フランスの高級陶磁器 セーヴル(セーブル)磁器の歴史
セーヴル磁器の歴史は、1738年にマルキス=オリー・ド・フルヴィが時のフランス王ルイ15世からザクソン流の磁器製造の許可を与えられたことに端を発します。
そのころ、優れた陶磁器作家であったデュボワ兄弟は、シャンティリーから逃亡してヴァンセンヌ城で磁器製造の実験を行っていました。
そして1745年ごろ、デュボワ兄弟はグラヴァン氏とともにフリット磁器の一種である軟質磁器を作り出すことに成功しました。
最初のセーヴル磁器製陶所は、シャンティリーの製陶所で働いていた地元の職人たちによって、1738年にヴァンセンヌ城で創設されました。
この製陶所は、創立当初から美しく繊細な金彩装飾や手描きによる華やかな装飾を生み出しました。
1751年にマルキスが没すると、セーヴル窯の権利のうち25%をルイ15世が独占します。
そして、工房の名称を「フランス王立製陶所」に変更し、製陶所のサインとしてダブルLマークを使用することを決定しました。
1759年ごろには、セーヴル磁器の製造にかかわるすべてがルイ15世により支配されるようになります。
当時、ルイ15世は自身こそがセーヴル磁器をフランスや、さらには海外に売り出していく大使であると考えていました。
さらに、磁器の多色装飾はフランス王立製陶所の専売特許とし、フランスにあるほかの工房には一色による装飾しか許しませんでした。
この多色装飾に関する独占は、1780年まで続きました。
フランス王立製陶所は1756年にセーヴルへと移転しました。
なんとこの製陶所は現在でも稼働しています。
フリット磁器に必要な窯の温度はそれほど高くはなく、そのため装飾に様々な色を使用することが可能でした。
このことから、ヨーロッパにある多くの製陶所でもフリット磁器が製造されるようになります。
さらに、釉薬を使用しないビスキュイ磁器もバシュリエによりこの製陶所で生み出され、セーヴル製陶所は他の製陶所の模範的存在となりました。
1772年にリモージュでカオリン鉱床が発見されると、セーヴル窯はこれを使って硬質磁器の生産を開始します。
そして、セーヴル窯が「王立窯」の称号を与えられた1804年に、フリット磁器の製造は終了しました。
ところが、このような躍進にもかかわらず、フランス革命とその後に続いた恐慌により製陶所の状況は一変します。
セーヴル製陶所は破産し、当時王室や富裕層にとって最も理想的な磁器を作り出していたといわれるドイツ窯・マイセンに打ち勝つという夢は切り裂かれました。
18世紀終盤、政府は新たな経営者としてアレクサンドル=ブロニャールを送り込みました。
ブロニャールは建築家を父に持つ科学者であり、磁器の製造や設計に関してはほぼまったく経験がありませんでしたが、化学、植物学、動物学、地学に長けた真のルネッサンス人といえる人物でした。
ブロニャールは自身の能力や経験を生かし、これまでの磁器製造にはなかった新しい製造方法を編み出しました。
その結果、新たなデザインが生まれたうえ生産性も向上し、セーヴル製陶所の財政回復につながりました。
その後、富裕層向けの高級品だけではなくより広い社会層に向けたシンプルかつ高品質な商品へと生産を拡大したことで、セーヴル製陶所はフランス王室への依存状態から抜け出しました。
さらに、製陶所は絵付け部門の拡張に加え、釉薬や磁器の原料となるカオリンに関する実験に対する投資も実施します。
セーヴル製陶所が建設した世界で初となる磁器博物館や、自社製品を含め世界中から集めた展示品にも、磁器製品にたいする製陶所の熱意が表れています。
ナポレオンは、クラシックでありながら手の込んだ装飾が特徴のエンパイア・スタイルのなかでも、権力を象徴するような大きな作品を好みました。
スタイルの好みが支配者により変化しつづけた19世紀のあいだも、セーヴル製陶所はそれらの好みに合わせた製品を作り続けました。
また、新たな料理や変化する食べ物や飲み物の好みに合わせ、セーヴル磁器は実用性の面でも変化を遂げました。
セーヴル製陶所に有名磁器作家であるフラゴナールがいたことや、製陶所による高級品の製造や価格設定なども、トップの装飾師を呼び込むことにつながりました。
そのころ、優れた陶磁器作家であったデュボワ兄弟は、シャンティリーから逃亡してヴァンセンヌ城で磁器製造の実験を行っていました。
そして1745年ごろ、デュボワ兄弟はグラヴァン氏とともにフリット磁器の一種である軟質磁器を作り出すことに成功しました。
セーヴル製陶所の創設

最初のセーヴル磁器製陶所は、シャンティリーの製陶所で働いていた地元の職人たちによって、1738年にヴァンセンヌ城で創設されました。
この製陶所は、創立当初から美しく繊細な金彩装飾や手描きによる華やかな装飾を生み出しました。
1751年にマルキスが没すると、セーヴル窯の権利のうち25%をルイ15世が独占します。
そして、工房の名称を「フランス王立製陶所」に変更し、製陶所のサインとしてダブルLマークを使用することを決定しました。
1759年ごろには、セーヴル磁器の製造にかかわるすべてがルイ15世により支配されるようになります。
当時、ルイ15世は自身こそがセーヴル磁器をフランスや、さらには海外に売り出していく大使であると考えていました。
さらに、磁器の多色装飾はフランス王立製陶所の専売特許とし、フランスにあるほかの工房には一色による装飾しか許しませんでした。
この多色装飾に関する独占は、1780年まで続きました。
製陶所の移設

フランス王立製陶所は1756年にセーヴルへと移転しました。
なんとこの製陶所は現在でも稼働しています。
フリット磁器に必要な窯の温度はそれほど高くはなく、そのため装飾に様々な色を使用することが可能でした。
このことから、ヨーロッパにある多くの製陶所でもフリット磁器が製造されるようになります。
さらに、釉薬を使用しないビスキュイ磁器もバシュリエによりこの製陶所で生み出され、セーヴル製陶所は他の製陶所の模範的存在となりました。
1772年にリモージュでカオリン鉱床が発見されると、セーヴル窯はこれを使って硬質磁器の生産を開始します。
そして、セーヴル窯が「王立窯」の称号を与えられた1804年に、フリット磁器の製造は終了しました。
ところが、このような躍進にもかかわらず、フランス革命とその後に続いた恐慌により製陶所の状況は一変します。
セーヴル製陶所は破産し、当時王室や富裕層にとって最も理想的な磁器を作り出していたといわれるドイツ窯・マイセンに打ち勝つという夢は切り裂かれました。
製陶所の国営化
1798年ごろになりセーヴル製陶所が国営企業となると、大幅に削減された労働力と資金や材料の不足のなかで生き残りをはからなければならなくなりました。18世紀終盤、政府は新たな経営者としてアレクサンドル=ブロニャールを送り込みました。
ブロニャールは建築家を父に持つ科学者であり、磁器の製造や設計に関してはほぼまったく経験がありませんでしたが、化学、植物学、動物学、地学に長けた真のルネッサンス人といえる人物でした。
ブロニャールは自身の能力や経験を生かし、これまでの磁器製造にはなかった新しい製造方法を編み出しました。
その結果、新たなデザインが生まれたうえ生産性も向上し、セーヴル製陶所の財政回復につながりました。
その後、富裕層向けの高級品だけではなくより広い社会層に向けたシンプルかつ高品質な商品へと生産を拡大したことで、セーヴル製陶所はフランス王室への依存状態から抜け出しました。
さらに、製陶所は絵付け部門の拡張に加え、釉薬や磁器の原料となるカオリンに関する実験に対する投資も実施します。
セーヴル製陶所が建設した世界で初となる磁器博物館や、自社製品を含め世界中から集めた展示品にも、磁器製品にたいする製陶所の熱意が表れています。
フランス支配者に愛され続けたセーヴル磁器

ナポレオンは、クラシックでありながら手の込んだ装飾が特徴のエンパイア・スタイルのなかでも、権力を象徴するような大きな作品を好みました。
スタイルの好みが支配者により変化しつづけた19世紀のあいだも、セーヴル製陶所はそれらの好みに合わせた製品を作り続けました。
また、新たな料理や変化する食べ物や飲み物の好みに合わせ、セーヴル磁器は実用性の面でも変化を遂げました。
セーヴル製陶所に有名磁器作家であるフラゴナールがいたことや、製陶所による高級品の製造や価格設定なども、トップの装飾師を呼び込むことにつながりました。
最高品質の磁器製品を作り続けたセーヴル製陶所
セーヴル製陶所は、その長い歴史を通して富裕層や特権階級も認めるほどの最高級磁器製品の作り手であるという評判をさらに強固なものとしてきました。
イギリスのウォレス・コレクション美術館には、世界でも有数の最高級セーヴル磁器のコレクションが保存されています。
このほか、バッキンガム宮殿やウィンザー城のロイヤル・コレクションや、ワデスドン・マナーにあるロスチャイルド・コレクションにも素晴らしいコレクションの数々が残されています。
これらのセーヴル磁器コレクションは、19世紀に起きたフランス革命の結果多くの作品が市場に流れたことで集められたものです。