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コールポートの陶磁器と歴史
コールポートはイギリスを代表する高級陶磁器メーカーになります。
現在では、ウェッジウッド社に買収されてしまいましたが、その洗練されたデザインはウェッジウッド社でも残されており、ハンティングシーンはブランド名こそ変わって生産されていますが、元々のデザインはコールポート社の物になります。
その他にもバットウイング、インディアンツリー等の食器は、現在でも市場に出て来れば、高額で取引されるモデルになっているほどコールポートを愛している人は世界中でたくさんいます。
また、コールポートの代表作は人形(フィギュリン)があります。
特に人気なのはmマリーアントワネットがそのまま人形にされた世界で12500体限定生産されたものです。
底面にシリアルナンバーが記載されております。
表情が穏やかで柔らかくその情勢をそのまま表現されているかの様に感じる事の出来る素晴らしい出来栄えになっています。
他にもマダムポンパドール、Mummys Little Helper等フィギュリンも非常に奥が深い物がたくさんあります。
コールポートが陶磁器製造の地として発展したのは、鉄製造業者ウィリアム・レイノルズによって推進された運河の建設によるものでした。
彼は運河と川を結びつけることで、さまざまな産業が土地を最大限に活用できるように、1788年から1792年にかけてヘイン斜面を建設しました。
翌年の1793年にはシュロップシャー運河が完成し、この地域の陶磁器産業の発展に不可欠なものとなります。
運河によって石炭を炭田から直接工場に運ぶことができるようになり、石炭はそこで陶器を焼くために使われました。
また、作られた陶磁器はセヴァン川を下って簡単に出荷することができました。
そしてこの新しい町で最も重要な産業となったのが、ジョン・ローズ(1772-1841)による陶磁器の工場です。
ジョン・ローズによる陶磁器工場
コールポートはローマ時代から陶磁器の生産で知られていた地域で、18世紀の終わりにはセヴァン川流域の小さな集落でした。
ちょうど川と運河の交わるところであったため、“運河(キャナル)”が変化して“コールポート”と呼ばれるようになったと言われています。
ジョン・ローズは、セヴァン川の反対岸にあるカフリーの陶磁器工場で、見習いとしてキャリアをスタートさせます。
1750年以降、カフリーでも陶磁器は生産されていました。
ジョンはカフリーの工場の1つを設立したトーマス・ターナー(1749-1809)という著名な陶芸家に弟子入りすることができました。
職人技術を身に着けたジョンは、1796年にコールポートで陶磁器の会社を設立します。
その後、実業家のエドワード・ブレイクウェイと手を組み、1799年にカフリーの陶磁器工場を買収し、1年後にはその近くのジャックフィールドという場所で別の陶磁器工場を作って、すぐに事業をコールポートに移します。
ジャックフィールドからコールポートへ新しく工場を移すと、彼らはロイヤルウースターのフライト&バーの様式をたくさん取り入れた良質の硬磁器を作り始めます。
ジョンの製品の特徴は、あまり透明度のない灰色がかった陶磁器で、黒い斑点はあるものの1750-60年の軟質陶器よりも強くて安価であるということでした。
この商品は、師匠であったトーマス・ターナーのものよりもずっと優れていました。
1800年までに、コールポート社は英国最大の陶器製造所となり、市場のリーダーとしてあらゆる形や模様のものを生産しました。
中でも、濃い染付の上に赤や緑の色絵と金箔が飾られた「日本」と呼ばれる模様のものが特に顕著です。
当時このような日本模様は、工業都市ダービーにあった工場でよく作られていましたが、コールポートでも非常に多くのパターンを作るようになり、おそらくダービーの工場よりも多く日本模様を作っています。
驚くべきことに、14年間の生産で少なくとも1419種類のパターン番号と、番号のない青と白のデザインが作られています。
1814年、アンスティス・ワークスという会社がジョン・ローズの会社に引き継がれ、2つの工場が統合されます。
カフリーにあったワークス社は廃業し、生産はコールポートに集中します。
1810年より後には、コールポート社の陶磁器はその柔らかな白い色調とクリーミーな透光性によって他のものと区別されるようになります。
1820年代初めにはさらに技術が向上し、より白く高い透光性のある、表面の滑らかな製品が作られるようになりました。
ジョンが無鉛釉薬を導入するようになった1820年より前には、柔らかく滑らかな鉛の釉薬が使用されていました。
釉薬に鉛を用いることは、その上に塗られたエナメルの輝きや繊細な色合いを増す効果がありました。
新しい無鉛釉薬によって、コールポート社は芸術協会から金メダルを獲得しました。
ジョンローズの下で工場は繁栄し続け、同年にはスウォンジーとナントガルの両方で陶磁器工場を買収しました。
主に設備のためでしたが、おそらくライバルによる買収を妨ぐ目的でもあったと思われます。
1821年にサミュエル・ウォーカーがマルーン色の下地を導入し、これがコールポート社の特徴となりました。
ジョージ4世の治世の間、装飾はより豊かで多様化します。
豪華なディナーやデザート、お茶のサービスが、鮮やかな色彩と金箔の施された陶磁器で支給されました。
1830年代初めから1840年代終わりにかけて、コールポート社の陶磁器はさらに多様化し、豪華に装飾されたロココ様式や花の象眼細工が特徴的なものとなりました。
花瓶、時計ケース、インクスタンド、バスケット、水差しなどは、丸く形作られたたくさんの小さな花が重ね付けされました。
このような製品は「コールブルックデール」と呼ばれ、青色でマークされている場合があります。
この時期、多くの工場がこのようなドレスデン(マイセン)からインスピレーションを得た商品を作りましたが、コールポート社(およびミントン)はこの分野の陶磁器におけるリーダーでした。
大きなピンクのバラやブーケが描かれた、さまざまなサイズの広口の水差しはコールポート社の専門分野でした。
大理石を模した彫像も1840年代後半から作られましたが、生産量はわずかです。
F. W. ローズは、この会社の陶磁器がこの上なく素晴らしいと考え、18世紀の装飾や色彩を再現することでセーブルやマイセン、チェルシーらの作品に対抗するプロジェクトに賛同します。
その後コールポート社は、イギリスの陶磁器では初めてセーブルの釉薬「ポンパドールの薔薇色」を再現し、1851年の大博覧会で金メダルを受賞しました。
その後も工場は1926年に閉鎖されるまで、素晴らしい陶磁器を作り続けました。
陶磁器の生産過程
1841年の国勢調査によると、コールポートには60歳の骨洗い人(通称アン・ジョーンズ)を含め285人の従業員が雇われていました。
1850年代までに、従業員の数は500人まで増加しました。
コールポートのボーンチャイナ(骨灰磁器)は約50%の動物の骨と25%のコーンウォール石、25%のコーンウォールの粘土から作られています。
骨は肉屋から直接届けられ、洗って焼かれた後に粉砕されて、他の成分と混ぜ合わされます。
次に、水を混ぜて液状粘土(スリップ)が作られ、「スリップキャスティング」と呼ばれる次の段階に移ります。
石膏型に粘土を注ぎ込むことで型は薄い粘土の層で覆われ、余分な粘土は流れ出ます。粘土が乾燥すると、収縮して型から取り外されます。
この方法は中が空洞の陶磁器を作るために使われます。
壊れやすい形をしたものを最初に焼く過程は「素焼き」と呼ばれ、1250℃の温度でボトルオーブンと呼ばれる窯で行われました。
これらの素焼き製品には特別な油が塗布され、粉末の着色釉薬が散布されました。
この段階で陶磁器は一度低温で地色を固められ、その後透明な釉薬に浸して再び約1100℃で焼かれました。
それからようやく釉薬のエナメルを使用して、手塗りの装飾を施すことができたのです。さまざまな色が異なる温度を必要とすることが多く、最高の作品には何度かの低温焼成が必要でした。
最後の仕上げは金メッキです。複雑なデザインは手で塗られ、金を固めるためにもう一度焼成されました。
輝きのある仕上げをもたらすため、細かい砂とメノウの道具で磨きあげることが必要でしたが、この作業は主に女性によって行われました。
シンプルな丸い形の粘土を作るためにコールポートで使われた技術には「ジガー」と「ジョリー」があります。
これは伝統的なろくろを進化させたものでした。
ジガーはお皿やソーサーなど平らな製品を、ジョリーはカップやボウルなど中が空洞の製品を作るのに用いられました。
ジガーとジョリーの回転軸は、小さな男の子が回す大きなフライホイールによって操作されていました。
この技術によって、コールポートでは毎日約1000点の製品を生産できるようになります。
コールブルックデール美術学校
1853年、コールブルックデール文学科学研究所が設立され、翌1856年にはコールブルックデール美術学校が設立されました。
学生の多くは、陶磁器やタイル製造業に就職することができました。
コールポート社もこの学校の卒業生を採用し、個々の作品をペイントさせたりオリジナルのデザインを作成させたりしました。
授業は有能な美術講師によって主宰され、60名の学生に2時間の描画クラス(一週間のうち夜3回、午前/午後1回)を指導しました。
ビクトリア式美術教育において、生命を描くことは人気の高い要素でした。
夜のクラスの授業料は、雇用主から補助が出されました。
美術の授業に加えて、機械設計描画や工学、実用数学といった技術課目も教えられました。1870年から1909年の間に、13人の学生が美術教師の免許を取り、5人が国からの奨学金を得て、ロンドンやサウスケンジントンから28個のメダルを得ました。
第一次世界大戦中も、女性教師や学生教師、18歳未満の学生のために学校は授業を続けました。 1924年、サロップ郡協議会が学校を買収し、コールブルックデール・イブニング・インスティテュートが設立されました。
第二次世界大戦中には、学校はリバプールからの避難者が集まる場所となります。
学校は1945年に再開し、1960年代後半まで続きました。
その後学校はしばらくの間図書館になり、1977年4月、協議会は建物をゴージ博物館に貸すことになりました。
ジョン・ランダル シュロップシャーの老紳士
ジョン・ランダル(1810-1910)はコールポートで最も有名な画家でした。
また、地元の歴史家であり、作家であり、化石と鉱物の収集家でもありました。
彼の叔父であるトーマス・マーティン・ランダルは、マデリーに陶磁器装飾のアトリエを所有しており、ジョンは18歳で見習いとなります。
その後ジョンは、ヨークシャーにある王立ロッキングハム陶磁器工場で2年間働きます。
1835年、彼は故郷のシュロップシャーに戻り、ジョン・ローズの経営するコールポート社に雇われ、その後46年間そこで働き続けます。
コールポートでの輝かしいキャリアにおける彼の作品には、1851年の展覧会と1871年の国際展覧会、1876年の芸術宝物展に出展したものなどがあります。
ジョンは鳥を描く才能に優れていました。彼の芸術的なスタイルは、1867年に彼が訪れたセーヴル陶磁器工場のものとよく似ています。
残念ながら、視力の低下によってジョンは1881年にコールポートから引退しなければなりませんでした。
しかし怠けることはなく、70歳でマデリーの郵便局長となります。
彼にはアンとルイーザという2人の妻がおり、1910年11月16日に亡くなった後は、マデリーの教会付属墓地に2人の妻の隣に埋葬されました。
彼の息子のトーマス・ジュリアス・ジョージもまた熟練した画家となり、コールポートで働きました。
コールポートで活躍した陶磁器画家
フレッド・ハワード(Fred Howard)
1900年から1920年頃にコールポートで働き、果物を描くことを専門としました。
フレデリック・ハーバート・チャイバース(Frederick Herbert Chivers)
1906年から1926年にかけて勤務(第一次世界大戦中は除く)。 コールポートが1926年に工場を閉鎖したあとはウォースター王立陶磁器で働き続けました。
トーマス・キリング(Thomas Keeling)
1900年代初めにコールポートで働きました。ふわふわした猫や歴史的な挿絵の研究で有名です。
パーシー・シンプソン(Percy Simpson)
1901年から残りの人生をコールポートで過ごし、魚や風景画を専門としました。彼は工場で芸術監督となりました。
フレッド・ハウイット(Fred Howitt)
1900年代初めにコールポートで働き、花と鳥の画家でした。
アーサー・ボウドラー(Arthur Bowdler)
コールポートで40年間働き、花、鳥、擬似宝石を描く専門家でした。
J.H.プラント
城の絵と、1897年にビクトリア女王60周年記念の花瓶を作ったことで有名です。