イタリアのヴェネチア製 ベネチアングラスの伝統を作り上げてきた職人名鑑(ジュゼッペ・バロヴィエール )
イタリアのヴェネチア製 ベネチアングラスの伝統を作り上げてきた職人名鑑
1000年もの昔から、伝統的技法を用いて作られ続けているベネチアングラスは、現代でも大人気の工芸品です。
このベネチアングラスは、イタリア・ベネチアの中でも、ムラーノ島内という限られた地域で、1000年もの間、脈々と受け継がれてきた伝統的技法のみを使って作られており、その高い技術は、しばしば世襲で受け継がれています。
今回は、歴史あるベネチアングラスの伝統を作り上げ、守り続けてきた数々の人物たちをご紹介していきたいと思います。
マリオ・アビス(Mario Abis) (1924~)
マリオ・アビス(Mario Abis)は、ベネチアのアカデミア美術学院で、絵画とグラフィックデザインを学びました。
1967年頃、ヴィストージ・ガラス工房(VETRERIA VISTOSI)で、イタリアの大型遊覧船アキレ・ラウロ号の窓をデザインしました。
また、1968年のベネチア・ビエンナーレ(現代美術の国際展覧会)に同工房が出品する作品のデザインも手がけました。
アンナ・オカダール(Anna Akerdahl)(1879-1957)
アンナ・オカダール(Anna Akerdahl)は、画家・グラフィックアーティストです。
彼女がデザインし、ANTICA VETRERIA FRATELLI TOSOガラス工房が制作したものが、カ・ペーザロ国際現代美術館の1920年の展覧会に展示されました。
また、彼女のデザインに基づき、S.A.I.A.R. FERRO TOSOガラス工房が制作した作品が、1921年のストックホルムで開催された展覧会に出品されました。
ジョヴァンニ・アルベルティーニ(Giovanni Albertini)
アルベルティ―ニは、建築家Lorenzo Radi(1803-1874)の甥です。19世紀、ガラスのエナメル彩に先駆けて取り組んだ人物で、SOCIETA ANONIMA PER AZIONI SALVIATI & C.の職人として活躍しました。
フランコ・アルビニ(Franco Albini)(1905-1977)
建築家フランコ・アルビニは、ミラノ工科大学を1929年に卒業し、卒業後は、古い建築物の復元に取り組んでいました。
1954年、Ludovico Diaz de Santillanaと協力し、VENINI & C. 工房のためにランプのデザインをいくつか手がけました。
フランチェスコ・アンドルファト(Francesco Andolfato) (1924~)
フランチェスコ・アンドルファト(Francesco Andolfato)は、伯父Romeo Ongaroの工房で、ガラスエングレーヴィング職人として修業を積みました。
工房からは1948~1952年のベネチア・ビエンナーレ(現代美術の国際展覧会)にAndolfatoが彫刻をほどこした花器が出品されましたが、Andolfatoは自分自身の名前でもこれらの展覧会に出品しました。
それが、1948年の”Artisan Hands” や、1950年の、Alduino Boscoloデザインによる作品です。
1949年、伯父Ongaroの死亡に伴い、Andolfatoは、1953年に自分自身のガラス工房をベネチアに設立するまでの間、伯父の工房経営を引き継ぎました。
Andolfatoは、通常の制作は、18世紀のスタイルで彫りをほどこす鏡にしぼっており、現代的な作品の制作は、展覧会への展示や、大きな取引先の特注などに限られました。
Andolfatoの新しい工房は、1954年、1962~1968年のベネチア・ビエンナーレに作品を出品しました。
1954年に出品した作品は、Ferruccio Quaia とGiulio Padoanのデザインによる花器でした。1962~66年に出品された作品は、Mirko Casirilによるデザインです。
中でも、1962年の”Lo Zodiaco”は、産業省賞を工房にもたらしました。
この工房は、1978年に制作を終了しました。
セルジオ・アスティ(Sergio Asti)(1926~)
建築家セルジオ・アスティは、SALVIATI & C. や同社の後継となったSALVIATI & C. S.P.A. のデザイナーでもありました。
同社からは、アスティによるデザインの作品が1962年("Marco”シリーズ)、1964年("Clio”)、1966年のベネチア・ビエンナーレに出品されました。
アスティの”Marco”シリーズの花瓶は、1962年にコンパッソ・ドーロ賞を受賞しました。コンパッソ・ドーロ賞とは、イタリアで最も権威あるデザイン賞です。
その後、ヴィストージ(VISTOSI)や、VENINI & C. 、SEGUSO VETRI D’ARTEなどにもデザインを提供しました。
ティナ・オーフィエロ(Tina Aufiero)(1959~)
ティナ・オーフィエロ(Tina Aufiero)は、アメリカ最高の美大と称される、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインに通い、ニューヨーク実験工房、ピルチャック美術学校で教師を務めました。
VENINI & C.にも採用され、”Alboino”の花瓶をデザインしました。
バラリン工房 創業一族
ジョルジオ・バラリン(Giorgio Ballarin)(1440-1506)
ダルマチア出身のジョルジオ・バラリンは、ムラーノ島のバラリン工房の創始者です。初めは、Marin Barovier のガラス工房に雇われていました。
1482年に初めて自分の工房を開こうと試みた際は失敗しましたが、1487年までにはSAN MARCO工房の経営が軌道に乗りました。
1493年、ジョルジオはフランスのロレーヌ地方からムラーノ島にガラス職人を連れてくることで、ムラーノ島に、窓ガラスの作り方と、ロゼキエロと呼ばれる透明赤色ガラスの生成技術を紹介しました。
ジョヴァンニ・バラリン(Giovanni Ballarin)(~1512)
ジョルジオ・バラリンの息子で、父ジョルジオの死後、家族で経営していたSAN MARCOガラス工房を引き継ぎました。
この工房が得意としていたのは、ラッティモと呼ばれる乳白色のミルクガラスの制作でした。
彼の死後、ムラーノの歴史と初期のガラス専門用語について書かれた記録に、ジョヴァンニについての記述があることが判明しました。
フランチェスコ・バラリン(Francesco Ballarin)
ジョルジオ・バラリンの息子で、16世紀前半にムラーノでガラス職人をしていました。
家族で経営していたSAN MARCOガラス工房を、弟のジョヴァンニから引き継ぎました。
ボローニャの修道士レアンドロ・アルベルティは1550年、著書 “Descrittione di tutta L’Italia”(『イタリアについて』)の中で、フランチェスコ・バラリンについて、彼の作ったガラス製のガレー船は、「部品、調度品などが完璧な出来で、信じられないほどだ」、また、ガラス製の花器の制作において、バラリンは同世代の職人たちのなかで最も優れている、と記述しています。
ベネチアの歴史家マリン・サヌードは、1525年、一流の名士たちによるフランス特使団がムラーノを訪れた際には、3つの訪問先のうちのひとつが、このバラリンのSAN MARCO工房だったと書き残しています。
ドメニコ・バラリン(Domenico Ballarin)(~1570)
ジョルジオ・バラリンの息子で、16世紀中ごろのSAN MARCO工房を経営していました。
フランス国王フランソワ1世が、1532年、ドメニコ・バラリンから数々のガラス製品を購入したそうです。
また、ルネッサンス期の大画家ジョヴァンニ・ダ・ウーディネ(Giovanni da Udine)がデザインを手がけたガラス製品も制作したこともあり、この作品は、同じくルネッサンス期の作家・詩人ピエトロ・アルティーノ(Pietro Aretino)に「この種の芸術の模範的存在」だと絶賛されました。
ピエトロ・バラリン(Pietro Ballarin)(1532-1599)
ドメニコ・バラリンの息子で、父ドメニコの死後、SAN MARCO工房の経営を任されました。
ピエトロが1590年にコンスタンティノープルに送った製品価格表は、16世紀後半におけるベネチアン・グラスの製品・価格について、後世の私たちに様々なことを教えてくれます。
ドメニコ・バラリン(Domenico Ballarin)(1575-1643)
ピエトロ・バラリンの息子で、父ピエトロの死後、SAN MARCO工房の経営を引き継ぎました。
ジャンバティスタ・バラリン(Giambattista Ballarin)
上記ドメニコ・バラリン(1575-1643)の息子です。1660年、ベネチア共和国の大評議会議員に任命されました。
ドメニコ・バラリン(Domenico Ballarin)(~1698)
ジャンバティスタ・バラリンの息子で、やはり、1666年にベネチア興和国の大評議会議員に任命されました。
グイド・バルサモステラ(Guido Balsamo Stella)(1882-1941)
バルサモステラは、エングレーヴィング作品が大変よく知られているガラス工芸作家です。画家、彫刻家、デザイナーとしても活躍しました。先にご紹介した、Anna Akerdahlと結婚しています。
1923年にはベネチアのジュデッカ島にガラスエングレービングの工房をつくりました。
ベネチア・ビエンナーレに1924年、1926年、1938年と、彼のデザインした作品が展示されました。(そのうち1938年に出品した作品は、Franz Pelzelが彫ったものです。)
1927年、バルサモステラは、自分の工房をS.A.L.I.R.(STUDIO ARS ET LABOR INDUSTRIE RIUNITE)に統合させ、Pelzelとともに同工房に加わりました。
1928年と1930年のベネチア・ビエンナーレには、このS.A.L.I.R.からの出展と、S.A.I.A.R. Ferro Toso(SOCIETA ANONIMA INDUSTRIE ARTISTICHE RIUNITE FERRO TOSO)からの出展を行いました。
バルサモは、S.A.L.I.R.の芸術監督を務めた後、1929~1933年にはモンツァ王宮に設立された応用美術学校の校長に就任しました。その後、1933年からはベネチアでも教鞭をとりました。
1941年に亡くなりましたが、バルサモがパドヴァ大学のためにデザインした花器は、1942年のベネチア・ビエンナーレに遺作として展示されました。また、1952年のベネチア・ビエンナーレでは、バルサモの回顧展が行われました。
建築家・デザイナーであるジオ・ポンティは、自らが発行していたデザイン雑誌『ドムス』の中で、「ガラス工芸品が、現代的な精神と最新の技術でエングレーヴィングされるようになったのは、大半がバルサモのおかげである」(1941年秋)と書いています。
アルフレッド・バルビーニ(Alfredo Barbini)(1912~)
両親共にムラーノのガラス工芸一族で、父親のバルビーニ一族はビーズ工房、母親のフーガ一族は吹きガラス工房を営んでいました。
アルフレッド自身は、1925年、13歳にしてS.A.I.A.R. Ferro Tosoで吹きガラス職人として働き始め、1929年にはCRISTALLERIA DI VENEZIA E MURANO で吹きガラスのマエストロ(熟練工)になりました。
1932年にはミラノのガラス工房にも雇われましたが、またすぐにベネチアに戻り、やはりマイスターとして新しいZECCHIN & MARTINUZZI VETRI ARTISTICI E MOSAICIの工房で働き始めました。
そして、1936年から1944年にはS.A.V.A.M.の共同経営者兼吹きガラスのマエストロとして活躍しました。
第二次世界大戦後、Archimede Segusoとともにガラス工房をたちあげましたが、ナポレオーネ・マルティヌッツィとの研究にニューヨーク芸術基金から奨学金をもらえることになり、その工房からは退きました。
1947年にはGINO CENEDESE & C. の経営者、デザイナー、マエストロに就任しました。そこで数々の彫刻作品を制作しました。1948年にベネチア・ビエンナーレに出品された”massiccio”もそのひとつです。
その後、同工房を辞め、1950年には自分自身の工房VETRERIA ALFREDO BARBINIを設立しました。後(1983年以降)に、ALFREDO BARBINI S.R.L.として知られるようになった工房です。
また、ドイツのガラス工芸家Gral-Glashutteのためのデザインも手掛けました。
ベネチア・ビエンナーレには、同工房から1950、1954、1960、1962、1968年に彼自身の作品を出品しました。
このアルフレッド・バルビーニは、20世紀のムラーノを率いた人物として広く知られています。ベネチアの産業協会からはオゼッラ賞を受賞、栄誉あるイタリア共和国功労勲章のひとつ「コメンダトーレ」も受章しましたし、Settemari協会からは1989年の「ベネチアン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。
フラヴィオ・バルビーニ(Flavio Barbini) (1948~)
アルフレッド・バルビーニの息子です。ベネチアのLiceo Artistico Carminiで修業を積んだ後、父親のVETRERIA ALFREDO BARBINI工房に入り、デザイナーを務めました。
フラヴィオのデザインした作品は、1972年のベネチア・ビエンナーレに出品されました。
オセアニア・バルビーニ=モレッティ(Oceania Barbini-Moretti)(1939~)
アルフレッド・バルビーニの娘です。父親のVETRERIA ALFREDO BARBINI工房に入り、後に販売部長として活躍しました。
バロヴィエール一族
アンジェロ・バロヴィエール(Angelo Barovier)(1405-1460)
今日までムラーノで活躍し続けているバロヴィエール一族の祖先にあたる人物です。
父ジャコポの工房を出て、1422年に自分の工房、ALL’ANGELOを設立しました。
アンジェロ・バロヴィエールは、1453年以前に「クリスタッロ」(水晶のように透明度の高い無色透明のガラス)の製法を発明したことで大変有名です。同じ頃、「カルセドニー」(石英を模したようなガラス)を作る技術を発明あるいは再発見したことでも知られています。
ミラノの著名な建築家アントニオ・フィラレーテ(Antonio Filarete)は著書の中でアンジェロについて、「親しい友人」だと述べた上で、アンジェロの「クリスタルガラスで作られた美しい作品」を絶賛しています。
ジョヴァンニ・バロヴィエール(Giovanni Barovier)(1839-1908)
VETRERIA FRATELLI TOSOで職人をしていた際、1864年のムラーノガラス展示会で金メダルに輝いたシャンデリアの制作に関わっていました。
この工房を出た後、SALVIATI & C.S.A.に入り、ガラス職人のマエストロとして活躍しました。ムラーノにおける最も優れたガラス工芸家だと評判にもなり、1870年のロンドン国際労働博覧会に作品を出品しました。
その後、兄のアントニオ、甥のジュゼッペ、ベンヴェヌート、ベネデットとともに、自分たちの工房FRATELLI BAROVIER を設立し、SALVIATIの新会社に製品を供給する工房として出発しました。
ジュゼッペ・バロヴィエール(Giuseppe Barovier)(1853-1942)
SALVIATI & C.S.A. 、そしてその後継となったCOMPAGNIE DI VETRI E MOSAICI DI VENEZIA E MURANO で、吹きガラス職人としてのキャリアを積みました。その中で、ムラーノにおける最も優れたガラス工芸家と言われるほどの高い評判を得ました。その後、1870年にロンドン国際労働博覧会に出品しました。
1878年には、それまで働いていた工房を出て、伯父のジョヴァンニ、父アントニオ、弟のベンヴェヌート、ベネデットとともに、自分たちの工房FRATELLI BAROVIER を設立し、SALVIATIの新会社に製品を供給する工房として出発しました。
ジュゼッペの作品の中でももっともすばらしいのは、1913年にカ・ペーザロ美術展に出品されたプレートでしょう。黒い地に、色とりどりのクジャクがムッリーネで描かれたものです。
イル・ガゼッティーノ新聞に、「美術館じゅうが、新しいガラス芸術の魔術師ジュゼッペ・バロヴィエールのみごとなガラス工芸作品を称えていた。16世紀の天才たちの真の後継者が現れた。」と書かれたほどでした。
エルコール・バロヴィエール(Ercole Barovier)(1889-1974)
エルコール・バロヴィエールは、20世紀のムラーノを代表する、大変人気で秀でたガラス工芸家で、非常に有名で成功した工房の設立者でもあります。
薬学を学び、第一次世界大戦では無線通信士として従軍した後、1919年、兄のニコロ(Nicolo)とともに、VETRERIA ARTISTICA BAROVIER & C. の再建に尽力し、経営に携わるようになりました。
1920年には父の引退に伴い、エルコールが取締役に就任しました。1930年頃世界を襲った世界恐慌のため、バロヴィエールの工房も経営が苦しくなり、1931年、エルコールとニコロ以外のパートナーは全員退職に追い込まれました。
ニコロ自身も2年後の1933年、フローレンスのモザイク工房の共同経営者となり、その結果、バロヴィエールの工房はエルコールが単独経営者として取り仕切ることになりました。
その後、1936年に破産してしまいましたが、S.A.I.A.R. Ferro Tosoと合併し、FERRO TOSO BAROVIER VETRERIE ARTISTICHE REUNITE S.A. として操業を始めました。
そして1939年、BAROVIER TOSO & C. として再編成した後は、現在もこの名前で操業を続けています。
エルコール・バロヴィエールは、多作で、革新的に活躍した人物で、彼が発明あるいは再開発し、名付けた技法が多数存在します。
例えば、プリマヴェーラ(1930年)、クレプスコロ(1935年頃)などです。
エルコール・バロヴィエールがデザインした作品は、ベネチア・ビエンナーレに多数出品されました。
1928年(”Pianta Grassa” シリーズ)、1932年(「プリマヴェーラ」)、1932年、1934年、1936年(”Autunno Gemmato”、”Laguna Gemmata”)、1938年(”Rostrato”)、1940年(”Groviglio”、”Oriente”、”Rugiadoso”、”Rilievi Aurati”)、1942年(”Superbole”)、1948年(”Damasco”、”Corinto”)といった具合です。
数々のすばらしい作品を作り上げてきたエルコールの偉業は死後も称えられ、1989年、ベネチアにあるコッレール美術館では回顧展「エルコール・バロヴィエール 1889-1974」が開催されました。