商品一覧
弊社で取り扱うイギリス製 コールポートについて
弊社のコールポートの商品は現地で調達(買い付けしてきた)商品になります。コールポートはイギリスを代表する高級陶磁器メーカーになります。現在ではウェッジウッド社に買収されてしまいましたがその洗練されたデザインはウェッジウッド社でも残されておりハンティングシーンはブランド名こそ変わって生産されていますが元々のデザインはコールポート社の物になります。その他にもバットウイング、インディアンツリー等の食器は現在でも市場に出て来れば高額で取引されるモデルになっているほどコールポートを愛している人は世界中でたくさんいます。その他にもコールポートの代表作は人形(フィギュリン)があります。特にマリーアントワネットがそのまま人形にされた世界で12500体限定生産されたものです。
底面にシリアルナンバーが記載されております。
表情が穏やかで柔らかくその情勢をそのまま表現されているかの様に感じる事の出来る素晴らしい出来栄えになっています。他にもマダムポンパドール、Mummys Little Helper等フィギュリンも非常に奥が深い物がたくさんあります。
コールポートの陶磁器と歴史
ジョン・ローズによる陶磁器工場
コールポートはローマ時代から陶磁器の生産で知られていた地域で、18世紀の終わりにはセヴァン川流域の小さな集落でした。ちょうど川と運河の交わるところであったため、“運河(キャナル)”が変化して“コールポート”と呼ばれるようになったと言われています。

翌年の1793年にはシュロップシャー運河が完成し、この地域の陶磁器産業の発展に不可欠なものとなります。運河によって石炭を炭田から直接工場に運ぶことができるようになり、石炭はそこで陶器を焼くために使われました。また、作られた陶磁器はセヴァン川を下って簡単に出荷することができました。そしてこの新しい町で最も重要な産業となったのが、ジョン・ローズ(1772-1841)による陶磁器の工場です。

1750年以降、カフリーでも陶磁器は生産されていました。ジョンはカフリーの工場の1つを設立したトーマス・ターナー(1749-1809)という著名な陶芸家に弟子入りすることができました。
職人技術を身に着けたジョンは1796年にコールポートで陶磁器の会社を設立します。その後、実業家のエドワード・ブレイクウェイと手を組み、1799年にカフリーの陶磁器工場を買収し、1年後にはその近くのジャックフィールドという場所で別の陶磁器工場を作って、すぐに事業をコールポートに移します。
ジャックフィールドからコールポートへ新しく工場を移すと、彼らはロイヤルウースターのフライト&バーの様式をたくさん取り入れた良質の硬磁器を作り始めます。ジョンの製品の特徴は、あまり透明度のない灰色がかった陶磁器で、黒い斑点はあるものの1750-60年の軟質陶器よりも強くて安価であるということでした。
この商品は、師匠であったトーマス・ターナーのものよりもずっと優れていました。
1800年までに、コールポート社は英国最大の陶器製造所となり、市場のリーダーとしてあらゆる形や模様のものを生産しました。中でも、濃い染付の上に赤や緑の色絵と金箔が飾られた「日本」と呼ばれる模様のものが特に顕著です。当時このような日本模様は工業都市ダービーにあった工場でよく作られていましたが、コールポートでも非常に多くのパターンを作るようになり、おそらくダービーの工場よりも多く日本模様を作っています。

1814年、アンスティス・ワークスという会社がジョン・ローズの会社に引き継がれ、2つの工場が統合されます。カフリーにあったワークス社は廃業し、生産はコールポートに集中します。
1810年より後には、コールポート社の陶磁器はその柔らかな白い色調とクリーミーな透光性によって他のものと区別されるようになります。1820年代初めにはさらに技術が向上し、より白く高い透光性のある、表面の滑らかな製品が作られるようになりました。
ジョンが無鉛釉薬を導入するようになった1820年より前には、柔らかく滑らかな鉛の釉薬が使用されていました。釉薬に鉛を用いることは、その上に塗られたエナメルの輝きや繊細な色合いを増す効果がありました。
1821年にサミュエル・ウォーカーがマルーン色の下地を導入し、これがコールポート社の特徴となりました。ジョージ4世の治世の間、装飾はより豊かで多様化します。豪華なディナーやデザート、お茶のサービスが、鮮やかな色彩と金箔の施された陶磁器で支給されました。

陶磁器の生産過程
1841年の国勢調査によると、コールポートには60歳の骨洗い人(通称アン・ジョーンズ)を含め285人の従業員が雇われていました。1850年代までに、従業員の数は500人まで増加しました。
コールポートのボーンチャイナ(骨灰磁器)は約50%の動物の骨と25%のコーンウォール石、25%のコーンウォールの粘土から作られています。骨は肉屋から直接届けられ、洗って焼かれた後に粉砕されて、他の成分と混ぜ合わされます。
次に、水を混ぜて液状粘土(スリップ)が作られ、「スリップキャスティング」と呼ばれる次の段階に移ります。石膏型に粘土を注ぎ込むことで型は薄い粘土の層で覆われ、余分な粘土は流れ出ます。粘土が乾燥すると、収縮して型から取り外されます。この方法は中が空洞の陶磁器を作るために使われます。壊れやすい形をしたものを最初に焼く過程は「素焼き」と呼ばれ、1250℃の温度でボトルオーブンと呼ばれる窯で行われました。
最後の仕上げは金メッキです。複雑なデザインは手で塗られ、金を固めるためにもう一度焼成されました。 輝きのある仕上げをもたらすため、細かい砂とメノウの道具で磨きあげることが必要でしたが、この作業は主に女性によって行われました。


コールブルックデール美術学校
1853年、コールブルックデール文学科学研究所が設立され、翌1856年にはコールブルックデール美術学校が設立されました。学生の多くは、陶磁器やタイル製造業に就職することができました。 コールポート社もこの学校の卒業生を採用し、個々の作品をペイントさせたりオリジナルのデザインを作成させたりしました。
授業は有能な美術講師によって主宰され、60名の学生に2時間の描画クラス(一週間のうち夜3回、午前/午後1回)を指導しました。ビクトリア式美術教育において、生命を描くことは人気の高い要素でした。夜のクラスの授業料は、雇用主から補助が出されました。美術の授業に加えて、機械設計描画や工学、実用数学といった技術課目も教えられました。1870年から1909年の間に、13人の学生が美術教師の免許を取り、5人が国からの奨学金を得て、ロンドンやサウスケンジントンから28個のメダルを得ました。
第一次世界大戦中も、女性教師や学生教師、18歳未満の学生のために学校は授業を続けました。 1924年、サロップ郡協議会が学校を買収し、コールブルックデール・イブニング・インスティテュートが設立されました。 第二次世界大戦中には、学校はリバプールからの避難者が集まる場所となります。学校は1945年に再開し、1960年代後半まで続きました。その後学校はしばらくの間図書館になり、1977年4月、協議会は建物をゴージ博物館に貸すことになりました。


ジョン・ランダル シュロップシャーの老紳士
その後ジョンは、ヨークシャーにある王立ロッキングハム陶磁器工場で2年間働きます。1835年、彼は故郷のシュロップシャーに戻り、ジョン・ローズの経営するコールポート社に雇われ、その後46年間そこで働き続けます。コールポートでの輝かしいキャリアにおける彼の作品には、1851年の展覧会と1871年の国際展覧会、1876年の芸術宝物展に出展したものなどがあります。
ジョンは鳥を描く才能に優れていました。彼の芸術的なスタイルは、1867年に彼が訪れたセーヴル陶磁器工場のものとよく似ています。残念ながら、視力の低下によってジョンは1881年にコールポートから引退しなければなりませんでした。しかし怠けることはなく、70歳でマデリーの郵便局長となります。彼にはアンとルイーザという2人の妻がおり、1910年11月16日に亡くなった後は、マデリーの教会付属墓地に2人の妻の隣に埋葬されました。彼の息子のトーマス・ジュリアス・ジョージもまた熟練した画家となり、コールポートで働きました。
コールポートで活躍した陶磁器画家
フレッド・ハワード(Fred Howard)
1900年から1920年頃にコールポートで働き、果物を描くことを専門としました。

フレデリック・ハーバート・チャイバース(Frederick Herbert Chivers)
1906年から1926年にかけて勤務(第一次世界大戦中は除く)。 コールポートが1926年に工場を閉鎖したあとはウォースター王立陶磁器で働き続けました。

トーマス・キリング(Thomas Keeling)
1900年代初めにコールポートで働きました。ふわふわした猫や歴史的な挿絵の研究で有名です。

パーシー・シンプソン(Percy Simpson)
1901年から残りの人生をコールポートで過ごし、魚や風景画を専門としました。彼は工場で芸術監督となりました。
フレッド・ハウイット(Fred Howitt)
1900年代初めにコールポートで働き、花と鳥の画家でした。
アーサー・ボウドラー(Arthur Bowdler)
コールポートで40年間働き、花、鳥、擬似宝石を描く専門家でした。
J.H.プラント
城の絵と、1897年にビクトリア女王60周年記念の花瓶を作ったことで有名です。

