ルイス・コンフォート・ティファニーのティファニーガラス製造の秘密
ティファニーガラス製造の秘密
ルイス・ティファニー・コンフォートはそれまでの歴代の職人が使ってきた、同じ道具や素材を用い作品を作り始めました。ティファニーはガラス製造を科学として捉えた一方、それを光明と美学へと紡いでいきました。
ティファニーの熱い思いに感銘を受けた、才能あるデザイナーと職人らは、彼の全てのビジョンを現代ガラス芸術に熱心に取り組みました。
吹きガラス
吹きガラスは数々の才能ある職人によるチームワークによって製造されます。一般的に、ギャファーと呼ばれる上司役が1工場7人をまとめ上げます。
吹きガラスを1つ作るため初めに、ガラスの基となる素材を華氏2400度(摂氏1300度)の融液状態にしなければなりません。
型作り:職人が高温度の液状ガラス(ギャザー)を5尺長の吹きパイプ(ホローロッド)の先に集め取り付けます。
融液状ガラスはいくつかのツールによって吹かれ、転がされ、引き伸ばされたりと職人の思い通りの形へと変わります。
このステップにて、再加熱することで自在に形を変えることもできます。
仕上げ:型作りされた物は、吹きパイプから彫刻や細部加工するために金属棒(ポンティル)へ移します。
冷却:完成されたガラスはゆっくり時間をかけ冷やすため、なましオーブンへ。こ
のステップがないと、ガラスが型崩れして割れてしまいます。
花瓶 (1905)
この吹きガラス2つの創作がなされています。
茎のような管と土台の接合は熱い時に接合されました。
花瓶 c. (1906-13)
この吹きガラスの色付けはフリットあるいはガラスロッドによって手掛けられました。
オパール色ガラス
ティファニースタジオにて作られたガラスをオパール色ガラスまたはアメリカンガラスといいます。これらは、ティファニーと同時期に流行であったポットメタルとは根本的に別のものです。
ポットメタルは一様に色づけされた半透明に作られました。
職人たちはエナメル状のガラスペーストをポットメタル窓に強調性を表現しました。
対して、オパール色ガラスには様々な色や質感を施されます。
ティファニーは葉全体や織物の生地、水彩や日差しのさし方などを極めて細かくガラスに擬態しました。
ティファニーはガラスに塗装するのではなく、色を調合しガラス素材に混ぜガラスで色を表現しました。
後に彼は、ジョン・ラファージ(1835-1910)が特許申請中でありながら、自身のオパール色ガラス加工技術の特許を申請し取得しました。
ティファニーは自身のトレードマークである、ガラスや焼き物や金物をファブリルと名付けました。
ファブリルとファブリケートは由来が同じで、ティファニーは自らの手作りの質を自賛し名付けたと言われてます。
これが日本でも一番親しまれているファブリルガラスという事です。
ティファニーのガラスは様々な手法で作られています。
いくつかのガラスの破片は型に入れられ、他は平らな表面にまとめられました。
カーテンのように布に見えるドラペリーガラスを作るのに、職人たちは道具を巧みに使い熱いガラスを束にし引き伸ばしねじり上げます。
また、2色以上の溶液状のガラスを混ぜることで、縞や線のあるストリーキーガラスを作ります。
紙吹雪のように見えるコンフェッチガラスは、色付けされたガラスの破片上に溶液状のガラスを垂らす、あるいはその逆で溶液状のガラスに色付けされたガラスをぱらぱらと散らせることで作られます。
他にもガラス製法の手法は存在しますが文献に乏しく、ティファニーの作品としても現存するものは多くはありません。
花瓶 c. (1898)
ティファニーのキプロスガラスはラフで不均一で穴が表面に見られました。ティファニーの職人たちは表面を滑らかにするために溶液ガラスを用いました。
鉛ガラス窓
ティファニーのステンドグラス制作の始まりは、窓画の大下絵を小さなスケッチに描いたことでした。それを見たデザイナーが、それを元に下書きにあたる2つのカットラインを作りました。
1つ目のカットラインは窓組立体にパターンをなぞったものを。
2つ目は、多くの個々の断片やサイズのガラスを用意できるように裁断しました。
窓画のデザインは千ある数の色や質から選び、作っていきます。
すべてのガラス素材選びが決まると、大きく分けて2つの方法で組み立てられます。
鉛ガラステクニック::職人たちが裁断したガラスを鉛の桟(工事現場で見かけるアイビームのような)へ形を変えます。
ガラスの断片をアイビームのように型とられた桟に肉付けをしていくか、つなぎ目同士を接合していきます。
銅箔テクニック::鉛の桟は扱いが難しく、多くのガラスの断片破片を要します。
職人が鉛ガラスを使ったランプの笠を作る際に多く見られる技術として、鉛が固まってしまい溶接の機能を失ってしまう前に、笠の端を薄い銅箔で包み込みます。
この銅箔は蜜蝋を表に、裏には塩酸が施されています。蜜蝋がガラス同士を留め、また塩酸が接合ボンドの役割を果たします。
茶皿 c. (1901)
1870年代ティファニーはモザイクガラスを実験的に始めました。
1/4インチ平方ほどのガラスの破片粒はテッセラと呼ばれ、色のついたガラスから裁断され使われました。スタンドはクラーラ・ドリスコルがデザインしました。
鉛ガラスのランプ笠
鉛ガラスのランプ笠は、ランプのデザインを紙に色彩を施すことから始めます。次に、デザインを鉛筆と水彩と塗料で笠の形をした石膏に当初のデザインを写します。
そしてプロジェクトは木の彫刻へと進みます。
個々のガラスが作る影のパターンは鋳型に液状の鉛ガラスを流し込むことで作られます。
流行や基準と収益化はランプ製造に大きく関わります。
黄銅のパターンはほかの材質よりも流行に長くあり、利点も多々ありました。
影作りの始める際、開け口として黄銅リングを木の鋳型の頂点につけます。
職人が黄銅を施したガラスを集め、銅箔に包み小さな釘とともに鋳型に入れます。
上から下へと、ガラスの断片同士を開け口からひとつずつ組み合わせていきます。
このステップが終わると、鋳型に入れてあった影部分のガラスを取り外し、笠をひっくり返し、形を整えるために縁を取り付けます。
影は内側から接合され、また外側から玉縁付けされます。
玉縁付けはより重工な接合作業で、粗く仕上がった縁などを滑らかにし、銅箔の縁を保護する役割も果たします。
接合後は好みの接合色に加工できるよう緑青づけされます。
ランプ笠のデザインと製造は主に、ティファニーのスタジオの女性ガラス裁断課にて行われます。
これはアメリカ国内で女性が男性とともにガラス画やモザイクガラスの裁断と素材選びを可能にさせた初めてのものでした。
ティファニーは1892年ニューヨーク州コロナにて6人の女性を雇います。
そして1897年には40人から50人ほどの女性が彼のスタジオで働くまでになりました。
クラーラ・ドリスコル(1861-1944年)1900年ランプ笠“トンボと水パリ”でメダルをパリワールドフェアにて受賞したランプ笠職人兼管理責任者。