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弊社が取り扱うガラスの工芸家ミューラー兄弟について
弊社で取り扱っているミューラー兄弟の商品は全て現地で仕入れ、調達してきている商品になります。
ミューラー兄弟は産業革命の時代に電気が普及していく中その流れをうまくつかみランプを中心に発展していったガラスメーカーです。
ミューラー兄弟は10人兄弟でしたが、そのうちの5人がフランスのガラス工芸家の中でも非常に優れていたエミールガレの元でガラス製作の技術を学びました。
その為非常にガレの影響を大きく受けている作品がたくさん残っています。
ミューラー兄弟は花瓶の製作もしていたましたがシャンデリア、テーブルランプを多く作っています。
ミューラー兄弟のランプには幾何学、朱雀、3色の色を配合して作られた被せガラスの作品が多く現在でもその明かりは幻想的な雰囲気に連れて行ってくれます。
ドーム兄弟、エミールガレ共にアンティーク照明やシャンデリア、テーブルランプを残していますがその中でも一番多いのがミューラー兄弟でありシャンデリア、テーブルランプの工芸家とも言えますね。
見逃せないのは、シェードのガラス部分を作ったのがミューラー兄弟であるのはもちろんの事、土台のブロンズの部分も専門の工芸家が作られている点にあります。
当時の階級制の社会の中、産業革命で富を手にした富裕層を満足させる為に ガラスのプロとブロンズのプロが共同して作っている完全にオリジナルのランプなのです。
日本ではアールデコ・アールヌーボーを代表するガラスの工芸家は、エミールガレ・ドーム兄弟・ルネラリックがかなりの割合で認知されていますが、世界では上記の工芸家はもちろんのことミューラー兄弟、シュナイダー兄弟、ルグラ、アンドレドラッド、デュゲ、ノバルディ、ポールニコラ、アマルリックワルター、アルジー・ルソーの作品も見直されています。
これらの工芸家も、芸術性が高く日本でも見直しが始まっておりますので、アールデコ・アールヌーボーのガラス工芸家を語る上では見逃せないガラスの工芸家と言えます。
この機会にミューラー兄弟のランプを手にされてみてはいかがでしょうか。
ガラスの工芸家ミューラー兄弟(MullerFreresLuneville)の歴史と素晴らしき作品をご紹介
フランス、リュネビルのミューラー兄弟のガラス工房は、ガレの工房で修業したガラス工芸一家出身の5人の兄弟(アンリ、デジレ、ウジェーヌ、ピエール、ヴィクトール)を中心に設立されました。1895年に、三男のアンリがリュネビルにガラス装飾スタジオを構えると、すぐ後に他の兄弟も加わりました。
第一次世界大戦に至るまで、ミューラー兄弟の工房では技術的に優れた独創的なガラス工芸品が多数製造されました。
中でも顕著な作品は、型に入ったガラス本体にエナメル加工を施し加熱し作られた花瓶です。 酸エッチングの使用により、鮮やかな色合いからぼんやりした陰影まで様々な効果が生まれました。
他にもシャペルとの共作では、金属とガラスを統合し鳥やかたつむり等ユニークなデザインを生み出しました。
第一次世界大戦でウジェーヌが戦死し、工場では生産が中止されました。
生き残った兄弟たちはハインツランに移り、ガラス製品の大量生産を開始しました。
後に流行の変化に伴い、アートデコ調の様式化された花模様や幾何学模様を含む製品も作り始めましたが、ガレの工房と同じく流行に追い付くのに遅れたことと世界恐慌が重なり1933年に工房は閉鎖されました。
風景を描いた花瓶
被せガラスの技法を使い複数の色を混ぜ合わせたシャンデリア
菖蒲の花の花瓶
ミューラー兄弟の生い立ち
ミューラー兄弟は、ロレーヌ地方のカルハウゼンで宿屋を営む家族のもとで生まれました。
長男と次男のデジレとユジェンヌは、アートガラス工芸の仕事をサンルイのクリスタルガラス製品所で学びます。
当時ドイツの占領下にあったカルハウゼンでは、男子は17歳になると兵役義務があったため、それを拒んで兄弟たちは17歳になる前に次々とナンシーへ向かいます。
デジレは17歳の時に、ナンシーにあるエミール・ガレのアトリエでエナメル装飾家として働き始め、アンリは28歳の時、ジーンは24歳の時にそれぞれガラス彫刻家としてガレのアトリエに加わります。
ミューラー兄弟の最初の作品はそれゆえに、ガレがリーダーであったナンシー派の影響を強く受けています。
そしてミューラー兄弟は、色の付いたガラスの層を重ねあわせて花瓶などを作る技法を発展させました。
続いて末っ子のビクトルとピエールも合流しますが、1895年頃にアンリとデジレはガレのアトリエを離れ、リュネヴィルに自分たちのアトリエを立ち上げます。
1896年には、両親を含むミューラー家全員がナンシーに移り住みました。
1904年、ユジェンヌはアンリとデジレのアトリエに加わります。
サント・アン通りのアトリエで3人の兄弟はビジネスを発展させ、のちに他の兄弟たちも加わります。
その後、アンリはリュネヴィルのサント・アン通りにあったいくつかのアトリエをクロワマールに移動させます。
このころから、それまで“ミューラー兄弟 リュネヴィル”だったサインが、“ナンシーのそば、ミューラークロワマール”に変わっています。
1905年、デジレはベルギーへと向かい、アンリはクロワマールに残りました。
他の兄弟たちもセーブルにある家を離れます。
ユジェンヌはベルギーでデジレと合流し、レオン・レドルー氏の指導の下に芸術品を作り始めます。その数は実に411点にのぼります。
1908年、ユジェンヌとデジレはリュネヴィルに戻り、アンリと共に新しく2つの工房を立ち上げます。
そこでは、製品ラインの導入と付属品の製造を含めた、半工業生産をスタートします。
1911年、彼らの作品はトリノでの国際博覧会で銀メダルを受賞します。
続いて1914年には、リヨンでの博覧会で金メダルを受賞しています。
しかし彼らの活動は1914年に始まった戦争によってストップし、その戦争でユジェンヌは亡くなってしまいます。
戦争で一部のアトリエが破壊されたため、1919年にミューラー兄弟はハインツランガラス工場を買い取り、「クロワマールのガラスとクリスタル」という新しい会社を作ります。
そしてそこで作った花瓶やカップ、水差しなどに彫刻を施しました。
用いられた技術はカメオ彫り、象眼細工、エナメル、被せガラスなど様々です。
同じころ、リュネヴィルでも「ミューラー兄弟によるガラスアート」という新しい会社を立ち上げます。
リュネヴィルで作られた作品には“ミューラー兄弟、リュネヴィル”というサイン、クロワマールで作られた作品には“G.V.クロワマール”というサインが入っています。
1925 年、パリ装飾芸術展覧会でミューラー兄弟は新作を発表し、大成功をおさめます。
クロワマールで250人、リュネヴィルで100人の従業員を管理するまでに成長を遂げました。
デジレは1929年にインターレイヤー技術を磨きます。
彼は鉄工職人のシャペルと共に新しい製品ラインを生み出し、動物の形をした金属のフレームを使って吹きガラスを作るようになりました。
彼らの芸術が頂点に達した頃、1929年の世界恐慌によりクロワマールとリュネヴィル工場の定員削減を余儀なくされます。
1934年ミューラー兄弟は、株主が自分たちを見捨てた後に、ガラス工芸の仕事をやめてしまうのです。
1935年にビクトルが亡くなり、次いで1936年にはアンリが亡くなり、1936年にガラス工場は幕を閉じます。
その後1938年には、デジレの息子ジョージとアンリの息子マルセルが、リュネヴィルに新しいアトリエを立ち上げます。
彼らは父親と同じような作品を作りましたが、第二次世界大戦によってこの会社も1940年に停止してしまいます。
1943年、デジレは自分の作品を作るだけの小さなアトリエを構えました。
ここで彼は素晴らしい作品をいくつか生み出します。
1946年には息子のジョージと一緒に会社を立ち上げ、10人の従業員が一緒に働きました。
デジレは1952年に亡くなるまでガラス製作を続け、ジョージは1957年に活動を停止しました。ここでミューラー兄弟のストーリーは終わっています。
1970-1980年代以降は、ミューラー作品のたくさんの複製品が登場します。
その複製品には“ミューラー兄弟 リュネヴィル”を略化したサインが記されています。
複製品の登場によってミューラー兄弟のあの有名なサイン“ナンシーのそば、ミューラークロワマール”が再び世に知れ渡りました。
このサイン、筆跡が様々で、その道に通じた人の目でも惑わされるほど質感が脆いものもあるので、注意深く見極めることが望ましいとされています。
ミューラー兄弟のサインが芸術的手法で記された作品は、たいへん珍しくなっています。
クロワマール ミューラー家最大のガラス工場
下記の画像は崩壊してしまったミューラー大ガラス工場の地で、その高い古壁をじっと見つめながら、哀愁にふける様子です。リュネヴィル周辺クロワマール
クロワマールのガラス工場はかつてナポレオン3世のもと、ギュメとスティンゲによって築き上げられていました。
1886年、工場の従業員は285名で、大部分の人々がクロワマールの小さな団地に住んでいました。
その団地はいつも工場のすぐ近く、目に見える場所にありましたが、今日は廃墟の状態のまま、残されています。
ガラス工場の繁栄を握ったのは、とりわけコップ、タンブラー類の製造品でした。
これは、人口の大量増加 1856年は806人、1886年には1268人 によってもたらされたものです。
しかし、19世紀の終わりには、ガラス工場は困難な局面を迎えていきます。
ボヘミア地方下での価格競争がすすみ、あらゆる市場が価格低下を招いたのです。
生産量は30%も落ち込み、ガラスそのものの質は現代にあったものが当然とされていきました。
ギュメの死(1893年)によって、負債が重なり、借金取りによりガラス工場を売却させられました。
バイリー夫人は落札者として名乗り出ましたが、この出来事も飛んでいってしまいます。
というのも、工場に活動的な労働組合のメンバーが、企業のトップに女性が就くことに憤慨し、株式会社の編成や、投資家を求めるストライキを巻き起こしたのです。
約60人の工員は各々の貯金を持ってきては、株主となりました。
この一連の事件は当時に衝撃を与え、つぎの記事が新聞に掲載されたことで有名になりました。
“この大胆かつまったく新しい試みは、資本と労動の両立がただの夢物語ではないということを証明しています。クロワマールの工員らは、それを試そうとしているのです。”
クロワマール ガラス工場(左)
当時、ガラス工場の工員は300人を占めていました。
そのうち80名は子供たちで、一日10時間15分の労働時間で働いていました。
従来の経営後、最初の業務年となった1894年には、6%の利益配当が株主に認められました。
しかし夢物語は長くは続かず、1904年、“資本と労働の結合”は破産し、ルシアンハインツラン氏による指揮のもと、事業はクロワマール大ガラス工場株式会社に引き取られます。
ルシアン氏はガラス従事者特有の人で、リュネヴィルのピカール工場(ガラス時計と言われている工場)やミューラー兄弟にもまた、ガラスや時計用の球形のガラス蓋を届けています。
そのとき天才的なガラス工、ミューラー兄弟はモーゼル県外に移住しており、リュネヴィルに居を構えるのに忙しくしていました。
戦争が終わり、ミューラー兄弟はハインツランにあるコップ、タンブラー類製造をメインで請け負うようになり、工場の操業を引き受けました。
その贅沢な時代で、ミューラー兄弟と姉は、辛辣にガラス版画を思い描き、色付きガラスを重ね合わせた層で品物を作りました。
輝かしい時代を過ぎると危機の到来です。
30年代の不況によってミューラー兄弟は破産を申し立てます。
そして、かつてのミューラーガラス工場の巨大な空間は部分的に買収され、二つの企業に占有されることになりました。