ルネラリック(Rene Lalique)のアクセサリー・ジュエリーからガラスを作り上げてきた歴史

ルネ・ラリックの作る作品が評価される歴史

ラリックの仕事上の転換点は1881年、フリーランスのデザイナーとして腕試しをしてみようと決心したときです。

当時のパリではルイ・オーコックとジュール・デスペートは、ブシュロンやカルティエ同様、才能のある若者を雇うパリの高給宝石店でした。


1885年にラリックはPlace Gaillon(彼の元の雇用者、デスペートの持ち物だった)に自身のアトリエを購入します。

彼自身の工房が開設されると同時に、ラリックの名は広がるようになりました。
(フリーランス時代は匿名でやっていたため)

すぐに彼の独特で自然にインスパイアされたデザインは、権威ある業界紙Le BijouLe Bijou【ル ベル ビジュ】に取り上げられると、批評家にも認められ、同業者から複製を作られるまでになりました。

評判が広がると、顧客はますます増加しました。

いつしか彼は、アールヌーボーと呼ばれるスタイルのヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の最高峰に置かれました。
 
ルネラリック作 トンボのジュエリー

 
今日、ラリックのジュエリーは、アールヌーボーのゴールドワークの中でも最高のものと考えられています。

それは完璧な職人技と自然主義・象徴主義に強く基づいたアイデアだけでなく、革新的な素材と技術の組み合わせも加わってのことです。

ラリックが作る作品は、彼以前の宝飾職人の作品、分かりやすく言いますと大きくて派手なダイヤモンドを使い、度を過ぎた、どちらかと言えばやや下品な「作品」とは全く違いました。
 
 
ラリックは様々な素材で作品を作りました。

時にはダイヤモンド、ルビー、サファイア、ゴールドに真珠や象牙、角、エナメルを合わせました。

彼の創り出すものは、新古典派の愛好家が最も好むものから氷で覆われた冬景色やどこか霊的な人間と昆虫のハイブリッドな生き物までさまざまです。

これらの宝飾品は、指輪、ブレスレット、ペンダント、ネックレス、ブローチのほかに毛皮、ティアラ、数多くの胸飾りもありましたが、中にはいささか大きすぎて身につけるのはどうかと思われるものもありました。
 
ルネラリック作 冬景色のブローチ

 
彼の作品の主題は自然界のもの、すなわち花や鳥類、ヘビ類や人間といったもので、それらをアールヌーボーの寓意的・象徴的なトーンで劇的に表現しました。
宝石や半貴石、金属、石に、着色したエナメルや象牙、べっ甲を用い、ラリックの作風の細部まで熟知している彼の工房の才能ある職人たちの手により作られました。
 
ルネラリック作 海の中を描いたブローチ

 
ルネラリックの顧客にはパリの多くの著名人がいました。
有名な作家、役者、政治家、ビジネスマンなどで、多くが彼の友人であり、同じ上位階級の、保守的な人々でした。

最も有名な顧客は、女優サラ・ベルンハルト(舞台で身につける装飾品などを製作)と、アルメニア生まれの金融家カルースト・グルベンキアンでした。

カルースト・グルベンキアンの150点あるラリック・コレクションは現在リスボン美術館に展示されています。
 
 
ルネ・ラリックの宝石や金を使った装飾品は、エミール・ガレのガラス工芸品やエクトール・ギマールやルイ・マジョレルの家具とともに、アール・ヌーボーの最も賞賛された作品でした。

それ故に、模造品も数多く出回りますが、多くは出来の悪いものでした。
 
 
やがて、ルネラリックは別の素材、「ガラス」を試し始めました。

彼はガラスに夢中になり、最終的には宝飾品からガラス作りに完全移行ことになります。

実際、1890年代初頭のラリックの作品には全体的にまたは部分的にガラスを使ったものがありました。

これらは、ほとんどがcire perdue(ロストワックス)と呼ばれる蠟型法で作られたものでした。

これはブロンズキャスティングに使う難しい技術で、1つの金型につき1つのエディションしか作れないものでした。
 
 
ラリックは過去数年間、新素材を探し求めていました。

それは自身の芸術を高みに導いてくれて、なおかつ贅沢な人たちの宝飾品から広く一般の人々にも受け入れられる宝飾品への移行を可能としてくれる素材です。

試行錯誤を繰り返しながら、ラリックは手に入るすべての素材を試しました。

金属、貝、角、様々な木...彼はそれら全てを実にうまく使いましたが、それでも満足できませんでした。
 
ルネラリック作 女性像のバックル

 
そしてやっと納得のいく新しいデザインを作り出しました。
宝石のようなクリスタルを組み込んだ金のバックルです。

これこそが探し求めていた素材なんです。

彼が長年に渡ってエナメルとともに取扱ってきた、とてもよく知っていた素材...酸化物を使って作ったガラスだったなんて。

当然、これまでの経験からガラスの作り方は熟知しています。
砂、炭酸カリウムに鉛...これらを使えばいいのです。

これならばうまくいくと確信し、ガラスこそが今後の彼の芸術において取り組むべきものだと思いました。
 
ルネラリック作 ガラスの花のジュエル


 
彼は台所で純度の高いガラスを作るために最初の実験をしました。
そして作ったのが波型の透き通ったガラスです。

Rue Thérèseの暖炉の火の上でごく普通の調理鍋を使って形成しました。

薪を積み重ね、炎をあげて..こうすることで、ただ、芸術作品を作り出すだけでなく、素晴らしいアイデアが生まれてきました。

激しい熱気の中、ラリックは一人で一心不乱に作業しました。
突然、彼は薪がパチパチと音をたてているのに気づきます。

この実験によってスタジオが燃えてしまったのです。
幸い家主が急いで消火し、ラリックはガラスの製造実験装置を守ることができました。
 
 
それによって作ったのが(図3)の作品です。

10 cmのストッパー付き矢じり型の小瓶でロストワックス製法で作りました。
瓶の内側には東洋風の魚が成形されていています。

この小瓶には、結局香水は入れなかったものの、歴史的意義の高い作品でした。
そのため、この瓶は1980年にフィリップス・ニューヨークのオークションでラリックのガラス作品としては最高額の$ 37,000で落札ましたです。

またそれ以前の1925年から1945年には、ルネ・ラリックが貸し出して、ルーヴル美術館で展示されました。これは芸術家にとっては最高の栄誉です。
 
 
上記で述べたRueThérèseは、現実にはラリックの3番目のアトリエです。


最初はPlace Gaillonのスタジオ、2番目はRue du QuatreSeptembreにスタジオでした。
この2つの工房は、RueThérèseにさらに大きな施設を作る以前の1890年までは同時に使用されていたようです。

しかし当時のスタッフが約30人で手狭になったため、RueThérèseに移ったのです。
ここはスタッフが働く十分な大きさの工房と、自身と妻のために家(3階建てのアパート)もありました。
ラリックに詳しいFélix Marcilhacによると、ルネ・ラリックは最初の妻マリー・ルイーズ・ランバートと1886年に結婚しますが、その後彼女は若くして死にます。
そして1902年には彫刻家オーギュスト・ルドリュの娘オギュスティーヌと結婚しました。
 
 
19世紀の最後の10年間には独力でのガラス作りの実験を始めたラリックでしたが、20世紀初頭まではラリックの主な業績といえば依然として金細工でした。

1900年のパリ万博では、ラリックの宝飾作品は大きな注目を集めました。


展示されたのは、戦闘シーンが描かれている銀や角や鋼鉄の短剣や、枠を囲うように2匹の青銅の蛇をあしらった姿見などです。

この姿見は、そのユリの池の形をした銀とガラスの中心部には青銅の翼と細い体の線の5人の妖精を配したものです。
 
 
1900年の展覧会は、金細工師としてのラリックの才能が広く認識された点でとても意義がありました。

しかし、これを境に彼の宝飾品の生産にかげりが見え始めるのです。