フランスのガラス工芸家 エミールガレ(emile galle)、マイゼンタールのガラス職人
「フランスのガラス工芸家 エミールガレ、マイゼンタールのガラス職人」
1、はじめに
木やガラス、セラミック製の作品で三重ガラスの技術があるように、エミールガレは人間主義者であり偉大な植物学者でありました。
自然にインスピレーションを受けた装飾モチーフをガラス作品に落とし込む事への情熱は、数々のガラス技術を発見、また再発見させることになりました。
エミールガレの作品の中でマイゼンタールのガラス工房での経験がどのような位置を占めているかを理解するために、初めにビッチュ地方でのガラス工房の変遷をたどり、次にマイゼンタールのガラス工房の展開について言及します。
(ビッチュ地方はフランス北東部のドイツとスイスの国境地域)
その次にガレの初期の作品について、特にガラス加工技術の進展について述べ、同様に27年間にわたるヴァレ・デ・メザンジュのガラス工房の時代のガレのサインについて取り扱います。
友情がこの大冒険にとても重要な役割を果たしていますので、ガレとブルガン、クリスチャン一家の間で築かれた関係についてもたどっていきます。
終わりに際して、マイゼンタールにおけるファイアンス装飾と、1894年以降のエミールガレとマイゼンタールのガラス工場との関係についてご紹介いたします。
2、ビッチュ地域おけるガラス工房の歴史とマイゼンタールのガラス工房
ビッチュ地域のガラス工房の初めの足跡は、13世紀のビッチュの数キロ西のヴァレ・ドゥ・ラ・スチウォルブに遡ります。
18世紀の初めまで、ガラス工房は薪の調達が難しくなるたびに移動しながら運営されていました。1586年に薪の不足のためビッチュの南にあるマンズタールに新しいガラス工房が新設されました。その工房がガラス産業で第二番目の地域となるスシュト(soucht)、マイゼンタール(Meisenthal)、ゲッツェンブルック(Goetzwenbruck)の発展の始まりとなりました。
1700年にはスシュトのガラス工房でやはり薪が欠乏したことにより、ジャン・マルタン、ジャン・ニコラとエティエンヌ・ウォルテールがマルタン・ステンジェール(Martin Stenger)を作り、セバスチャン・ブルガンが新しいガラス工房を作りました。
それらはマイセルバッハと呼ばれる小川に面している隣同士の谷に場所を構えており、また以前にもガラス工房があった場所でもありました。
その後も工房は転々とし、1789年のフランス革命の後に、マイゼンタールのガラス工房は工房の所有者のもとに戻って来ました。1824年にガラス工房はブルガン・シュヴェレール社となりました。
1855年からはニコラ・マチュー・ブルガンがマイゼンタールガラス工房の理事となりました。
彼は1825年2月24日生まれで、ガラス工房の基礎を築いた5人の創設者の子孫の一人です。
遅くとも1860年には、彼はシャルル・ガレ=レヌメと協力するようになりました。
その人こそがエミール・ガレの父親です。
我々が知りうる工房の唯一の会計帳簿は1861年の1月から1863年の12月のものです。
帳簿によると、シャルル・ガレ=レヌメは顧客口座番号179番を所有していました。
この時期はオーダーの数も合計金額も非常に脆弱なものでした。
1861年に行われたメッツ博覧会の紹介記事によると、シャルル・ガレ・レヌメは「概念を形成する思考と彼が出向く工房の2つが実際に作品を作る腕の両輪となっている」と評されていました。
初期においてはショアジー・ル・ロワ、サン・ドゥニやパンタンにあるよく知るパリのガラス工房と取引をしていました。
利便性と送料の都合により、今度はロレーヌ地域のガラス工房と取引をするようになりました。
サンルイ、バカラ、そしてマイゼンタールといったシャルル・ガレとその後には息子エミールガレにとって一番重要となる供給元です。
品質と同様に、価格もマイゼンタールはサンルイやバカラといったクリスタルガラスの工房よりも低くつけられていました。
シャルル・ガレの取るべき道は、おそらくそれらの偉大なクリスタルガラス工房の伝統的製法の秘密について探ることでした。
ところがシャルル・ガレが、またその息子が革新のためにとった道は、ガラスでのアートの秘訣に精通することでした。マチュー・ブルガンや他の関係する人の協力のおかげで、マイゼンタールはいくつもの応用技術を使えるようになり、エミールガレもそれらを実際に体験することが出来たのです。
マイゼンタールガラス工房は1861年にメッツで行われた博覧会に参加しました。
博覧会報ではいくつかマイゼンタールガラス工房の作品の説明が載せられていました。
「マイゼンタールの展示品はすべてとても見事なものであった。主題の選び方、装飾品の嗜好、彼らのスタイルについても、エレガントで真に推奨に値するものであった。ガラスの器はどれも形状が全く異なっていて、デザインも素晴らしく、もっと繊細なクリスタルガラスの隣にあっても全く引け目を取らない、それでいて価格はクリスタルガラスのように高価ではないのだ。」
この記事によると、この時代にはクリスタルガラス製品は作っていなかったようですが、ガラス製品の工房として形状も装飾も良く質の高い工房であったようです。
ブルガン・シュヴェレール社は1867年のパリ国際博覧会に出店し、銀メダルを受賞しています。マチュー・ブルガンの精力的な活動のおかげで、工房はすぐに大きくなりました。
1855年には従業員が250人、1889年には350人になりました。
作品は大部分が実用的なものであり、鋳造品と同様に吹き上げによるハンドメイドのものでありました。1889年から1903年には、マチュー・ブルガンの息子のアントニー・ブルガンが工房の理事となりました。
3、エミールガレの指導の下マイゼンタールで使用されたガラス作品作りの技術
エミールガレとブルガン・シュヴェレール社のコラボレーションは、1867年に父親の会社のアートディレクターとなったことから始まり、それは1894年にエミールガレがナンシーに自身のクリスタルガラス工房を開くまで続きました。
1884年にパリで開催された第8回装飾美術中央連合博覧会や、1889年に同じくパリで開催された万国博覧会の紹介記事によって、私たちも使用された技術の変遷を辿ることが出来ます。
この2つの博覧会に出展された作品は、吹き上げ成型はすべてマイゼンタールで、装飾はマイゼンタールもしくはナンシーで作成されています。
エミールガレのガラス工芸での数々の改革の中でも、特に重要なものについて述べたいと思います。
A,ガラス本体への色付けと装飾
1884年と1889年の博覧会の紹介記事によると、ガレは新しい色を作り出すための数々の手法について述べています。
黄色、茶色、緑はいくつかの金属の酸化物を混ぜ合わせることで得られ、その他の様々な効果も出すことが出来ます。
「その他の色付け方法は一つではない。ガラス本体に入れ込むのはややこしいことだが、これは固い岩石や、琥珀や、翡翠といった自然の素材を再構築したいという思いの結果だ。」
マイゼンタールで行われた探求により、まだら模様やマーブル模様、また他の色付け効果を得ることができました。
ガレは1884年にまだら模様(細かいガラスや破片を組み込んだもの)やマーブル模様(金属酸化物を組み込んだもの)、また金属箔(金や銀、プラチナの薄片や粒子を組み込んだもの)の作品を発表しています。
ガラス本体への色付けで得られた技術は、彫刻やエナメル加工の装飾にも利用されました。
ガレの試みの一番大きな成果は、おそらくガラスのマルケトリ細工(寄木細工のような切りばめ細工)でしょう。
先述の1884年の組み込み技術の後、ガレは1889年の万国博覧会用にマルケトリ細工技術を確立することができました。
「その他のガラス本体への装飾の手法は44番の花瓶で紹介できる。カリウムのガラスに銅や鉄、イリジウムでニュアンスをつけたものだ。溶融ガラスが白い釉薬の薄いガラスの破片とともに巻き取られ、蝶のはねの形に切り取られる。全部が同じ形の複製となり、あとはグラヴュールを実行するのだ」
この技術を使ってマイゼンタールで作成された作品はそう多くはありません。
ガラスのマルケトリ技術が改良され制御できるようになったのはナンシーに移った1894年以降で、特に1896年から1897年に入ってからでした。
8月12日に発表された作品ナンバー4349番は、15年に渡るガラスとクリスタルガラスのマルケトリ技術の終了証書と言えるものでした。
B,エナメル技術
1884年の紹介記事には、ガレのエナメル技術の進歩について述べられています。
「色彩は新しく、エナメルは半透明に。博覧会用のすべての装飾は手作業で作られている。パレットは広がっている。ガラスに色を付け、金箔・銀箔を貼り、カマユー(単色)技法やグリザイユ(灰色の濃淡だけで浮き彫りのような効果を出す)手法、ワイスエナメルというクリスタルガラスの浮き彫りに色付けするボヘミアングラスの画法、酸化錫・酸化鉛・燧石で作られた添加剤、最後にアラビアの難しいエナメル加工や、半透明のエナメル加工など・・・」
エナメルは冷たいまま刷毛で塗り、その後個々の状態に合わせて温度を加減して焼きガラス化します。
1889年にガレは言いました。「要約すると、今日では私が浮き彫りに行うエナメル加工はほとんど艶消しのものしかないと言えるだろう。」
ガレは新しい半透明エナメル技術を紹介し、それと同時に不透明エナメル技術も使用しています。
エナメルの技術は作品に繊細な濃淡を与え、浮き彫りが数ミリメートルの細かさに達することにも貢献しました。
ガレはまたアクセサリーのエナメル加工や、金やプラチナを使用した半透明のエナメル加工についても紹介しています。
C,グラヴュール技法(彫刻)
グラヴュールの技法はナンシーの工房で行われていましたが、マイゼンタールの名で発表されていました。
1884年にエミールガレが説明しています。
「希少な装飾です、回転式研磨機でのグラヴュール技法は・・・。グラヴュール技法ではすべて回転式研磨機や、鑚鉄や、鉛・銅・木のグラインダーで作成します。
一番精密さが求められる作業です。」
さらに付け加えて、「フッ化水素酸でのグラヴュール技法は採用しませんでした。
求めている芸術的効果を得ることに寄与しないからです。」
ガレは1889年にしばしば酸を使ったグラヴュールを使用しました。
「もし酸の使用を考えなければ、制作を終えることが出来ないしモダンでもない。彫刻をしたり、他の適切と思われる加工を施すのに比べてね。
ローラーが達することのできないところにも、酸はいとも簡単に入っていくんだ。」
4、ガレのマイゼンタール時代のサインの違い
いくつかの例外を除いて、マイゼンタールでの27年間のガラス制作の間、「ガレ」のサインやマークは個々の作品の底につけられていました。
1860年から1876年の間、シャルル・ガレの指導の下ではエナメルや回転盤による掘り込みで「ナンシーのガレ(Gallé à Nancy)」と付されていました。
エミールガレの時代になると、いくつかの時期に分けられます。
1877年から1888年の間は、インクやエナメルや掘り込みで次のように描かれていました。
「E.ガレ ナンシー(E.Gallé Nancy)」
「ナンシーのE.ガレ (E. Gallé à Nancy)」
「登録商標E.ガレ( E. Gallé déposé )」
「登録商標エミール・ガレ (Emile Gallé Déposé)」
「登録商標ナンシーのE.ガレ(E. Gallé à Nancy Déposé)」
時にはナンバーや、制作年度、モノグラムなども一緒に描かれています。
1889年から1894年は、サインやマークは常に作品の底に付けられていましたが、多くの場合その装飾を想起させる要素が盛り込まれていました。
インクやエナメル、グラインダーか酸によるグラヴュール、掘り込みやカメオ風、時々金で飾るなどです。
サインはしばしばクリスタルガラス工房という言葉や、1889年の万国博覧会を思い起こさせるもの、その他の日付を伴っていました。
5、ガレ親子とブルガン・シュヴェレール社、デジレ・クリスチャンの関係
ガレの製品は、最初はシャルル・ガレの、1867年からはエミールガレの指示により、準備中のデザインと同様に石膏もナンシーで作成した後マイゼンタールガラスに送っていました。
他の場所で鋳造した作品も、吹き上げ加工やエナメル加工はマイゼンタールで行っていました。
ガレ親子のマイゼンタールでの主な相談相手はデジレ・ジャン・バプティスト・クリスチャンでした。エミール・ガレの数日後である1846年5月23日生まれで、ランベルグの森林監視員をした後、マイゼンタールとオディール・ルッツで宿の主人をしていたジャン・バプティスト・クリスチャンの息子です。
どのように仕事のキャリアを形成したのかは全く情報がありませんが、いつの日からか彼はマイゼンタールのガラス工房で働いていました。
おそらく12歳か13歳のころ、つまり1859年頃に直接装飾部門に見習いとして入ったのだと思われます。
デジレ・クリスチャンはブルガン・シュヴェレール社の装飾部門の責任者をしていました。
1978年にジュール・トローブが出版した1882年の資料には、1881年7月から1882年6月までの制作についての支払い配分が載っていました。
そこではエミールガレがデジレ・クリスチャンに報酬として直接支払いをしています。
ブルガン・シュヴェレール社は一般経費として合計金額の42%を天引きします。
規則として、エナメルやグラヴュールといった熱を使う仕事は装飾とは別に計算します。
デジレ・クリスチャンは数人の協力者に囲まれていました。
1892年に取った部門の写真では、彼は7人の男性と4人の女性に囲まれています。
デジレ・クリスチャン以外のエナメル加工職人たちの中で、一番才能があったのはユジェーヌ・クレメールです。
1789年に、12歳のユジェーヌ・クレメールは装飾部門に戻ってきました。
1879年のエナメル加工の作品同様に、サインと1880年から1884年の日付がついたデッサンが彼の芸術的才能を物語っています。
パン屋の息子に生まれ、何も芸術的な教育は受けたことがありませんが、デッサンの質の高さやクレヨンの動きを見たデジレ・クリスチャンに見出されました。
普通の装飾家でしたが、すぐに自分のオリジナルのデザインをマイゼンタールのガラス工房やおそらくエミール・ガレのためにも作れるようになりました。
写真1 マイゼンタールのエナメル技術者たち 1892年
一列目の中央に座っているのがデジレ・クリスチャンです。ジョング・フレール撮影、パリ近郊のヌイイ アンケルマン通り21番地、マイゼンタールガラスとクリスタルガラス博物館蔵
ガレとマイゼンタールガラス工房の契約書によると、新しいデザインはすべてナンシーで制作しています。ユジェーヌ・クレメールがそれらをマイゼンタールに送る際に、ガレの指示で次の作品の見本を送っていました。
デジレ・クリスチャンはおそらくエミール・ガレの代理としてグラヴュール職人のチームの責任者も務めていました。
1892年の写真では、この時代のマイゼンタールのグラヴュール職人の中で最も素晴らしい職人の風格をしています(写真2参照)。
また手には「ラ リムネ(モノアライガイ)」のような花瓶を持っています。マイゼンタールの素晴らしいグラヴュール技術は2つあります。
一つは「エスカルゴ・ドゥ・ヴィーニュ(葡萄の木のカタツムリ)」に代表される装飾で、もう一つは「ジオロジア(地質)」の装飾です。
エミール・ガレの代表的な作品の一定数は、マイゼンタールにてグラヴュールされたものだということがわかります。
1885年にエミール・ガレとブルガン・シュヴェレール社、そしてデジレ・クリスチャンの間で交わされた契約書では、こんなことが定められています。
「装飾全般はデジレ・クリスチャンが行う。ガレ氏は絵付け装飾部門に定期的な仕事を供給する責務を負う。クリスチャン氏は自身が出来うる最適な改革を行う権利を留保している。ただしそれはその新しい試みをエミール・ガレとブルガン・シュヴェレール社のどちらにも紹介し、かつどちらも拒否することが出来るという条件付きである。:工場の代表者や聴衆が公衆の面前で見守り、ガレ氏の作品に関して必ず守ることと定めた。」
写真2:マイゼンタールのエナメル加工職人たち 1892年
ジョング・フレール撮影、パリ近郊のヌイイ アンケルマン通り21番地、マイゼンタールガラスとクリスタルガラス博物館蔵
シャルル・ガレ、エミール・ガレとブルガン・シュヴェレール社のやり取りはほとんどが書簡でしたが、ガレ親子はまた個人的に工房を訪れていました。
1870年の敗戦後、マイゼンタールの村はドイツに併合されました。
しかしそれは、ガレ親子がマイゼンタールのガラス工房とのコラボレーションの継続を妨げることはありませんでした。
マイゼンタールを訪れる外国人は町役場に届け出ることが義務付けられました。
1878年4月18日から1888年4月28日までの登録簿によると、シャルル・ガレとエミール・ガレの通行権が異なっていたことがわかります。
1886年には、エミール・ガレに14日間と3日間の2つの通行権が、シャルル・ガレには4日間の通行権1つが発行されています(写真3参照)。
1887年にはそれぞれ8日間のマイゼンタールへの通行権が発行され、エミールは7月、シャルルは9月でした。
1888年には4月16日から28日までの16日間の滞在許可がエミール・ガレに発行されています。
この滞在期間と1889年の万国博覧会の数か月前という日程からして、ガレはガラスのマルケトリ加工の初めての試みに参加したのではないかと考えられます。
その試みはガラス工房の責任者であるジョセフ・レミー・ブルガン(1843-1921年)の指揮のもと、ジョセフ・ステンジェール(1849-1906年)とジョルジュ・フランクオゼール(1843-1900年)の補佐で行われました。
1892年と1893年にシャルルもしくはエミール・ガレに届けられた書簡によると、デジレ・クリスチャンは定期的に熱を使う仕事(エナメル加工とグラヴュール)や装飾、鋳造による製法の新しい試みを進めているようでした。
デジレ・クリスチャンは製法の秘密を守ることに気を使っていました。
1892年8月26日の書簡の中で、彼はアロワズ・ブルガンが疑わしいという懸念をエミール・ガレに知らせています。
デジレ・クリスチャンは彼に問いただし、ドームの家に侵入して秘密を暴きました。
クリスチャンはアロワズ・ブルガンの住居の家宅捜索を組織し、デザイン画とガレが装飾したガラス作品を発見しました。アロワズ・ブルガンはすぐに逮捕されました。
写真3:ドイツ併合後にマイゼンタールを訪れた外国人の記録簿
1886年のページ エミールとカール(シャルルのドイツ語名)・ガレが通行人として載っている。 個人蔵
6、クリスチャンたちのガレのファイアンス装飾への参加
マイゼンタール博物館の古い記録には、デジレ・クリスチャンが自身の会社を設立した時期に書かれたとみられる、クリスチャン兄弟とその息子へと印刷された封筒があります。
表題にはクリスタルガラスと陶芸美術と記載されていますが、今までの所、クリスチャンとサインされた陶器は全く確認されていません。
1891年と1892年にフランソワとデジレ・クリスチャンからエミール・ガレに送られた複数の手紙には、マイゼンタールでナンシーにいるガレの代わりにファイアンス陶器の装飾について言及されていました。
デジレの弟のフランソワ・クリスチャンが、これに関わっていました。
1891年3月31日のエミール・ガレあての手紙で、フランソワ・クリスチャンは急いでナンシーにある装飾前の陶器をいくつかを送ってほしいと要求しています。
実際、輸送には通常15日間が必要で、在庫がちょうど無くなりかけていたところでした。
この1892年の手紙の後、デジレ・クリスチャンと弟のフランソワ・クリスチャンの間には深刻な衝突が起きていました。
ファイアンス陶器の装飾のために、エミール・ガレはガラスに有効なエナメルの研究を活用しています。
実際、半透明エナメルや装飾品のエナメル加工はファイアンスの技術が使われており、マイゼンタールのガラス工房で行われている製法ととても似ています。
写真4:クリスチャン兄弟と息子と表題に記載された封筒
マイゼンタールガラスとクリスタルガラス博物館蔵
7、ガレ一家、ブルガン一家とクリスチャン一家の友情
マチュー・ブルガンは1889年にアグノー出身のマリー=ルイーズ・エルドゥと結婚しました。
マイゼンタールガラス博物館は、2001年に競売にかけられたときに、マイゼンタールでエミール・ガレの一番の協力者であったデジレ・クリスチャンが夫婦に贈ったグラスを購入しています。
アグノーに提出された婚姻証書には、シャルル・ガレ以外の立会人としてアントワーヌ・ブルガンのことが記されています。
エミール・ガレの方は、夫婦に二段の台にマルケトリ細工を施したテーブルを贈っています。二重にE.Gとサインがされており、一つは台の下段の盾形紋地の中に、もう一つはロレーヌの十字架の中に、またお守りには結婚記念日である1889年8月24-25日と記されており、アザミと木の枝の上で2羽の鳥がキスしあっている様子で装飾されています。
台の上段にはモノグラムでBHと描かれており、ブルガン家とエルドゥ(Hoerdt)家を表しています。
8、1894年以降のエミール・ガレとマイゼンタールの関係
エミール・ガレがナンシーに自身のクリスタルガラス工房を建てたことで、彼はマイゼンタールのガラス工房と装飾部門のノウハウを移さなければなりませんでした。
しかしデジレ・クリスチャンもユジェーヌ・クレメールもナンシーに来るよう説得することは出来ませんでした。
また別のエナメル絵付け師であるアルフレッド・スチェフェールが申し出を受け入れ、ナンシーのガレの工房で数年間働きました。
マイゼンタールガラス工房の責任者であったジョセフ・レミー・ブルガンもまたナンシーに移ることを受け入れ、マイゼンタールの熱を使う仕事(エナメル加工とグラヴュール)の技術をナンシーに移すことに貢献しました。ジョセフ・レミー・ブルガンは1898年にマイゼンタールに戻りましたが、ガラス工房の仕事を再開することはなく、食料品店を開きました。
1896年5月のブルガン・シュヴェレール社の行政顧問の報告書によると、「エミール・ガレの書簡によれば、ガレがガラス工場とデジレ・クリスチャンの要求により契約した内容と度を越した価格が、ガラス工場とガレの工房の取引の障害となっている(ガレ氏は装飾前のガラス製品を購入し配送することを継続していた)。」と記されています。
また同様に、1896年4月2日にエミール・ラング経由エミール・ガレからユジェーヌ・クレメールに宛てられた手紙にはこんなことが書かれています。
「ガレ氏が不在のため、本日はあなたの手紙をお届けすることは出来ませんでした。あなたがした提案をガレ氏は受け入れますので、イースターが終わってからの火曜日か水曜日にお越し頂けますでしょうか。
日曜日と月曜日は予定があります。あなたの提案が受け入れられることを願っています。敬具」
ユジェーヌ・クレメールがエミール・ガレにどんな性質の提案をしたのかはわかっていません。
1894年にナンシーに自身のクリスタルガラス工房を立ち上げながらも、エミール・ガレはマイゼンタールのガラス工房との関係をすべて断ち切ることはしませんでした。
実際、1889年にはガレはブルガン・シュヴェレール社の株を10株保有しており、1900年には14株になりました。
後に、また彼の死後も、ガレの家族はその株を保有し続けました。
権利の譲渡に関する記録簿によると、クロード・ガレとジュヌヴィエーヴ・ガレ、ポール・ペルドゥリゼは1925年9月12日からブルガン・シュヴェレール社の権利の譲渡を実行し、1936年10月30日にはすべての権利を譲渡しました。