カルティエとジャガールクルトってどんな関係があるの?

どうも、こんにちは。

アンティークテーブルウェアの妹尾です。

カルティエといえば、まず最初に宝飾品ブランドのイメージが来ると思うのですが、世界初のメンズ腕時計はカルティエが作ったサントスというモデルとして世界的に認識されています。

そんな宝飾品ブランドであったカルティエという会社ですが、最初から時計の技術を持っていたかというとそうではありません。

そこには、カルティエとジャガーとルクルトの関係があったことによって、カルティエが世界初の腕時計を誕生させることが出来たのです。

ここではそんなカルティエ社の腕時計の誕生の歴史と、ジャガーとルクルトとはどういった関係だったのかを解説して参ります。

この動画を最後までご覧頂くことで、カルティエの時計作りの歴史が分かると思いますし、カルティエのデザインはなんで直線がメインなのかが解明できますのでどうか最後までお付き合いください。

目次は概要欄に入れてますので、気になるところがあったらそこからご覧ください。

 

それでは早速やって参りましょう。

 

カルティエとジャガー・ルクルトの関係

カルティエ ルクルト社製ムーブメント搭載の懐中時計

まず初めに、上記の写真をご覧ください。

こちらはカルティエの懐中時計ですが、文字盤を良く見てみるとルクルトと記載されています。

今でこそほとんどの有名ブランドは、ムーブメント(時計を動かす機械)は自社で作れるようになりましたが、それはまだ最近の話で1970年代くらいまではエボーシュというムーブメントを作る専用のブランドから、ムーブメントを購入してそれを自社の時計の中に搭載させていました。

ここで出てくるのが、ジャガールクルトという会社なのですがこの会社もムーブメントを作ることが得意であり、様々なブランドに提供していました。

正式に言うと、元々はルクルト社という会社があってそこにフランス人の超ハイスペック技術者のジャガーさんが、タッグを組んだことによって『ジャガールクルト』と言う会社になりました。

話は戻りまして有名なところでいえば、パテックフィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマピゲの御三家にも提供していました。

分かりやすくいうと、トヨタ製のエンジンが高性能だから海外ブランドもトヨタ製のエンジンを使ってるような感じですね。

でも、外から見ればそんなのって分からないじゃないですか。

だから、何も問題はないんです。

 

ここで先ほどご覧頂いた懐中時計が出てくるのですが、懐中時計というのは腕時計になる前に主流だった時計です。

時間の正確さも必要でしたが、それと同じくらい宝飾品としての役割も担っていました。

よってカルティエ社というのは、宝飾性が求められる懐中時計の時代からジャガー・ルクルト社と関わりを持っており、1903年の時点でカルティエは、すでにジャガー・ルクルトの主要な太客だったんですね。

 ちなみにこの頃、ジャガールクルト以外にもムーブメントを専門で作る会社はありましたが、圧倒的に高品質のムーブメントを作れたのは・ジャガールクルトだけでした。

 

カルティエとジャガー・ルクルトの契約

1907年3月21日、カルティエ社は、ジャガー・ルクルト社と15年契約を結ぶことになります。

契約では、ジャガー・ルクルト社は、当時のフランスの通貨フランで最低25万フラン(現在の価値で2億5000万円)の受注と引き換えに、ルクルト社がすでに数年前からカルティエに納品していた、通常の機械式ムーブメントに加えて、高精度時計、超薄型ムーブメントを内蔵する時計、 そして将来のジャガーの発明品を独占的にカルティエに提供することになっていました。

 

この契約により、ジュエラーであるカルティエの創作の才能と、時計職人であるジャガーの技術者としての才能とが、共通の研究と目標のために一つに結びついたのです。

彼が同時に、時計製作において技術革新への道を開き、彼のライバル達の優位に立ったことは容易に想像がつく。

 

 

ルイ・カルティエにより作られた最初の腕時計は、起源がはっきりしている近代的腕時計の一つであるが、これが飛行機のパイオニアの一人であるアルベルト・サントス・デュモンのためのものであったということは偶然ではない。

また、カルティエが、数多くの計測機器、特にタキメーター(回転速度計)の
発明者であるエドモンド・ジャガーを、時計職人としてだけでなく、腕時計の確立につながる技術デザイン、機能上の探究のパートナーとしたこともけっして偶然ではない。

 

これらのことは、疑いなく、ルイ・カルティエが、時計製作の世界が経験しようとしていた変化の重大さを完全に理解していたことと、技術革新と生活リズムの加速、移動の自由が腕時計という革命を引き起こし、推進し続けるカであったことを示している。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

一方、ジャガーは、大量生産よりも、高度な技術を要する小型のムーブメントの考案に興味を示した。

したがって、カルティエとジャガーの新たな協力は、腕時計の開発のために、 まったく余計なものを含まず、必要なものはすべて含まれていた。

その関係は、時代に先駆けたデザインの開発に関心を持つジュエラーと、腕時
計の革命に関するあらゆる技術的問題を解決しうる発明家と、そして両者の創造を具体化し製造できる長い伝統を持つスイスの時計職人を一つに結び付けた。

 

そして、ジャガーがルクルトに協力を求めることを決めた理由は、間違いなくカルティエの受注量の多さにあった。

 


誰がこのグループを率いるかという問題に疑問を差し挟む者はいなかった。

彼らの間の協力が成立したのは、宝石商であるカルティエのデザイン上の要求によるものだったからである。

腕時計における技術的開発を促し、それによって腕時計という固有のジャンルを誕生させたのはデザインの探求だった。

腕時計の開発をめぐるカルティエ、ジャガー、ルクルト間の協力は1903年に始まり、3者間の協力の成果はすぐに現われた。

事実、1904年には、「サントス」のプロトタイプが生み出された。

また、1906年には、「トノー」の最初のモデルが、ラ・ペ通りのブティックに陳列された。

 

 

 

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