フランスのガラス工芸家 ルネラリック(Rene Lalique) ~アール・ヌーヴォーとアール・デコの巨匠~
アール・ヌーヴォーのラリック作品の特徴
ラリックは完全にアール・ヌーヴォーの中核を成していました。彼は職人として以上に宝飾店主としてアートの世界に入りました。
アクセサリーは日常の中にアートをもたらす要素となりました。
ラリックの技術的探求は、当時あまりアクセサリーには使われていなかった素材を導入することに至りました。
半貴石、角、エナメルと、そしてもちろんガラスです。
大切なことは素材の珍しさや希少さではなく、彼の思い描くアクセサリーに一致するかどうかです。
ラリックがジャポニズムから着想を得たのは、ツバメやトンボ、風景といったインスピレーションの源というレベルから、かなり明確なレベルまでありました。
例えばベルトのバックルに刀を持った番人を模るなどです。
アール・デコのスタイル
戦後復興の時代は、第一次世界大戦の恐怖を断ち切りたい人々のある種の無頓着によって特徴づけられます。
富を持つ資本家たちが急に増え、拡大する装飾芸術市場に興味を持つようになりました。
加えて、女性が解放され、「男性風に」振舞うようになり、コルセットを捨ててズボンをはき自由に動ける服装をするようになります。
この社会的変化が装飾芸術にも大きな影響を与えます。
芸術家たちによって前面に打ち出された新しい価値は、速さ、大胆さ、近代性です。
アメリカ文化はこのダイナミズムを象徴しています。
超高層ビルは憬れの対象となり、ジャズはヨーロッパ中に広がりました。
沈みゆくアール・ヌーヴォーとは対照的に、人々は簡素で簡略化された装飾を選び取りました。
構造的な形で緻密な作品は拒否されました。
アール・デコはキュビズムの影響を受けた幾何学的で抽象的なモチーフを推奨しています。
常に用いられている自然のモチーフは様式化され、抽象的な形状に形を変えています。
レイヨウ、シカ、リス、猟犬など・・・こういった動物の表現で速さを連想させています。
女性の表現は同様に進化しますが、より両性的になります。神話の登場人物は、近代的に直されます。
アール・デコのラリック作品の特徴
娘のスザンヌに補佐されて、ルネ・ラリックはアール・デコの精神を作品の中に組み込みます。
彼はとりわけ汽車やノルマンディーの大型客船の内装を手掛け、それらはこのスタイルの象徴となりました。
彼はまた車のマスコットをデザインし、速さと近代性が謳われます。
花瓶、香水瓶やその他の芸術作品で幾何学的で抽象的な型やモチーフを手掛け、その発想はアフリカや大航海時代以前の芸術から得ていました。
ルネ・ラリックのインスピレーションの源
ファム(女性)、フローラ(植物)、フォーナ(動物)―――3つのFがラリックのインスピレーションの源でした。生物と物体の注意深い観察者として、ルネ・ラリックは自然の中に生命力の強い豊かな示唆を感じていました。
彼は自然を分析し、観察し、彼独特の線や形、構造から感じ取れるのはそこに生命の輝きを見つけていたということです。
ラリックは花や植物を探求し、水生生物から学び、地を這う爬虫類や鳥たちを観察し、虫たちに魅了されていました。
しかしまた彼は天や地、植物や木々を訪ねるばかりでなく、人間にも、女性の顔や体も同時に彼に神の息吹を吹き込んでいました。
彼の天分は、取り入れて構成する才能に長けていることに由来します。
彼は自然を真似るのではなく、異なった要素を様式化するのでもなく、変形して新しいものを作り出すのです。
創造とは物質に魔法のように生命を与えることです。
もしルネ・ラリックが全ての感性を彼の作品の解釈に注いでいたなら、彼はまた芸術の大きな変革に没頭していたことでしょう。
ルネ・ラリックの誕生
ルネ・ラリックは1860年にフランスのマルヌ県シャンパーニュ地方のアイで生まれます。何年か後、ラリック一家はパリ周辺に引っ越し、夏休みはアイに戻る生活を続けていました。ルネ・ラリックは自分が生まれた田舎町にとても愛着を持っていました。
父の死に伴い、ルネ・ラリックは宝飾店ルイ・オコックの見習い職人となります。
彼がアクセサリー製造や宝石細工術などの製造技術を獲得したのはこの時期で、追ってパリ装飾芸術学校で授業も受けました。
そして2年間イギリスに滞在し勉強します。
その後、ジャクタ、カルティエ、ブシュロンなど著名な宝石細工店のデザイナーとして有名になります。
ルネ・ラリックがパリのガイヨン広場にある宝飾店ジュール・デスタプのアトリエに再び雇われるようになったのは1885年のことです。
「私は実際にアクセサリーのデザイナーというものにあったことが無い。ようやく、一人見つけた!」
アルフォンス・フーケ 19世紀パリの有名宝石商
現代アクセサリーの創始者として
自然から得たインスピレーションと、装飾の要素として女性の体を使用する大胆さをもつルネ・ラリックは、宝石細工品に思いがけないものを復活させます。1887年、ラリックは9月4日通りに身を置いていました。
1888年から金を彫り込んだ初めての装飾作品を作り始めました。
それらは古代やジャポニズムにインスパイアされ、当時の宝飾技術としては高性能な新しい素材を取り入れていました。
彼は金や宝石といった素材を、今までほとんど使われなかったり、思いつきもしなかったりした素材を組み合わせることを躊躇いませんでした。
例えば角や象牙、半貴石、エナメルやガラスなどです。
彼の目には、美の探求の方が豪華さを誇示することより価値があると映ったのでしょう。
当時のアクセサリーの個性や創造性は、豪華さや宝石の豊富さのためになおざりにされていましたが、ラリックはデザインに合わせて素材をはめ込みました。
彼は貴重かどうかではなく、効果や輝き、色を重視します。
1888年に、ルネ・ラリックは「RL」の刻印を登録し、彼の名で制作されたオリジナルの作品にサインを彫り込みました。
現代アクセサリーの考案者としてはエミール・ガレより3年遅れて、1895年の展示会で大衆に向けて発表されたルネ・ラリックは、1900年のパリ万国博覧会で大成功を収めました。
ラリックのブースはセンセーションを巻き起こし、彼の革新的な作品達は異口同音に称賛されました。
それ以来、世界中からオーダーが殺到し、ヨーロッパやアメリカで開催される主要なアートフェスティバルにすべて招待されました。
成功することは、模造品の企てをされることに結び付きます。
ラリックは満足しませんでした。誰の真似もしない創始者は、真似されることも大嫌いです。
模倣されることにうんざりして、彼は次第に他の地平に向かいます。
ガラスは少し前から既にラリックの心を魅了していました。新しいキャリアが開かれます。
ガラスの魔法に引き寄せられて
ルネ・ラリックのガラス分野での初めての試みは、1890年に遡ります。
パリのテレーズ通り20番地の3つ目のアトリエに移ります。この時期に彼は初めてガラス分野での作品作りを始めます。
アクセサリー制作の技法でガラス化できる素材となじませたのです。
ラリックはすでにエナメルとガラスをアクセサリーの飾りとして使用していましたが、それは金やオパール、ダイヤモンド、真珠やアメジストという素材と横並びでしかありませんでした。
彼がガラスという素材に目を付けたのは、間違いなくエナメルのおかげでした。
彫刻やはめ込み細工を徐々に宝石と代わって使用するようになります。
ラリックはまたロストワックスの技法を使用して花瓶や彫刻作品といった小さな作品を作成しました。
その少し後、鋳型への吹き込み成形技術を試しましたが、その鋳型は高価な銀を彫刻したもので、ガラスと合体して取っ手やフレームとなるようなものでした。
フランソワ・コティとの出会いにより、ラリックは香水瓶をただ作るだけでなくデザインも手掛けることとなり、彼は新しい地平を開くことになります。
大量生産方式での生産にもかかわらず、彼が作ったものは疑いようもなく芸術作品です。
アール・ヌーヴォーの哲学を永続させる手法は、芸術と工業を融和させようとするものでした。
少しずつ、ラリックは製品を多様化させていきます
。1912年にはその手法を完全にコントロールして、彼はガラスのみの瓶に専念することを決めます。
彼は自らの最後のアクセサリー展示会を開催し、そこに聴衆はガラス工芸の達人を見いだします。
ルネ・ラリックは先人たちとは一線を画しています。
彼は色彩バリエーションのある多層ガラスに見切りをつけ、ガラス本来が持つ透明度を重視しました。
形に関しても、彼は他との違いを強く主張しています。
大胆さや奇抜さにも尻込みすることなく、しかしその隔たりは常に計算されていました。
1921年、アルザス地方にガラス工房を開設します。
ルネ・ラリックは何年も前からガラス工芸に没頭していました。
彼はアルザスに赴き、ガラス作品の制作に適した場所と同時に熟練のガラス工を探しました。
そして昔から伝統的にガラス作りを行っていた地域の中心であるウィンジャン・シュル・モデにアルザスガラス工房を開設します。これが今日あるラリック社の世界で唯一の工場です。
ルネ・ラリックは数々の建築プロジェクトにも参加します。
1925年にパリで開かれた装飾芸術と近代産業製品の国際展示会はラリックのガラス制作活動の絶頂となり、アール・デコは大成功を収めました。
素材に関して、彼のスタイルは特に後に有名となった透明ガラスと光沢ガラスの対比によって表現されます。
時折パティネ(古色風)や、エナメル加工、ガラス本体への着色も加えます。
「ガラスは奇跡のような素材だ」
ルネ・ラリック 1925年
幅広い分野のクリエーターとして、ルネ・ラリックの関心はテーブルウェアや花瓶、小像だけではありませんでした。
豪華なものが欲しければルネ・ラリックに聞け。
彼はついに注文者からの要望に折れて、壮大なスケールの内装を手掛けるプロジェクトに乗り出します。
1929年、ルネ・ラリックはコート・ダジュールのプルマン式特急電車の車両の内装を選びました。
彼は同時に高級自動車の暖房機の蓋やノルマンディーの大型客船の内装も手掛け、並外れたイメージの源泉は、宗教建築にも興味を持ちます。
1945年、ルネ・ラリックは死去します。息子のマルクが会社のトップに就任します。ラリック社をクリスタルガラスの時代へと導いたのは彼でした。
伝統と新しさの間、ルネ・ラリックの子孫たち
スザンヌ・ラリック(1892-1989年)
スザンヌ・ラリックはルネ・ラリックとアリス・レドルの娘で、母親はロダンの友人で彫刻家のオーギュスト・レドルの娘です。
スザンヌはしっかりと父親の創造性や判断力に刺激を受けていました。
1910年代から、化粧箱やキャンディー入れなどを手掛け、その後花瓶やその他の装飾品も作りました
。写真家で作家のポール・ブルティ・アヴィランドと結婚したことにより、スザンヌは他の芸術家一家を知ることになり、陶磁製品の世界に踏み込んでいきます。
何でも屋として、彼女は絵画や織物分野でも才能を発揮します。
小さな頃からスザンヌは何人かの著名な作家たち、ポール・モランドやジャン・ジラドゥーらと友人関係を結んでいました。
1937年にはコメディー・フランセーズで行う戯曲、ルイージ・ピランデロのシャカン・サ・ベリテ(Chacun sa vérité)の装飾を任されました。
これが名高いメゾン、スザンヌ・ラリック・アヴィランドの長い経歴の始まりでした。
1970年代の初めまでに、50近い舞台の装飾と衣装を手がけました。
マルク・ラリック(1900-1977年)
マルク・ラリックはルネ・ラリックとアリス・レドルの息子として1900年に生まれました。
パリ装飾芸術学校を出たのち1922年からは父親の共同制作者となりました。
父の死後、彼は家族経営の会社のトップに就任します。
マルクは技術者の技術の高さを、ウィンジャン・シュル・モデにある工房を改修し近代化するために有効に利用しました。
彼は最終的にガラスを止めてクリスタルガラスに転向しました。
透明度と艶の対比がクリスタルガラスという素材の純粋さを表す彼の最高の表現でした。
この特徴ある効果はラリックという名前のおかげもあり世界中で有名になりました。
彼の推進力の下、ラリッククリスタルガラス工房はすぐに国内外の有名クリスタルガラス工房と肩を並べるほどになりました。
マリー=クロード・ラリック(1935-2003年)
マルク・ラリックが自らの仕事にかけた情熱は、幼い娘の心にしっかりと刻まれます。
実際かなり早い段階からマリー=クロードは、芸術家が自分の作品が形になることの感動を知る機会を祖父や父親のおかげで得ていました。
もし自分の祖父や父親の作品を追いかけることが彼女の一番の目的であったとしても、彼女はなお新しいものを追求する精神を意識的に受け継いでいました。
1977年、マリー=クロードはラリック社の代表に就任します。
彼女はアクセサリーの制作を復活させ、香水瓶の制作を発展させました。
流行やその時代のクリエーターを十分に意識して、マリー=クロードは伝統と再起の組み合わせを追求しています。