シュナイダー兄弟(Schneider)

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      シャルル・シュナイダーの水彩画 ナンシー美術学校 1900年 シュナイダー兄弟

      シャルル・シュナイダーの水彩画 ナンシー美術学校 1900年

      シュナイダー兄弟の形成期

      ロレーヌ出身のシュナイダー(本来フランス語読みではシュネデール、今後すべてシュナイダーと表記)一家がナンシーに住み着いたのは19世紀の終わり頃でした。
      エルンスト・シュナイダーがナンシーに赴いたのは1890年のことで、高等初等学校(中学校の前身)に通う為でした。
      1894年には母親と弟のシャルルも一緒に住むことになり、その後1908年に姉のエルネスティンも加わりました。

      1897年、シャルル・シュナイダーは16歳でした。
      彼はドーム兄弟のガラス工房で働き始め、その後1904年までナンシー美術学校で教育を受けました。
      次の年にはアントニン・ドームの支援により市の奨学金を受けることができ、パリの美術学校のジャン・シャルル・シャプランとフレデリック・ドゥ・ヴェルノンのアトリエに入って勉強を続けられることになりました。
      彼はガラスへのグラヴュール(彫刻)技術を習得し、1906年から1913年までのフランス人芸術家協会の美術展で数々の作品を発表しました。

      パリでの勉強と並行して、シャルル・シュナイダーはナンシーに美術品の店をオープンし、そこでメダルやカメオ、銅製の杯といったアール・ヌーヴォーに着想を得た作品を販売していました。
      また同時に、兄のエルンストが1902年から販売業務に携わっているドームの工房とのコラボレーションも追及していました。


      このような経験をした後、エルンストとシャルルのシュナイダー兄弟は1913年にエピネー・シュル・セーヌでガラス工房の営業を始めることに決めました。

       

      パリの美術学校でのシャルル・シュナイダー 1905年 シュナイダー兄弟

       

      パリの美術学校でのシャルル・シュナイダー 1905年

       

      シャルル・シュナイダー シュナイダー兄弟の弟

       

      シャルル・シュナイダー

       

      エルネスティン・シュナイダー シュナイダー兄弟の姉

       

      エルネスティン・シュナイダー

      シュナイダーガラス工房

      1913年にシュナイダー兄弟は、エルンストがドームガラス工房を辞めた時に受け取った手当と、建築家のアンリ・ウォルフ・メの出資金のおかげでエピネー・シュル・セーヌにガラス工房を買い足すことになりました。
      1914年に出資金によりガラス工房の仕事を始めるやいなや、第一次世界大戦と総動員令により工房の活動は中断せざるを得なくなりました。
      しかしながら、国内のガラス製衛生器具の需要が高まり、ガラス製医療器具制作のために工場を動かす必要があり、1917年にシュナイダー兄弟は動員解除されました。


      1918年に、会社は芸術的なガラス工房へと再転換しました。
      エルンストは手際よく工場を運営し、その間にシャルルは見本の構想に取り掛かりました。花と景色を描いたエナメル装飾の初めての作品群は、戦前に構想されていた習作を再開したもので、パリの美術学校で出会った友人のガストン・オフマンも同様でした。
      それでも、シャルル・シュナイダーはすぐに卓越した芸術家としての頭角を現しました。
      次第にアールヌーヴォーから遠ざかり、独自のジャンルを発展させます。ビビットカラーを使い、強く対照的で、自然をモチーフに使って様式化された、アールデコ様式を2つの大戦の間に作り上げたのです。

      シュナイダー、シャルダー(Charder)、ル・ヴェール・フランセ(Le Verre Français)の商流から広めることで、装飾ガラス製品は非常に良く売れました。
      分かりやすく解説しますとシュナイダーが1番お高いブランドで、そのセカンドラインがシャルダー、大衆向けがル・ヴェール・フランセです。
      例えるならレクサスがシュナイダーで、そのセカンドラインのトヨタがシャルダーでありその下のラインのダイハツがル・ヴェール・フランセという感じです。
      商流は、商売の流れのことで、シュナイダー、シャルダー、ル・ヴェール・フランセはそれぞれの販売店なり卸先をもっていて、どれくらいの価格のどういった商品をどこから流すか、ということを計算してシュナイダー兄弟は商品の販売計画を練っていたようです。
      例えば、同じランプでも量産しやすいものはスーパーに、手作業で時間のかかるものは百貨店に、といった具合です。
      1925年には500もの下請け会社を纏める為に工場を大きくし、アメリカ市場の要求に応えました。
      しかし、ガラス工場は1929年の世界恐慌に襲われ、そのすぐ後には生産中止を余儀なくされました。ガラス工場の運営は15年しか続けることができませんでした。

       

      シュナイダー兄弟 シュナイダーガラス工房の株券

       

      シュナイダーガラス工房の株券

       

      シュナイダー兄弟 ガストン・ホフマンによるティーカップの習作 1914年

       

      ガストン・ホフマンによるティーカップの習作 1914年

       

      シュナイダー兄弟 ガラス工房の印鑑

       

      ガラス工房の印鑑

       

      シュナイダー兄弟 新しい工房の建設 1925年

       

      新しい工房の建設 1925年

       

      シュナイダー兄弟 ル・ヴェール・フランセの装飾部門

       

      ル・ヴェール・フランセの装飾部門

      シュナイダーの系列

       

      1918年からシャルル・シュナイダーは後にシュナイダーのブランドを代表することになる3つのシリーズの初期モデルを作り始めました。
      繊細な細い軸の美しい杯と、高貴でいて温かみのある小さな美しい器、そして足が黒く色彩が強く華やかな大きな杯の3つです。

      これらの商品の流通の為に、32もの色が化学者のバビル氏によって作られました。
      有名なオレンジタンゴの他にもオパールイエロー、菫色やゴールドレッドなどです。
      色彩は粉にして表面にのせたり、作品の中に空中吹き上げによって組み込んだりしていました。
      これらの着色技術は、翡翠や大理石といった鉱物の世界を思わせるシリーズや、「フィレテ(線引き)」「エケル(うろこ模様)」の壺シリーズなど格式の高いシリーズに使われました。
      しかしながら、この装飾はよく「美しい壺」のようなストロー状のガラス作品の表面に使われました。
      また違うケースでは、カメオや回転盤による彫刻を施した「椿の壺」のような作品にも使用されました。

      1920年代の終わりには、シュナイダーブランドの作品は形状がより構造的に進化していきました。「ゴドロン(丸ひだ)」のシリーズでは、ガラスはより厚くなり、非常に繊細な色付けをされ、より半透明になりました。

       

      シュナイダー兄弟 花瓶 1928-1930年

       

      花瓶 1928-1930年

       

      シュナイダー兄弟 デッサン画

       

       

      シュナイダー兄弟 サイン

       

       

      シャルダーとル・ヴェール・フランセの系列

      ル・ヴェール・フランセのブランドは1918年10月に、高級なシュナイダーブランドとはっきりと分けた、より気ままなセカンドラインを作るために登録されました。

      シンプルな形状で自然にインスパイアされた様式化した装飾は、特にアメリカの顧客にもの凄い需要があり成功を収めました。
      新しい発想と色彩の新しさ、さらにはモチーフの艶と輝きが酸でのグラヴュール(彫刻)をしたマットな背景とのコントラストをなしている点などが高く評価されました。
      もし使える色が限られていたら(17色が実際に記録に残っています)、装飾は180種類以上なければならなかったでしょう。
      形の異なる器と数々の色を掛け合わせて、たくさんの型式を作り出したのです。
      このブランドは大量に販売されたことにより収益性のあるものでしたが、装飾へのグラヴュールという追加の作業のため利鞘は限られていました。

      はじめはピラミッド型のトリコロールがトレードマークで、次にそれがル・ヴェール・フランセのサインに置き換えられ、最終的に1925年にはこのブランドはシャルダー(Charder)という表現になりました。シャルル・シュナイダー(Charles Schneider)の短縮形です。

      1920年代の終わりごろには、作品は形状や装飾がより幾何学的な方向へと進化していきました。

       

       

      シュナイダー兄弟 ル・ヴェール・フランセのカラー図版

       

      ル・ヴェール・フランセのカラー図版

       

      シュナイダー兄弟 サイン

       

       

      シュナイダー兄弟 花瓶

       

      シュナイダー兄弟の商業的広がりと美術展

      シュナイダーガラス工房はパリの展示会に出展しておらず、ガラス工房の紹介記事もほとんど雑誌に掲載されていませんでしたが、大量の製品の流通が販売網を明らかにしてくれます。

      間違いなくエルンスト・シュナイダーがドームの工房で販売業務を行っていた経験が、会社の経営と商品化への迅速な対応へと繋がりました。
      なぜなら初めからすでに、エルンストは2つの商流を作るという独創的な方法をとっていたからです。
      シュナイダーのブランドは高級品をパリのパラディ通り54番地で販売しており、同時にル・ヴェール・フランセのブランドは同じ通りの14番地で、姉のエルネスティンに委託して販売していました。

      しかし、これら2つの販売拠点でもすぐに商品の流通には不十分になり、委託販売業者と販売代理店をフランス中に張り巡らせて販売することになりました。
      他方では、芸術作品を扱うデパートもガラス製品の販売を広げました。
      パリでは、ギャラリーラファイエットのアトリエやプリマヴェーラ、バース・エトルスク、ルアード、デルヴォーで販売されていました。
      リヨンでは、定期的に国際見本市に出展しており、それが数年後にはフランスの輸出品の大きな市場となりました。
      アメリカへ紹介される見本市の代理店や販売店が、ル・ヴェール・フランセからアメリカやアルゼンチン、ブラジルへの販路を優遇したからです。

      ガラス工房の黄金期は、間違いなく1925年の装飾芸術と現代工業の万国博覧会の時でした。
      そこでシュナイダーの工房はガラス製品・建築・家具・教育分野に割り当てられたパビリオンを代表して取り上げられました。
      4年後には、1929年の世界恐慌が無情にも工房を襲い、すぐ後に生産中止に追い込まれました。

       

      シュナイダー兄弟 シュナイダーガラス工房の訪問カード 1925年

       

      シュナイダーガラス工房の訪問カード 1925年

       

      シュナイダー兄弟 リヨンの国際見本市 1928年

       

      リヨンの国際見本市 1928年

       

      シュナイダー兄弟 パリの博覧会でのシュナイダーガラス工房のブース 1922年

       

      パリの博覧会でのシュナイダーガラス工房のブース 1922年

      シュナイダー兄弟のステンドグラス

       

      2010年にエピネー・シュル・セーヌのエルンスト・シュナイダーの自宅から取り外された紙ちょうちんと葡萄の実の2枚のステンドグラス以外には、何枚かのデッサンと非常に希少な証言しかなく、今日ではシュナイダー工房でステンドグラスを作成していた形跡はほとんど辿れなくなっています。

      それでもこのタイプの製品は、古い記録ではよく引き合いに出されています。
      何より、おそらくシャルル・シュナイダーがガラス画家のジャック・グルベールと出会ったのは、19世紀の末にナンシーで装飾作成の授業を受けた時で、その時に仕事を請け負ったものと思われます。
      次に、ステンドグラス制作の活動は1925年のガラス工房の訪問カードに器、杯、ランプ、モザイクガラスの活動と並んで名を連ねています。
      最後に、ステンドグラスの制作は1925年の万国博覧会で特に取り上げられています。
      なぜなら、複数のパビリオンにステンドグラスを納めているからです。
      教育技術のセクションでは、シュナイダーガラス工房は実演ブースを設け、その場でフランスセクションの会議室の天井用や、フランスワインの塔の窓用のステンドグラスを手がけました。

      無神論者として有名だったシャルル・シュナイダーは教会のステンドグラスは手がけていなかったようです。証拠となる下絵や草案を見ると、個人の邸宅や公共の建築物用に制作されていました。

       

      シュナイダー兄弟 パリ万国博覧会でのステンドグラス 1925年

       

      パリ万国博覧会でのステンドグラス 1925年

       

      シュナイダー兄弟 パリ万博でのフランスワインの塔 フランスワインの塔のステンドグラスの下絵

       

      パリ万博でのフランスワインの塔            フランスワインの塔のステンドグラスの下絵

       

      シュナイダー兄弟 ステンドグラス実演用のアトリエ パリ万博にて 1925年

       

      ステンドグラス実演用のアトリエ パリ万博にて 1925年

       

      シュナイダー兄弟 パリ万国博覧会のステンドグラス 1925年

       

      パリ万国博覧会のステンドグラス 1925年

      シュナイダークリスタルガラス工房

      第二次世界大戦後、シャルル・シュナイダーは長男のシャルル・ジュニアに新しいガラス工房を設立させました。
      形成技術者がエピネー・シュル・セーヌの一家の土地にクリスタル工房を設営するために、1947年に設計図とともに建設許可証を提出しました。
      工房は1950年にクリスタルリー・シュナイダー(Cristallerie Schneider、シュナイダークリスタルガラス工房)の名称で開業し、2番目の息子であるロベルト=アンリ・シュナイダーは父親同様に芸術関係の教育課程に進み、アートディレクターに就任しました。

      クリスタルガラス工房設立のための数年の活動にかかわっている父の傍らで、ロベルト・アンリ・シュナイダーは壁が厚く、ランダムに気泡があり、しばしば薄い青で着色され黒い斑点があるデザインの壺や杯を作りました。

      1950年代の美意識は、2つの世界大戦間のアールデコの時とは全く異なっていました。
      クリスタルガラスはガラスに置き換わりました。
      ビビットでコントラストの強い色合いは、無色ガラスにその座を譲りました。
      自由に吹き上げて成型していたクリスタルガラスは徐々に引き延ばしになりました。
      伝統の形以上に、ロベルト・アンリ・シュナイダーはまたオリジナルラインを作成しました。ブルジョワ、振り子、動物などです。

      1957年にガス爆発があり、クリスタルガラス工場は破壊されてしまいました。
      4年後に会社はロワレ県のロリスに移転します。
      装飾の多い作品を手掛けると同時に、クリスタルガラス工房はコップ類の製造も行っていました。
      この活動と並行して、ロベルト・アンリ・シュナイダーは独自の自由な作品を作り、初めての独立したアトリエを構えました。1977年に工房を引退し、兄のシャルル・ジュニアが最終的に1981年に工場を閉鎖しました。

       

      シュナイダー兄弟 エピネー・シュル・セーヌのクリスタルガラス工場設計図 1947年

       

      エピネー・シュル・セーヌのクリスタルガラス工場設計図 1947年

       

      シュナイダー兄弟 シュナイダークリスタルガラス工場の訪問カード

       

       

      シュナイダー兄弟 ロリスのクリスタルガラス工場(上部右側がロベルト・アンリ・シュナイダー)

       

      ロリスのクリスタルガラス工場(上部右側がロベルト・アンリ・シュナイダー)