インペリアルポーセリン(ロシア ロモノーソフ)

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      動画でインペリアルポーセリンの歴史を知りたい方はこちらから↓



      磁器工場の誕生

      インペリアルポーセリンファクトリーは、1744年にネヴァポーセリンファクトリーという名前で完成します。

      ピョートル大帝の娘である、エリザヴェータ皇后の命令によって、サンクト・ペテルブルクに設立されました。

      エリザヴェータ

      ※エリザヴェータ

      サンクト・ペテルブルク

      サンクト・ペテルブルク拡大

      現在の首都はモスクワですが、サンクト・ペテルブルクは、1917年のロシア革命が起きるまではロシア帝国の首都でした。

      当時ロシアで初、ヨーロッパではマイセン(1710年)、リチャードジノリ(1735年)、ウィーン窯(1738年)に次ぐ4番目の磁器工場の誕生でした。

      (ちなみに5番目はセーブル窯で、1756年です。)

      真の立役者 ピョートル1世 

      ピョートル1世

      窯が完成したのは、エリザヴェータ皇后の時代ですがその礎を築いたのはそのお父さんであるピョートル1世になります。

      1718年にピョートル1世がザクセンを訪問した際に、彼はアウグストが持つドレスデンの宮殿の中で、マイセンの磁器を見ました。

       

      ザクセンの先端を走る、技術力と文化をその目で確認したピョートル1世は自国の科学技術や芸術の水準をヨーロッパと同程度もしくは、それ以上に確立すべく、磁器にも力を入れて行くことになるのです。

      しかし残念ながら、ピョートル1世は成功を目の当たりにすることなく、その意志は娘のエリザヴェータに引き継がれるのでした。

       

      エリザヴェータ皇后の時代

      当初、この工場はネヴァポーセリンファクトリーとよばれ、エリザヴェータ皇后のためにアクセサリーを作ったり、彼女の身近な人々へのプレゼントや外交の時の贈り物をつくったりしていました。

      タバコケース
      嗅ぎ煙草入れ

       

      天才と呼ばれたロシアの科学者、ヴィノグラードフがいわゆる「白い金」の制作に成功したのも、この工場でした。

      彼が作り出した磁器は、マイセンにも劣らぬクオリティーで、中国製の陶器に成分的にも近いものでした。


      1756年、ヴィノグラードフがより広い炉床を建設することに成功すると、より大きなものをつくれるようになりました。
      そして陛下のための、初めてのディナーセットが製作されたのです。

      それが、こちらの作品がエリザヴェータに向けて作られた、ピンク色の網目模様の作品です。

       

      コバルトペンシル

      「own service」 

      網目模様の、つなぎ目には薔薇が描かれており、上品でありつつも可愛らしい作品になっております。

       

       

      エカチェリーナ2世の時代

      エカチェリーナ2世が王位についた(1762年~1796年)後、工場は再度整備され、1765年、『インペリアルポーセリンファクトリー』と名前を変えました。

      名前の由来は、インペリアルは『帝国』という意味であり、『帝国磁器工場』という意味になります。


      18世紀後半あたりのロシアの磁器は、いわゆる黄金時代といわれています。

      インペリアルポーセリンファクトリーは、

      『アラベスク』、『ヤクチンスキー』や、『カビネツキー』などのディナーセットを生み出し、ヨーロッパでもっとも優れた磁器工場として知られていました。

      アラベスク
      アラベスクサービス

       

       

      アレクサンドル1世の時代

      アレクサンドル1世の時代(1801年から1825年)中、彼が非常に信頼していた皇帝顧問であるドミトリー・グリエフ伯爵が工場を管理していました。

      アレクサンドル1世もまたほかの皇帝と同じく、磁器工場へ大きな関心をもっていましたが、彼は多忙で磁器工場のために時間を割くことが難しかったため、グリエフ伯爵に依頼したのです。


      グリエフ伯爵は、当時のジュネーヴ大学工学教授であるグッテンベルガー教授の指導のもと、工場の大々的な再整備を行いました。

      彼は国内外の専門家を呼び寄せることに、資金を惜しみませんでした。

      芸術アカデミーの非常勤講師であり彫刻家のステパン・ピメノフを工場に招待し、さらにピメノフはアカデミーから、アレクセイ・ボロニキンをよびよせました。

      ステパン・ピメノフ

      彫刻家:ステパン・ピメノフ

       

      後に、セーブルから

      ・画家のアンリ・アダム

      ・金箔装飾家のデニス・モロット

      ・画家のジャック・フランソワ・ジョセフ・スウェバッハ

      をも招待しました。

       

      彼らは多くのロシア人磁器職人たちを育て上げ、磁器生産の向上に大きく貢献しました。



      ロシアの磁器は、皇帝を讃えるだけではなく、その当時の国の意向や姿勢をもあらわしていました。

      例えば、グルエフスキーディナーセットは、1812年祖国戦争に勝利した人々への頌歌(しょうか:ほめたたえてうたうこと)だといわれています。

      グルエフスキー
      グルエフスキーサービス



      この歴史的な出来事は、将校や兵士たちを描いた「戦争プレート」も生み出しました。

      さらにこの当時は、ポートレートもよく描かれていました。

      アレクサンドル1世の治世初期から1860年代までは、工場の製品として花瓶が特に特別な役割を果たしていました。

      金が最も人気のある装飾材料のひとつで、描かれたモチーフはそのほとんどが風景や、戦闘シーンでした。

      宮廷用のディナーサービスも、もちろん工場の重要な製品でした。

      ニコライ1世、アレクサンドル1世、アレクサンドル3世の時代

      ニコライ1世の時代は、磁器に描かれた絵の芸術性がとても突出していました。


      花瓶には、古き巨匠たち(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ティッツィアーノ、コレッジョ、ムリーリョなど)の傑作が描かれていました。


      それと同時に、花瓶やパネルに描かれるポートレートや聖像画、ミニチュア絵画も躍進を遂げていました。

      ロンドン、パリ、ウィーンで開催された万国博覧会では、磁器絵画におけるインペリアルポーセリンファクトリーの地位を見せつけました。

      ニコライ1世の肖像画
      ニコライ1世の肖像画のプレート

       

      この時代は主に、宮殿の飾りや皇帝のために作品が作り出されました。

      この当時、サンペテルブルグ宮殿のほぼすべてのディナーセットをインペリアルポーセリンファクトリーが、手がけていました。

      ロシアの有名な芸術歴史家であるフェドア・ソンツェフは、大クレムリン宮殿の内装も施し、ロシアのコンスタンチン・ニコラエビッチ大公のためにディナーセットをデザインしました。

      インペリアルポーセリンファクトリーは、1844年、創立100周年記念として、独自の博物館を設立しました。

      そこには、冬宮殿のコレクションからの展示品も飾られていました。

       

      その後

      1900年のパリ万博が不成功に終わったのち、インペリアルポーセリンファクトリーはアレクサンドロ・フョードロヴナ皇后からの支援を受けました。

      1900年後半、インペリアルポーセリンファクトリーは、ロシアの磁器製造の歴史の中で新古典主義を推進した「芸術世界」のメンバー(コンスタンチン・ソモフ、エフゲニー・ランセレイ、セルゲイ・チェホーニンなど)との連携を深めていきました。

      チェホーニンのカップ
      セルゲイ・チェホーニンデザインカップ




      1917年のロシア十月革命の後、インペリアルポーセリンファクトリーは国有化され、1918年にはステイトポーセリンファクトリーと名前を変えました。

      このあたり、ソビエト政権のはじめの数年でプロパガンダ磁器が、生産されました。


      1920年代のロシア磁器は、多くの熟練した芸術家たち(クストディエフ、ペトロフ・ヴォドキン、ドブジンスキー、マレーヴィチ、カンディンスキーなど)に支えられていました。

      彼らは「ソビエト帝国様式の巨匠」ともいわれているセルゲイ・チェホーニンの指導のもと働いていました。

       

      1958年 ブリュッセル国際万国博覧会

      このブリュッセル万博で、インペリアルポーセリンは素晴らしいモデルを発表して、金賞を受賞します。

      これが、インペリアルポーセリンの中でも看板となっている『コバルトネット』なのです。

      インペリアルポーセリン コバルトネット

      ※インペリアルポーセリン コバルトネット

       

      素地の上から、手書きでブルーラインを描きその上に22kの金彩の網目模様のスタンプを押します。

      そして、その上から釉薬をかけることで金彩は剥がれずに、長く使用することができるのです。

      元々こちらのモデルは、エリザヴェータに向けて作られた「own service」 にインスピレーションを受けてデザインされたと言われましたが、公式の声明ではそうではないようです。

      デザイナーはアンナ・ヤツケビッチという人物で、第二次世界大戦中に就職しました。

      工房のあるレニングラードは当時、ドイツ軍に包囲されており包囲攻撃はロモノーソフ工場にも及んでいました。

      包囲期間(1941年9月8日~1944年1月27日)

      そんな中、テープを窓に交差に貼りめぐらせたレニングラードの家々が、アンナ・ヤツケビッチの目を惹いたのです。

      警戒のライトや、午後の太陽が、幾何学模様を照らすと、それらは一瞬にして美しいものに見え、 インスピレーションを得たアンナは、そこから美しい模様を生み出しました。

       

      工場の名前の移り変わり

      1744 - インペリアルポーセリンファクトリー
      1918 - ステイトポーセリンファクトリー

      1925 - ロモノソフポーセラリンファクトリー
      1936 - レニングラードポーセリンファクトリー
      1993 -ロモノソフポーセリンファクトリー
      2005 - インペリアルポーセリンファクトリー

       

      1936年、レニングラードポーセリンファクトリーと名前を変えたのち、ソ連で最初のアートラボを開設しました。

      この時代はソビエトの文化が形を成してきた時期でもあり、レニングラードポーセリンファクトリーのN・スエティンは、『社会主義の生き方』にあわせた新しいソビエト磁器スタイルを開発しました。

      第一次世界大戦と大祖国戦争の間は、病院で使用する食器類など最前線のニーズにこたえるため、光学ガラスや、化学、技術用磁気の製造をしました。

       

      スターリン時代の華美な装飾の磁器を経て、1960年代には1920年代に謳われていた「日常生活の中のアート」、つまりシンプルな形やデザインの磁器へと方向性をかえていきました。

      1970年代からは国際芸術見本市に精力的に作品を出品しはじめ、1980年代にはゴールドマーキュリー賞も受賞しました。

      1990年代の初頭からは、優れた芸術家による、最高級品の製造に力を入れるようになりました。

       

      今でもインペリアルポーセリンファクトリーの、磁器の正確な構成は企業秘密です。

      サンクトペテルブルグの繁栄と、歴史を反映してきたこの美しい白磁は、いまでも世界中の人に愛されています。