スイスの高級腕時計ブランド ジャガー・ルクルト(Jaeger Le Coultre)のクロノグラフの歴史
ルクルトの創立以前
約1480年ごろ:ジュー渓谷での最初の鉄工所
鉄鉱山のおかげで,金属加工はジュー渓谷での経済的発展を引き起こした。
まずは農業用の鋤が誕生した。少しずつだが,小型化の技術が,
この孤立した,不毛の土地を,コンプリケーション時計生産における世界の中心地とするのであった。
約1559年:ピエール・ルクルトによるジュー渓谷訪問
スイスのルクルト一家,ピエール・ルクルト(1530-1600)はフランスでの宗教的追放から逃れ,
彼の故郷リジ=シュル=ウルクを後にした。
ジュー渓谷では,未開発の土地を開墾が始まりっていたので,彼は森林素材を利用し,
晩年では,宗教や一般教養を教えるようになる。
16世紀前半から,ルクルト一家はその地域の政治や西洋の経済においてなくてはならない役割を担うようになった。
約1730年:ルクルト製鉄所の設立
蹄鉄工,農家,また養蜂家であるアフラハム・ジョセフ・ルクルト(1711-1776)は
ジャガールクルトマニュファクチュールのもととなる製鉄所を見つける。
約1740年:時計生産と宝石細工との出会い
コンビアの人たちは,ムーブメントブランク,ダイアルやピニオンを作ることに長けるようになり,
それをジュネーブに送った。
彼らは,長い冬の夕刻を, 驚くようなメカニズムを作ることに費やし,
すぐに誰もが認める,時計のコンプリケーションに精通するようになった。
並行して,宝石細工の技術も発展していった。
コンビアの人たちは時計の正確さを高める時計宝石を作った。
ルクルトの創立
父の工場で,独学で時計製造を学んだ,素晴らしい発明家であり,技術の先駆者,
アントワーヌ・ルクルトは彼のピニオン,時計を作るための革新的な道具のおかげで,
30歳にしてマニュファクチュールを創立する。
彼の工房は,最初は4人の職業人を雇っていたが,すぐに拡大した。
時計会社ルクルトは1833年にチャーリー・アントワーヌ・ルクルトとフランシス・ユリス・ルクルト兄弟によってジュー渓谷のサンティエという町で創立された。
アントワーヌは製造過程や製造方法の発展へ人生をかけた,素晴らしい時計職人であった。
彼が1844年に作ったミリオノメーターは,初めて機械が1マイクロメートルを測定することに成功した。
1847年に開発された,彼の竜頭システム(クラウンワインディングシステム)は巻くための鍵を不要にし,
このシステムはすべての時計が求める機能となった。
この発明のおかげで,彼はロンドンでの第1回万国博覧会において,懐中時計で金賞を得た。
1858年アントワーヌの息子:エリー
アントワーヌのような時計職人でもあり,発明家でもあるエリールクルト(11892-1917)は
15歳のときに工場で働き始めた。
産業的な先駆者であり,無数もの複雑なキャリバーを作成し,新しい製造手法を進め,
彼は家族経営の小さな工場をジュー渓谷最初のマニュファクチュールとした。
会社は,組織内で時計作りの機能を充実させ,着々と成長した。
1860年までにはルクルトはすでに100人もの従業員を雇い,
ムーブメントと時計産業の中で,中心的なマニュファクチュールとなった。
今では,創設者の息子が率いる会社は,リピーターウォッチ,クロノグラフ,カレンダーウォッチを確立し,
この複雑な時計のムーブメントをもって,他社に影響を与えた。
1890年には異なるルクルトのムーブメントの数は125に達した。
1881年:アントワーヌの死
アントワーヌの妻,ゼリールクルトは記憶をたどって鮮明に話をした。
「冬は毎晩,たくさんの人が,歯型のカッターを作るのに没頭していました。
彼は熟知していたましたが,より小さいもので作りたかったのです。
この目的のため,特別な機械を作り,たくさん作りました。しかし彼がすべてを作った機械は,彼が好む正確さには遠かったのです。
彼がこの作成にどれほど辛抱強く力を注いでいたか考えるのと,それは信じられないほどですが,
彼はついに成し遂げたのです。この年にして,このような努力を要する仕事は彼の健康を害し,彼の顔のむくみがひどく助からないことがわかりました。
1881年4月26日にこの素敵な夫は78年と10日の人生を終え,私のもとを去ったのです。」
エドモンド・ジャガー
フランスの偉大な時計職人,エドモンド・ジャガー(1858-1922)は普仏戦争のあと,1873年に故郷を発つ。
彼は1880年にパリで会社を作った。
フランス海軍お抱えの公式時計を作り,スピードを測る機械,クロノメーター,タコメーター,の製作に人生をかけた。
ジャック・ダビッド・ルクルト
1890年マニュファクチュールは156のキャリバーを作るようになった。
1890年には,約500人もの労働者が例外的なバリエーションの125ものシンプルなキャリバーと31もの市場で最も複雑なキャリバーを作り出した。
1900年頃,エリー・ルクルトの息子であるジャック・ダビッド・ルクルト(1875-1948)が
時計職人として現場を3年間経験したあと,製造責任者となった。
スポーツや音楽,映画を愛するこの男は1906年から彼が解雇される1948年までルクルト社の製造責任者を務めることになる。
●1903年,世界最薄型ムーブメント開発:
メカニカルムーブメントで高さ1.38ミリ,クロノグラフムーブメントで高さ2.8ミリ,リピーターで高さ3.2ミリ
●1929年,世界最小時計開発:
74つのパートを内蔵しつつ,0.9グラムの重さ
1902年から30年間,ルクルト社はジュネーブのパテックフィリップが
ムーブメントブランクを最大限活用できるように製作することとなった。
また宝石時計をさらに美しくするために,マニュファクチュールはダイアモンドのカットに精通した人物を受け入れた。
特化した職人たちが宝飾時計を作ることにより,旋回軸の摩擦を減らし,ルクルト社ムーブメントのより素晴らしい活動期間を保証した。
ジャック・ダビッド・ルクルトとエドモンド・ジャガーの協力
1903年 ジャック・ダビッド・ルクルトはパリでアルザス人のエドモンド・ジャガーと出会う。
この協力がもとでルクルトは豪華な時計市場に進出することとなる。
マニュファクチュールとの友好的な関係を何十年も続けた後,1937年に会社名が正式にジャガー・ルクルトに変更される。
第2次世界大戦における反ドイツ感情を恐れてのことだが,
ルクルトの名はアメリカ市場で残ることとなった。
1907年 しばらくの間,エドモンドジャガーのクライアントであったカルティエが
排他的な契約をジャガーと結ぶ。
ジャガーを通して,ルクルト社は有名なブランドのもとで素晴らしい時計を発売することとなる。
1915年以降 航空学と自動車
1915年以降,ジャック・ダビッド・ルクルト,エドモンド・ジャガーそしてエドモンド・オーデマ(1882-1970),この優れた3人の男性が,航空と自動車のための道具を作るために偉大な才能を突き合わせた。
オーデマはジャガーデイビットの幼少からの友人で,
のちのサイクリングチャンピオンであり,初めてパリからベルリンまで飛び,ロナルドガロスの遺書によって遺産受取人となる。
彼は6120の高緯度飛行を記録した。彼は何十にも服を着ていたにも関わらず,足はほとんど凍っていた。
ジャック・ルクルトはいわゆる「フォームムーブメント」において,先導者となり,現在もその先導者であり続けている。
「フォームムーブメント」とは,必要であれば,ケース全体を利用できるムーブメントの形で,
例えば長方形の時計であれば歯車の輪やギアを横に押し付けることもできる。
他の特筆すべき発展は1925年の驚くほどの正確性とムーブメントを数分で交換できる可能性を示したドュオプランの発売である。
「デュオプラン」とはムーブメントが2重構造でできていることに由来する。
よって下の歯車のバランスが大きくなり,それにより正確性を捕確実にしているのだ。
またその信頼性からロンドンのロイズの保証もついており,交換には数秒もかからなかった。
他にも,1928年の巻くためのエネルギーを温度変化や大気圧変化から調達することのできる,
ガラスの中におさめられた卓上時計のアトモスの発売が挙げられる。
アトモス時計:
1928年アトモス時計の発明 長年の研究と1926年初の特許分野において,スイスの発明家,
ジャン・レオン・ルター(1899-1971)は地上で最も偉大な夢の実現へと近づいていた。
それは永久運動である。
1928年に彼は初めて大気変動からエネルギーを得る時計の試作品を発表した。
彼の友人,またのちにReversoの発明にも携わるセザール・デ・トレイ(1876-1953)のおかげで,
ジャガー・ディビット・ルクルトは魅力な「永久の」時計を発見した。
そのメカニズムを細かく精査した後,
彼は熟練した時計職人だけがこの以上を成し遂げられるとした。
1963年からすべてがマニュファクチュールで作られていたので,
アトモスは当時の伝説となった。その偉業のために,スイス政府公認の贈答品として扱われるようになった。
1929年の世界恐慌にかかわらず,
マニュファクチュールの生産はとどまるところを知らなかった。
デュプランのキャリバーの素晴らしいコンセプトが,時計職人に新たなチャレンジへの機会を与えたのだ。
彼らは世界最小の機械時計を製作し,不可能を可能にした。
最初のバージョンは,1グラムにも満たないが,74のパーツからなっていた。
イギリス女王エリザベス2世は1953年の戴冠式でこのタイプの時計を身に着けた。
レベルソとのちのクラッシック時計
インドでのポロ試合のあと,セザールはポロの衝撃にも耐えられる時計を作らないかと言われた。
ヨーロッパに帰る途中,
イギリスのビジネスマンは彼らの問題をセザールとジャガー・ダビッド・ルクルトに打ち明けた。のちに彼はジャガーと協力して,レベルソ時計を作った。<br
1931年に導入されたレベルソは,
フリップオーバーケースとアールデコのデザインとともに市場に参入した。
今日,レベルソは様々なバージョンが生まれ,ジャガー・ルクルトの約40%を占めている。
レベルソのラインには,デュアルフェイスオプションや,伝統的な小さなモデル,より大きいグランドモデルなど,これらは男女ともに可能で,コンプリケーションも選べ,また1999年にはスポーツシリーズである,レベルソグランスポーツもリリースされた。
1937年ジャガー・ルクルトブランド公式発表
パリのジャガーとサンティエのルクルトが協力を確固たるものにした。
これ以降はそのマニュファクチュールからの時計は,ジャガールクルトのブランドとなる。
(その以前は,ルクルトかジャガーのどちらかのものだった。)
素晴らしい長方形の腕時計カレンダーがジャガールクルトの誕生を祝った。
1941年から
ジャック・ダビッド・ルクルトは工場の技術の習得へスポットライトが当たるように
天文台コンクールへの出品を決めた。
ジャガールクルトのトゥービリオンキャリバー170はすぐにニューシャテル天文台の高い栄誉を受けた。
●1946年ジャガー・ルクルト初の自動時計
第2次世界大戦の終わりに,時代は再建,効率性そして実用主義に傾いていた。
ジャガールクルトは発明の才でもあり,自動の丸形時計にシフトしていった。
のちのマスターコントロールラインである。最初のものは,ジャガールクルトキャリバー476を備えたものであった。
●1950年メモボックスの誕生
戦後の好況における整備された,また,効率の良い時間を象徴するように,
文字通り,記憶の声を意味するメモボックスは,
アクティブな男にとって究極の時計であるといわれた。
一日の予定を組むのにこの際立つ時計は役に立つのだ。
起きる,約束,時刻表またはパーキングメーターの管理までができる。
最初のメモボックスモデルは,手動で巻かれ,キャリバー489と814(日付表示とともに)であった。
彼らのたぐいまれなる質のおかげで,
このメモボックスキャリバーは今日まで続き,時計産業において,長い間生き残っているものの代表である。
●1953年
ジャガールクルトは初めて巻くための竜頭のない100%自動の時計を発明した。
その動きは定期的に,十分なパワーによって維持される。
長期間止まっていたとしても再スタートするには十分なパワーである。
●1958年地球地理学クロノメーター
1958年ジャガールクルトは,強い磁場や衝撃からも守られ,防水加工もある,
正確であることは言うまでもない時計を作った。
1962年にこの時計はジオマティックと改名された。
●1962年超薄型キャリバー838
時計のムーブメントアリストクラシーの上部のエシェロンに所属して,
この特許のキャバレーは衝撃耐性のある最も薄い時計であった。1.85mmである。 今日のマスター超薄型ジャガールクルトキャリバー849はこのミニチュア版の改良品である。
ジャガールクルトは初のクオーツ腕時計に挑戦した。
ベータ2はクロノメーター部門の天文台賞を総なめにした。
●1981年,
日付表示とセンターセコンドのジャガールクルトキャリバー606はこのカテゴリーでは最薄であった。
その翌年,キャリバー601高さ1.8mm直径11.7mmは世界で最小のタイトルを手にした。
1982年キャリバー608はたった1.6mmの厚さでジャガールクルト自身の記録を更新した。
●1983キャリバー889
クォーツ時計の発展と並行して,工場は時計学への情熱を掻き立てていった。
この情熱はジャンビング日付ディスプレイのついた高頻度の自動ジャガールクルトキャリバー889を見ると明らかだろう。
1992年これは1000時間テストを克服する最初の時計に装着されていた。
ジャガールクルトはクラシックのグランドレヴェイユを1989年に市場に出した。
それはアラーム機能と永久カレンダーのついた自動ムーブメントを備えている。
1990年にはジオグラフィックが発売された。
それは2つのタイムゾーンとパワーリザーブインディケーターを備えた,自動ムーブメントである。
他によく知られたモデルはマスターメモボックスと,マスターレヴェイユのアラーム時計である。
最薄時計の決定版はエレガントなモデルの,
マニュアルワインディングキャリバーJLC849を備えたマスターウルトラシンである。
最近の社史で,マスターコントロールは重要な一歩となった。
この称号を持つすべての時計は,顧客のもとに渡るまでに,
1000時間をかけて事前にチェックされる。
これは,クロノメーター認定書のガイドラインよりも厳しいテストと通過しなければならないことを意味している。
モデルに関しての新しいクラウンシーリングへの試みを含めると,
最新の発明は,コンプレッションキーシステムと呼ばれている。
この特許権のある発明は,現在も製造業で主流である普通,使いづらいリューズにスクリューが入ったタイプの代わりになるものである。
特に,他に二つのボタン(プッシャー)があるクロノグラフにとっては,今までの形は実用的ではなかった。
コンプレッションキーシステムでは,
短いプッシュだけで十分で,すぐにリューズとプッシャーが塞がれるのである。
1999年ミレニアムアトモス時計
2002年マスターコンプレッションメモボックス
2003年マスターアントワーヌルクルト:創設者生誕200年を祝い,マニュファクチュールは200もの素晴らしい,彼の名がケースとムーブメントに刻まれた時計を発売した。
レベルソプラチナムナンバー2:以前のものと異なり,このレベルソはトゥービリオンの秘密を裏から覗くことができる。アールデコを引き継ぐ新しいデザインを生んだ。
エドモンドジャガーとジャックルクルトの出会いから100年,
マニュファクチュールはパリに機械時計の推移に注目した大胆な展示を開いた。
―最も偉大なマニュファクチュール―
ジャガー・ルクルトは製造者という称号を有しているが,それは時計産業では高く評価されている。
なぜなら会社は時計を作るだけでなく,それに対応するムーブメントの製造もしているからだ。
このムーブメントの質の良さから,世界中から需要が在り、またほかの有名なと時計会社で使われている。
例えば,IWCはJLCムーブメントを長年使っているし,
バシェロン・コンスタンタン,パテク・フィリップ,オーデマ・ピゲットも同様である。
ジャガー・ルクルトは,1980年代のクォーツ危機によって苦しめられた。
1986年にはドイツの自動車のスピードメーターで有名なVDOグループがIWCとジャガールクルトの60%をLMHとして統合し,1991年にA.ランゲ&ゾーネを加えた。
この会社の復活はアイコンである様々な,次の世代で導入される機能を備えたレヴェルをにかかっていた。
VDOがマンゼマンに統合された後,代わりにボーダフォンに買収される。
この市場にいるのは望ましくなかったため,ボーダフォンはLMHをスイスのリッチモンドグループに売った。
素晴らしさへのこだわりが見せた成功
JCL時計のほとんどがクラッシクレベルソにカバーされてほどなく,
ブランドは頼みの綱であるマスターコンプレッションシリーズを発売することができた。
これは高いケースの質がマニュファクチャームーブメントによってもたらされ,より高い製造技術で成功を収めた。
他の安価な製品もあったが,ジャガー・ルクルトは常に特別であった。
その価値を永遠に保つことができる。他のブランドがうるさいキャンペーンで顧客の気を引こうとしているのに対し,ルクルトでは時計そのものとその高いクオリティが常に中心にあるのだ。
騒ぎを巻き起こしたコンプリケーション
他のブランチの製品は新たな発明をし,より複雑な時計へのプロジェクトを進めている。
これは球状のトゥービリオンと
2008年に賞を獲得したデュオメータークロノグラフを伴うジャイロトゥービリオン1とレヴェルソジャイロトゥービリオンのことだ。
2009年の秋,このニュースと素晴らしいコンプリケーションは55ものコンプリケーションを含むハイブリス・メカニカ55をリリースすることによりさらに拡大した。
2010年から2014年の間にはそれに付随するバージョンが30発売される。
コレクションは3つの時計からなり,時計産業において勝るものはないであろう。
ハイブス・メカニカ・グラン・ソヌリ(当時は最も複雑あった)
ハイブス・メカニカ・とリプティーク・ハイブス・メカニカ・ジャイロトゥービリオンである。
これで終わりではない,それぞれに特注のウォッチセイフがあるのだ。
-ロングランモデル-
レヴェルソ:クラシカルなフリップオーバーモデル
メモボックス:アラーム時計
ジオフィッシックとジオマティック:科学実験用の時計
マスターコンプレッション:スポーツシリーズ
マスターウルトラシン:エレガントな正装に合う時計
ドゥオメーター:ドゥアルウイングパワー
-スペシャルモデル-
レベルソコンプリケーションシリーズ
ジャイロトゥービリオン1,レルソグランコンプリケーショントリプティーク,ドゥオミーター・グラン・ソヌリを含むハイスメカニカシリーズ
-アトモス-
アトモス時計:ユニークな卓上時計