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ミントン(MINTON)の歴史
※ トーマス・ミントン
ミントンの創設者トーマス・ミントンはシュルーズベリー・グラマー・スクールを卒業すると、近くにあったカーフレイ社(後にコールポート者に買収される窯)でトーマス・ターナーに弟子入りし、彫刻家になることを学びました。
この頃のイギリスには、既に力を持っていたウェッジウッド、スポード、エインズレイなどの窯が存在し、それらの窯の下請けとして銅板転写技法を転写するために彫刻家になったのです。
スポード社の為に発案された、ウィローパターンや、ブローズリーのブルー・ドラゴンの発案に貢献し、そのデザインは今でも使用されています。
下記の画像はウィローパターンになります。
そして、トーマスは自分のブランドを持つために、1793年にイギリスのストーク=オン=トレントに移動し工房を設立しました。
ミントンの工房は、元々自分が持っていた銅板転写の技術を使っている為、製品は白地に青の絵付けを転写した作品で、有名な「ウィローパターン」デザインは人気を博しました。
これは、王侯貴族の文化に憧れる労働者階級の人々に大いに重宝され、ミントンのブランドはイギリスで有名になっていきます。
マジョリカ
マジョリカは1851年の大展示会で初めて展示され、庭用の大きな装飾品から、繊細な展示品、食卓用の食器や水差しまで、あらゆる種類の商品が生み出されました。
マジョリカは、ミントン・ボーンチャイナ、七宝焼き、パテ・シュール・パテ、エッチング金彩に続く、19世紀のミントンの大変クリエイティブで技術的で才能あふれるを代表する製品と言えるでしょう。
マジョリカは、フランスとイタリアのルネサンス様式の陶器を模倣して、1850年にミントンの工房によって開発された、イギリスの製品です。
マジョリカの語源は、イタリア語「マイオリカ」を、初期の作品を説明するためにミントンによって英語風に使用されたものです。
その製造方法は非常に特殊でした。
着色された釉薬を使用して、すでに成形された作品を色付けしたものでした。
その製法はすぐにイギリス、ヨーロッパ、北米の数多くのメーカー真似されました。
ミントンの磁器工房による作品は、19世紀に大使館や国家元首のために特別発注された食器の中で、最も人気のある食器でした。
1820年代にミントンはボーンチャイナの生産を開始し、この初期のミントン磁器はフランスのセーヴル磁器に匹敵するとされており、その作品にも大きな影響を与えていました。
完璧を求めるミントンの戦略のひとつとして、ミントンのボーンチャイナを一般の人々に手ごろな価格で提供する、というものがあり、トーマスはそれを実現しました。
同じころ、ミントンの置物と装飾用磁器の生産が増加します。
二代目のハーバード・ミントンの功績
1836年にトーマス・ミントンが亡くなり、息子のハーバートが事業を引き継ぎました。
ハーバード・ミントンが残した功績は、まずタイルを抜きにしては語れないでしょう。
当時のミントンの陶磁器工房の生産は、時代の典型的な形や装飾的なパターンに倣った、塗装または転写された、実用的で気取らない陶器やボーンチャイナの食器が主な商品でした。
また、新しい技術と生産方法を導入し、産業企業としても、芸術的卓越性溢れる工房としても、双方の観点で評判を得ていました。
画家であり彫刻家でもあるアルフレッド・ステヴァンス、フランスの彫刻家であるユーグ・プロタット、エミール・ジャンネスト、そして画家のジョン・シンプソンらも工房で雇用されていました。
1845年、ハーバートはマイケル=デイントリー・ホリンズと資本提携し、タイル製造のビジネス「ミントン・ホリンズ&カンパニー」として、さらに名が知られるようになりました。
ハーバート・ミントンは、1840年代に焼き付けタイルを作成する製法を確立したことで、世界中の施設、教会、やインテリアに使用されるタイル資材を提供する、巨大産業のトップに立ちました。
焼き付けタイルとは、さまざまな色の粘土で作られた装飾を表面に埋め込ませたセラミック製のタイルで、元々は中世に製造されていたものです。
後にハーバートは、転写および塗装されたタイルを製造するための、産業技術を活用することで、新たな道を切り開きました。
そして、20世紀が訪れるまで、ミントン社はクリストファー・ドレッサー、ウォルター・クレーン、モイヤー・スミス、ウィリアム・ワイズ等、時代を代表する芸術家達によってデザインされた、たくさんの種類のタイルを製造しました。
レリーフ成形タイルは、1860年代からミントン・シリーズに登場しました。
3代目 コリン・ミントンの功績
ハーバート・ミントンは1858年に亡くなりました。
ハーバートの死後、会社は甥のコリン・ミントン=キャンベル引き継がれました。
コリンは叔父のハーバートのように、先見の明のある人物でした。
コリンは、クリストファー・ドレッサーなどの新時代のデザイナーを取り入れ、作品に新しい風を吹き込みます。
1860年代よりミントンの作品は、オリエンタルなデザインが多くを占めました。
陶器およびボーンチャイナのデザインは非常に独創的で、中国の七宝焼き、日本の漆器と象牙文化、イスラムの金属細工、さらにトルコの陶器から影響を受けています。
実際に日本に訪れたことのあるクリストファードレッサーは、それまでの表面的な部分だけを模倣するジャポネズリーから、本質までを見極めた日本独特の芸術のジャポニズムの作品を生み出します。
これらの多くはクリストファー・ドレッサーによってデザインされました。
下記はクリストファードレッサーによって、デザインされたジャポニズム様式の飾り皿になります。
クリストファードレッサーの魅力を確認する方はこちらから↓
金彩の新しい技法
ミントンの初期から引き継がれる「ミントンの製品に素晴らしいデザインを描く」と言う信念は、ブランドの卓越した文化を無限に引き出し、ボーンチャイナ誕生以降の製品制作に大きく影響しました。
コリンがこの信念に従い、行ったもう一つの革新がエッチング金彩でした。
レイズド・ペーストゴールド
花の花弁の部分が、立体的に浮き上がってるのが分かると思います。
これがレイズド・ゴールドという技法になります。
7年間の修行を積んだ絵付け師だけが、描くことができる技法であり22金で手書きで描かれています。
22金をそのまま盛り付けているわけではなく、下の層には樹脂が溶着されておりその上から金彩で描く技法です。
アシッド・ゴールド技法
それまでの平面的な金彩だったものを、凹凸をつけて模様を浮かび上がらせる技法です。
腐食させない部分だけを、耐性シートで多いフッ化水素に浸すことで、耐性シートに覆われてない部分だけが腐食し模様が浮かび上がる技法です。
これらの技法がミントンで編み出され、当時の富裕層に大いに求められました。
アシッドゴールド、レイズドペーストゴールド共に動画でご覧になる方はこちらをご覧くださいませ。
ルイ・ソロンのパテシュールパテ
元々フランスのセーブル窯の技術者であった、ルイ・ソロンは普仏戦争でセーブル窯
が倒壊したために、ミントンの窯で働くことを決意します。
元々、セーブル窯で開発したパテ・シュール・パテ技術をミントンに紹介しました。
そのことによって、ミントン社からは複数のパテシュールパテの作品が生み出されることとなりました。
下記の飾り皿はソロン自身がパテシュールパテの技法で作った作品になります。
ミントンは、19世紀イギリスの磁器工房の中で、パテ・シュール・パテ製法を採用した唯一の工房で、パテ・シュール・パテのパイオニアでした。
パテ・シュール・パテは美しくしくも大変骨の折れる製法で、色付きの素材の上に粘土を溶解したスリップ液を何度も重ね塗りし、そのたびに乾燥させる必要があります。
ソロンと弟子たちは、この技法を使用し他のどの工房にも匹敵しないスキルで、布をまとった乙女や天使たちのデザインを纏った花瓶や絵皿を製作しました。
ミントン社が残してきたその他の功績
ここまでで、ご紹介できなかったその他の功績もここに記載させて頂きます。
パリアン製品(パリアン・ウェア)
ミントン製の磁器は、パリアン製品を代表する作品をいくつも世に送り出しました。
パリアン製品とは、1840年代に開発された素焼きの磁器の製作方法で、見た目が大理石のようになるのが特徴で、彫像作品に最もよく使用されています。
元々はコープランド(スポード)が編み出した技法なのですが、それをいち早くミントンが取り入れて、パリアンという名前をつけたことから、今でもパリアン磁器が一般名称になっております。
その時代以前に存在した大きな彫像作品の縮小モデルは、パリアン製品として生産され、人気を博しました。
その素材は、上塗り工程と絵付けが施されたボーンチャイナと組み合わせて、展示作品用に制作されていました。
20世紀のミントン
近年に近づくにつれて、ミントンの力は低下していくことになります。
そんな中でも、大ヒットとなったのがハドンホールでした。
ハドンホール
1949年、元々先代トーマスとハーバートが設立したシリーズの最新盤として、ハドンホールが考案されました。
ハドンホールはミントンの中で最も有名なパターンと言えるでしょう。
このデザインはデザイナーであるジョン・ワズワースが生み出しました。
彼は、ミントンの窯の近隣にあった中世の城『ハドンホールの礼拝堂』の壁画にヒントを得て、ゴシックスタイルのデザインを考案します。
それから、同じように才能のある息子が統治を引き継ぎます。二代目のの甥であるコリンは、起業家的であると同時に、卓越した芸術的スキルを持っていました。
ミントンようなブランドが創造され、長年にわたり愛され維持されるために多くの秀才たちが指揮をとってきたことがわかります。
しかし残念ながら、1968年にロイヤル・ドルトン・グループに吸収されるまで、2つの世界大戦中の混乱を含めて、20世紀の間ミントンにとって次第に困難な時代になりました。
その後2015年に親会社は、ウェッジウッド・グループに買収されました。