ(emile galle)
自然を愛したフランスのガラスの工芸家 エミールガレ(emile galle)
幼い頃から植物の魅力に引き付けられていたエミールガレ。
彼にとって、植物の世界とはどのようなものだったのでしょうか?
芸術家兼植物学者であったガレは、生涯を通して園芸家やほかの植物学者たちとの繋がりを求め、新しい装飾モチーフや今までなかった斬新な形を自身のガラス作品において実現するために、植物を熱心に研究しました。
ガレは自然をただ忠実に再現しようとしていたのではありません。
自然界を出発点として、様々な形や芸術性を模索し作品に反映させていったのです。
自然への情熱の芽生え
エミールガレが植物に興味を持つようになった理由や経緯については、たくさんの調査が行われてきました。
彼の生まれ育ったロレーヌ地方のナンシーでは、野菜の並ぶ市場が日常的に行われ、家からそう遠くないところに市立植物園がありました。
ガレ自身も、早くから植物に惹かれていたことについて、いくつもの逸話を残しています。
たとえば、同じナンシー出身のJJグランヴィルの挿画本『生きている花々』を通して文字の読み方を学んだそうです。
ガレの生まれ故郷のナンシーは、19世紀後半、園芸の中心地で、たくさんの園芸家達がこの町に移り住んで来ました。
薔薇のスペシャリストである園芸家レオン・サイモンもその一人です。
サイモンの一家はモーゼル川の地方に苗木畑を所有しており、18世紀に名声を博しました。
こうした園芸家たちは、シャクヤク、ライラック、センニンソウ、グラジオラス、ベゴニアなどの、特に越冬性の多年生低木の交配を専門にしていました。
ブルジョアの別荘にはたいてい広大な庭や、庭師が常在する温室がありました。
都市部では、花や果実の展覧会が定期的に行われ、人々の植物への情熱を刺激していました。
こうした植物への情熱があって、1877年にナンシー装飾美術中央連盟が設立されました。
ガレはここで出会った園芸家たちと親しくなり、また、当初からこの連盟の事務員を務めていました。
ただ、それ以前から彼には、多数の園芸家の知り合いがいたことが分かっています。
ガレの工房は、ナンシー出身の偉大な園芸家であるヴィクトル・ルモワーヌの温室の近くにありました。
したがって、ガレやガレの作品作りの仲間たちは、ルモワーヌが作り出した最新の交配種を含め、多様多種の植物をいつでも見に行くことが出来ていたのです。
ガレの工房の敷地内にも庭があり、いつでも植物を研究したり観察したり出来る環境にありました。
アトリエや管理局のオフィスのすぐ前には、つる性植物で囲まれた花壇がありました。
1873年にガレの一家が手に入れた土地には1.5ヘクタールの公園があり、芸術家がやって来てスケッチをしたり、ガレ自身もそこでデザインを考案したりしていました。
ガレが自分の庭に取り入れたのは、花の咲く高木や低木、フランス原産の多年生植物にはじまり、日本や北アメリカ原産の植物もあり、いつも丁寧に手入れされていました。
ガレは1867年に、父シャルル・ガレの経営する陶器・ガラス会社に入り、芸術分野の監督を引き継ぎました。
こうして、ガレはガラスが生み出す芸術性に惹かれ、その後の人生をガラス芸術に注ぐようになったのです。
ガラス職人としてのキャリア
当初のガレの芸術の方向性は幼い頃と変わらず、自然に触発されたモチーフを描いていました。
たとえば、1868年頃に作られた、勿忘草とリボンの装飾が施されたガラス製品は、フランス第二帝政の時期には既に、芸術世界では植物への熱が高まっていたことを表しています。
ガレが1901年にガブリエル・モーリーに宛てた手紙の中では、30年も前から植物をモチーフにしたグラスを作り出そうと父親とともに計画を練っていたと語っています。
「花の形を作品に取り入れることは、父さんと僕が夢中になっていたことだ。植物学者としての気質も合わせて、より一層それに没頭していた。」
つまり、芸術家としてのキャリアが始まった段階からガレは、自身の作品の装飾に自然を取り入れ、さらに作品そのものを植物の形にしたいと考えていたのです。
1880年代、ヨーロッパ芸術は日本の影響を受けていました。
1878年の万博以降、ガレを含め多くの有力な芸術家たちが、日本の美術に目覚め、日本の絵画やオブジェを収集するようになりました。
極東の芸術といえば、花模様が連想されていたようです。
ヨーロッパの芸術家たちは日本の作品を見習い、東洋の芸術センスを自分のものにしようとしていました。
自由で生き生きと描かれた日本式の植物の装飾は、写実性や正確性において卓越した植物学者ガレの描くイメージとはかけ離れたものでしたが、『美術論集』の中で彼は
「日本の芸術家は、自然の産物を情緒的なイメージに変換する独自の手段を持っている」
と賞賛しています。
1879年頃に作られた矢車草の花瓶には、風に揺られる矢車草の様子が再現されています。
花は写実的というよりは自由に描かれ、茎と葉はシンプルな曲線になっています。
この花の装飾は、ガレが考案した『月の光』と呼ばれるガラスの上に施されています。
ほんのりと色づく瑠璃色のガラスの制作は、ガレが果たした偉業の一つです。
その後1889年には、ヤマユリの花瓶を作りました。
ユリの花が一つずつ大きく描かれています。
シンプルに抽象化された描き方は、日本の美術に影響を受けているようです。
花瓶全体の形も、花をモチーフにしています。
このようなシンプルな花瓶こそが華やかな花を引き立てます。
薄く色づく背景にヤマユリが描かれたこちらの花瓶は、引き立て役としてまさに理想的といえるのではないでしょうか。
1880年以降、ガレはガラスの装飾のために様々な色を実験していました。
ガレがナンシー出身の園芸家たちと繋がっていた影響が作品によく表れているのもこの時期です。
1884年に作られた『春のゴブレット』にも、それが顕著に表れています。
ヴィクトル・ルモワーヌのためにガレが作ったこの作品には、ルモワーヌが交配した桜草が描かれています。
ガレはこの桜草を特に『エミール・ガレ夫人』と名付けて愛していたそうです。
少しくすんだ色調の桜草は、灰色がかった銀色のシルエットで表現され、葉はほんのりピンク色です。
1889年に作られたグラジオラスのゴブレットからは、ヴィクトル・ルモワーヌを筆頭としたナンシーの園芸家たちの栄光が読み取れます。
この作品はモノクロになっていますが、ガレは薔薇色のグラジオラスの色調を再現しようと試みていました。
装飾美術中央連盟の会報の中で、ガレは、ヴィクトル・ルモワーヌの交配の技術は、ガラス装飾家が花の色や形を再現しようとするのに似ていると語っています。
植物学者でもあった芸術家ガレ
ガレは植物学者として知識が豊富で、仲間たちから尊敬されていましたが、芸術家でもあり、両方の気質のバランスを器用にとっていたようです。
科学的に植物を研究することによって、ガレは植物を含めた生命体のライフサイクルを深く理解していましたが、一方でこうした知識をそっくりそのまま芸術作品に反映させるべきではないことも分かっていました。
このようなガレの態度は、1900年に彼がスタニスラス・アカデミーで行ったスピーチに要約されています。
「花や昆虫、風景、人の性格や内なる感情を捉え再現する芸術家が、カメラや冷たいメスなどの器具を使って分析、解剖するような科学者よりも、生き生きとした情緒的な作品を作れないと思う人間がどこにいるだろう?」
ガラスの着色の中心地で、ガレはたくさんの実験を行いました。
酸化物の複合混合物やその他さまざまな原料を使い、色とりどりのガラスを創り出そうと試みました。
混合物を使って単に鉱石や自然界の石に似せようとしただけではなく、自然の微妙なニュアンスを作品に映し出そうとしていたのです。
ガレの作品には花が描かれることが多いのですが、1889年作の水連の花瓶は、自然そのままの色ではなくガレの感性を加えた黒っぽい色に仕上がっています。
この黒みを帯びた色もまたガレの達成した偉業の一つで1889年の万博で公開されました。
少し謎めいていて不安を感じさせるような色です。
華やかにパッと広がる水連の花の下に潜む濁った水面が巧みに表現されています!
ギンセンソウの花瓶は青色のグラデーションになっており、金属粉が散りばめられた表面はデコボコとしています。
青色を選んだのは、もちろん、なんとなくではありません!
ギンセンソウの英語の通称には『月』の意味が込められています。
この花は半透明のサヤが特徴的で、ぼんやりとした青みがかった月を連想させるため、花瓶の背景は青色になっているのです。
『苦くて黒いリンゴの花瓶』も傑作の一つです。この作品のような黒い色調は、1889-90年の作品に度々表れていました。
腐ったリンゴに見られる気泡や凹凸といった自然的なものを芸術的に解釈して作品に落とし込んでいます。
黒い色調は、光を乱反射させる凹凸のある表面と相まって一層効果的に芸術性を醸し出しています。
凹凸や黒い色は、腐ってダメになったリンゴの形や色を表現しているのだと思われます(^^)
エミールガレの新しい技法
絵柄や材料だけではなく、形に関しても、ガレの作品は自然の影響を大きく受けており、たくさんの革新的な形が生み出されました。
アールヌーボーが広まるにつれて、エコール・ド・ナンシーでは歴史主義に対抗して、新しい近代的な形の創造に取り組みました。
形の革命は、ガレが率いて積極的に行われました。
アヤメの蕾の花瓶は、ほとんどまだ蕾の状態のアヤメのガラスパーツをはめ込むマルケトリ技法が使われています。
ガレが生み出したこの技法により更に色彩を自由に選べるようになり、また、一つの作品上で様々な色を並べることができるようになりました。
色とりどりの自然をもっと好きなように表現できるようになったのです。
1898年には技法の特許を取得しています!
実は矢車草の花瓶でも同じ原理を用いています。
花瓶の輪郭は矢車草の蕾の形を模しており、表面のパッと開いた花やくるくると伸びた茎の茶色っぽい色は、マルケトリ技法を使って表現されたものです。
1900年頃は、カボチャなどの野菜の自然な色や特徴的な輪郭から、新しい作品のインスピレーションを得ていました。
ニンニクの花瓶はその一例です。
優美さを持ち合わせながらも、野菜の色彩の範囲内で色づけられたシンプルで混じりけのない装飾になっています。
ニンニクの形の輪郭も印象的ですね。
玉ねぎの花瓶も同じように玉ねぎの形状をしていますが、そのシンプルな形の上には、この野菜の成長の段階が少し複雑に表現されています。
移り変わる自然の様子をガレは好んで表現していました。
ガレが作品の着想を得た植物は多岐にわたり、アールヌーボーによく見られるバラやアヤメには限られていませんでした。
ガラス製品に加えて木製、陶器製のものも合わせると、彼がモチーフにした植物は、196種類以上もあるそうです。
生涯を通して、ガレはガラス製品の制作のために研究し続けました。
新しい技術を試行錯誤したり、表現手段の幅を広げるために様々なガラスの装飾や配合を適用したりしていました。
ガラスの作品の中に生きた自然
自然の世界に浸っていたガレは、生物の命を芸術に落とし込むことにも熱心でした。
植物にも命があり、進化、成長し、その構造や形は季節によって、また年月を経るにつれて変わっていくことを表現しようとしていたのです。
これこそ、芸術家ガレを夢中にさせた植物の特性だったのです。
ガレの作品にはすべて、生命を吹き込まれた植物への大きな愛情が表れています。
この生命力は縦長の形をした作品では特に目立って表現されています!
縦に長い形状は、成長に必要な太陽光を求めて上に伸びる植物の性質を示唆すると思われます。
1900年作のアヤメ畑の花瓶では、ジャーマン・アイリスの蕾をモチーフにしています。
まだ固く閉じている蕾はガラスの表面に深く埋め込まれ、太陽光を浴びてこれから花開くジャーマン・アイリスの様子を表現しています。
1902年作のオダマキの花瓶では、オダマキの花と葉が花瓶の上部まで一杯に伸びています。
青みを帯びたピンク色はこの花に特徴的な色で、装飾にはマルケトリ技法が使われています。
オダマキに特徴的な距も、花瓶の形に表現されています。
縦長の植物といえばブタクサなどの雑草がありますが、これもガレの心を掴み、花瓶や照明器具の装飾に幾度か使われていました。
1900年のパリ万博で展示された花瓶に描かれたハナウドも、そうした雑草の一種です。
花軸の先に柄を持つ花が放射状に咲く散形花序が特徴的なハナウドの花が描かれており、また花瓶の形自体もこの花を基にしています。
凸凹のある茎は、管状の精巧繊細な花瓶の形状に表れ、レースのような花と葉は、花瓶の高さ一杯に描かれています。
緑を中心にした色合いで自然をたたえています。
また、ガレは讃美歌のような美しい碑文を残しています。
「芸術は草原の匂いを放つ。寛大で美しい自然の芳香で我々の生活は満たされる。」
緑は希望の象徴です。
この碑文は、反逆罪で逮捕されたアルフレド・ドレフュスの無実が認められることを願っていたガレの気持ちも込められていたと考えられています。
ガレは、ドレフュスを公的に支持していました。
ドレフュスは1899年に釈放されました!
ガレの願いは届いたのです。
エミールガレとランの花
ガレが生涯愛した花の中には、ランもあります。
幼少時代から、ロレーヌの田舎へ出かけるといつもこの花を採集していました。『美術論集』の中で、この花を讃えて次のように記しています。
「気品のある、人知で考えられないような形の珍しさ、香り、色合い、気まぐれで官能的で、少し不安を覚えるほど神秘的な花だ。」
ランの花に出会ったことで、ガレは田舎の花に惹かれるようになり、また、同時に異国の花にも心を奪われるようになりました。
ガレは花に優劣をつけることなく、すべての生きとし生ける植物に興味を持っていました。
田舎道に好き放題に生えた草花も、園芸家による交配や実験により誕生した新種もすべて同等に愛していました。
1900年パリで行われた国際植物学会議に参加した際、ランに夢中になっていたガレは、ラン科の形成異常に関する論文を発表しました。
1892年には、ランの花をトンボに見立てた傑作を残しました。
花弁はトンボの羽、花の中心はトンボの頭をイメージしています。
この作品のような色合いを持ったランは、フランス国内では見られないものでしたが、北インド原産の品種には淡い青色のランがあり、ガレはそれをモデルにしたようです。
ランそのものを描かずに、風景の雰囲気からこの花を思い起こさせるような作品も幾つかありました。
1900年作の野の花の花瓶でも、ランは昆虫に見立てられています。
こちらは蝶です。
トンボと並んで、蝶もランの花になぞらえられることが多いのです。
雰囲気はトンボの作品とは全然違っています。
花瓶に垂直に金線が引かれ、全体的に緑色が占めており、花はかなりシンプルに表現されています。
森のランの花瓶も1900年の作品です。
この作品もまた雰囲気が全然違って、より自然的と言えます。
すっきりとした花瓶の形のおかげで、マルケトリ技法で表現された森の景色が際立って見えます。
ランの茎は花瓶の上まで一杯に伸びており、裏には木々のシルエットが浮かんでいます。
美しく調和のとれた明るい黄土色の配色は、秋をイメージしています!
現代的でありながらも一風変わった仕上がりです。
移り変わる自然と生命
自然への興味は芸術面だけではなく、生命のメカニズム、そして創造への深い関心と関連していました。
あらゆる創造物に対する大きな疑問を持って、ガレは植生態や自然科学を研究し、生命のメカニズム、進化の原動力、環境に適応することによって生まれる多様多種の植物のふしぎを解明しようとしたのです。
1892年作イースターアネモネの楕円形の花瓶は、藤色の範囲の中で色付けられ、素晴らしくシンプルで優美な作品です。
蕾も、咲いた花も両方描かれており、ガレの惹かれていた植物の変化の瞬間が切り取られています。
この可憐なアネモネの花は、冷たい風に弱く、花が咲くことは春の到来を意味します。
イースターの時期に毎年咲くので復活祭の花とも呼ばれており、永年を象徴している花でもあります(^^)/
1901年作フランスの薔薇のゴブレットは、装飾美術中央連芽美に依頼され、名誉会長レオン・サイモンに敬意を表して制作したものです。
他のアールヌーボー芸術家とは違って、ガレは薔薇を作品のモチーフにすることはあまりなかったのですが、この作品において薔薇を選んだのには意味があります。
サイモンは、薔薇のスペシャリストとして有名だったのです。
このゴブレットに描かれているのはただの薔薇ではありません!
「フランスの薔薇」として知られるロサ・ガリカという品種なのです。
ロザ・ガリカはフランス北東部に位置する都市メスのシンボル、モン・サン・カンタンの標高に生息する薔薇の一種です。
ガレの時代には、メスはドイツ帝国の支配下に置かれていました。
レオン・サイモンはメスの出身でしたが、ドイツに併合された時、故郷から追い出されてしまいました。
『フランスの薔薇』は、ドイツの占領下で必死に戦っていたのです!
ゴブレットには、蕾、開きかけているところ、そして満開の状態というように、花の成長段階が一つの作品上で表現されています。
これは、人生の移り行く局面の象徴でもあります。
マルケトリ技法を使って描かれた色とりどりの薔薇。
そして、ゴブレットの下部の複雑に絡み合う線は、静脈と動脈を表しており、自然や人間の強い生命力を感じさせます。
ダイオウの葉のゴブレットでは、ダイオウの葉に特徴的なデコボコした表面が表現されています。
作品の表面全体に施された『パチネ技法』もかなり見物です。
ガレが生み出し、特許を取得したこの技法は、天然ないしは人口の粉塵を使うことで窯の中で冷却を促し、艶のない錆色の特徴的な表面を作り出します。
この作品では、ダイオウの葉が枯れ、劣化する様子を表現するためにパチネ技法が用いられています。
ガレは人生の終わりが近づくにつれて一層、植物界の生命のサイクルに関心を寄せていったのです。
枯れてしまった植物を描いたとき、彼は自分の死を予期していたのでしょうか…。
そう考えると、少し悲しい気持ちになる作品です。
まとめ
ガレが生涯愛し、彼にたくさんのインスピレーションを与えた自然は、最高と最低、美と醜、生命と死を持ち合わせていました。
彼のガラス作品で表現された植物の幅は広く、芸術的な形や装飾がこれほどに様々に表現できることを証明しました。
ガレの編み出した技法、作品の形、絵柄、色合いは、すべて自然からひらめきを得たもので、多様性、特異性、進化などあらゆる自然の要素を作品に落とし込もうと試みました。
今回紹介したものは、ガレの辿った総合主義や自然主義、唯美主義が融合した芸術家としてのキャリアを示すほんの一部の作品です。
芸術家にとって表現の手段に正解はありません。
一番綺麗な自然の一場面を単に切り取って描けばいいというわけでもありません。
傑作を生みだすには、常に実験と試行錯誤が必要でした。
ガレが様々な作品を創り出すにあたって自然が重要であったことは、手記の中で強調されています。
「神秘的な構造と運命、また、芸術家の手によって表出される統制のとれたイメージのおかげで、時に人間よりも、花々は豊かな表情を持つことを我々は知っている。」