ジョージ・ジェンセンについての深い歴史をお話しします
ジョージジェンセンの幼少期
ジョージ・ジェンセンは1866年にデンマークの ロズヴァズ(Raadvad)に
生まれました。
ロズヴァズとは、コペンハーゲンの北にあり、ナイフ工場の周りを美しい田園地帯と小さな家々が囲んでいました。
ジェンセンの父は工場で働く鍛冶職人で、ジェンセンはいつもその作業風景を見ていました。
ジェンセンは父と一緒に小さな頃から工場で働いており、学校にはあまり通っていませんでした。
家族はすでにその頃から彼にものづくりの才能があると感じており、仕事に励むよう促していました。
そしてジェンセンが14歳のとき、彼が見習いの金細工職人として働けるよう、家族でコペンハーゲンに引っ越します。
これにより、彼は長時間、金細工職人として仕事に励むことができるようになりました。
ジェンセンはその頃から、彫刻家になりたいという夢を持っていたので、暇な時間は粘土でモデリングするのに費やし、自分の感性を磨いていたといわれいます。
その後、デンマーク王立芸術アカデミーに入学し、1891年に25歳で卒業しました。
ジェンセンは彫刻家としては決して成功はしませんでしたが、彼が受けた訓練は銀細工職人としての彼の将来の仕事に大きな影響を与えました。
1891年にマリー・クリスチーヌ・アントネット・ウルフ(Marie Christiane Antonette Wulf)と結婚し、2人の息子にも恵まれました。
その後も彫刻家として生計を立てることができず、友人で画家のクリスチャン・ヨアヒム・ピーターセン(Christian Joachim Petersen)と小さな陶器製造会社で協業するようになりました。
1897年、妻のアントネットがジェンセンと2人の小さな息子を残し、腎臓病で突然亡くなりました。
1900年 パリ国際万博
画家、彫刻家、建築家であるヨハン・ロード(Johan Rhode)が代替アート展 デンフリーウドスティリング(The Free Exhibition)を設立し、ジェンセンに作品を一つ展示する機会を提供してくれました。
陶器事業は財政的にうまくいっていませんでしたが、ジェンセンとピーターセンは、1900年にパリで開催された万国博覧会での展示会に作品を一つ出展しました。
出展された作品は「The Maid on the Jar」という陶器の水差しで、縁に小さな女性が腰かけています。
他のジェンセンとピーターセンの作品も展示され別の展示会に出品され、売り上げも好調でした。
パリ万博では、大成功とは言えずともジョージジェンセンの名前が知れ渡る、きっかけになったのは間違いありませんよね。
ヨーロッパ旅行
パリ万博の時に、授与された交通助成金を使って彼は2年間、ヨーロッパの最先端アートセンターを見てまわりました。
その頃のパリは、アールヌーボーが盛んになっていました。
(アールヌーボーについてはこちらの動画をご覧ください↓)
イタリアとフランスでは、応用美術の分野で活躍する芸術家達に出会いました。
彼らは、実用的かつ美しい作品を作成して生計を立てていました。
この旅行から得られた経験から、ジェンセンも自身の芸術的才能を応用芸術に向け、デコラティブアート(装飾芸術)とファインアート(美術)の間に存在したギャップを埋めることができるのではないかと考えました。
そして実用的な日常品に、芸術的なデザインや品質を付加することへの可能性を感じました。
1901年、彼がデンマークに戻ったときは、新たなやる気に満ち溢れていました。
ジェンセン初期の作品 ベリーを鳥が食べているブローチ(1908年)
ジェンセン初期の作品 グリーンストーンのペンダント(1908年)
ジェンセン初期の作品 花とラピスラズリのペンダント(1908年)
モーエンス・ボーリン・ワークショップ
ピーターセンとの陶器事業の売上は依然としてかなり控えめなままだったため、ジェンセンはアールヌーボー様式のデンマークの銀細工職人、モーエンス・ボーリン(Mogens Ballin)の下で働くことになりました。
働き始めてすぐに、ジェンセンは店の責任者を任されました。
またその間、自身のデザインを開発するように勧められました。
ボーリンは、彼の下で働いているアーティストが、自身の名前で作品を展示することを許可していました。
これは、当時としては一般的ではありませんでした。
ボーリンの店で働いている間、ジェンセンはエデンの園のアダムとイブを描いたシルバーベルトバックルを作成しました。
(ジェンセン アダムとイブのバックル)
これは彼の最も初期のジュエリーであると言われています。
このバックルは高い評価と称賛を受けました。
コペンハーゲンのMuseum of Decorative Artの館長であったエミール・ハノーバー(Emil Hannover)は、ジェンセンの作品を高く評価しました。
このバックルはMuseum of Decorative Artのコレクションとなっています。
ジェンセン初期の作品 ペンダント No.4
ジェンセン 金の鳩のブローチ
自分の工房をオープン
作品に対する良い評価に後押しされ、ジェンセンは自身の工房をオープンさせるためにボーリンの工房を去ることにしました。
1904年4月19日、ジェンセンは民間の実業家からの資金援助を受け、コペンハーゲンの36 Bredgadeに小さな工房を開きました。
彼の工房ではジュエリーを製造していましたが、そのうち深い食器類や平皿類も製造するようになりました。
工房では商品の販売だけでなく、ジェンセンの作品も展示していました。
作品はポータブルケースに入れられ店の外に毎日飾られ、閉店後は店の中に戻されました。
ケースの中の作品が売れると、次の作品が展示されました。
店の扉にはシンプルに"Georg Jensen Sculptor, Silversmith" (ジョージ・ジェンセン 彫刻家、銀細工職人)と描かれていました。
工房をオープンさせることは彼にとって、新しい人生のスタートではありましたが、すでにファインアートや応用美術に精通していました。
38歳で工房をオープンした時点で、彫刻家および陶芸家としての技術を磨くことに長い期間を費やし、銀細工職人としてほぼ20年のキャリアがありました。
工房のスタッフには、当時14歳だったHenry Pilstrup(ヘンリー・ピルストラップ)が見習いとして働いていました。
ヘンリーはジェンセンの死後も、リタイアする1957年までジェンセンの工房で働きました。
ジェンセンは彼の下で働く者たちを励まし、彼らに芸術的な自由を与えました。
これはおそらく、モーエンス・ボーリン(Mogens Ballin)の思想を受け継いだものだと思われます。
自分のブランドとしてではなく、後世に自分のブランドを持って欲しかったのかもしれませんね。
そして、ジェンセンは後世に見守られながら1935年に幕を下ろすのでした。
ジェンセン ラブラドライトとシルバーのブローチ
ジェンセン 薄葉のブローチ デザインNo.3
ヘンリー・ピルストラップ ジョージ・ジェンセン ムーンストーンブローチ デザインNo.159
制作したジュエリーのタイプ
1904年、ジェンセンはデンマーク装飾美術館(Danish Museum of Decorative Art)の展示会に作品を展示しました。
この展示会で、ジュエリーを含むジェンセンの作品は高く評価され、彼の工房の名声を高めることになりました。
工房の初期には、ジュエリーが制作の大部分を占めていました。
ジュエリーはすぐに売れ、デンマーク女性に人気がありました。
そのころは、ネックレス、ブレスレット、指輪、ブローチ、バックル、ハットピンなどの精巧なジュエリーを制作していました。
美術評論家もまた、彼の作品の美しさと品質にすぐに気づきました。
ジェンセン 鳥モチーフのシルバーバックル
ジェンセン ヘアコーム
ジェンセン ピンクストーンシルバーペンダント
1907年、エミール・ハノーバーがジェンセンのジュエリーを二つ購入し、美術館のコレクションにしました。
これらは、銀のブドウで飾られたペンダントと、葉っぱをモチーフにした大きな銀と琥珀のブローチでした。
どちらの作品も、博物館の年次報告書に掲載され、ジェンセンの名誉を高め、世間の注目を集めました。
ジェンセン イヤーペンダント
ジェンセンのイヤーペンダントは1988年から毎年作られています。
ジェンセン社の初期のデザインを新しく適合させています。
ジェンセンの作品を愛する人々にとって、古いモチーフ、石、要素を組み合わせて古いデザインを新しいバージョンに作り直した作品は人気があります。
それぞれの限定版のイヤーペンダントには、それがリリースされた年とジェンセン社のマークが記されています。