ミューラー兄弟 クロワマール工房でのガラス工芸 CVのサイン・マークは!?
フランスのガラス工芸家 ミューラー兄弟とクロワマールのガラス工芸
もともとあったクロワマール工房をミューラー兄弟が引き継いだのがきっかけです。さかのぼること、1858年にウジェーヌ・オーギュスト・ガーナーというガラス系の化学者が、ジェイコブ・シュテンガーという商人とヴァレリスタルという町から来て、ナンシーにほど近いクロワマールという村外れに土地を買い、ガラス工房を開きました。
工房は1859年に「ガーナー工房」をアルザス地方の5番アベニューに開いて稼動を始めました。
シュテンガーはその後失踪しましたが、何故かは分かっていません。
1865年に会社は「ガーナー&ベイリー・ヴェルリー(ガラス工房)」に名義を変更しました。
(ユジェーヌの息子がベイリー・ガーナーです)。工場は、元の建物よりも1868年に拡張しました。
1886年までこのガラス工房は家庭用のガラス器を生産していました。
ボヘミアからの安いガラスの輸入品のため、生産は減り、工場は稼動をやめました。
1894年、その工場は投資家と従業員などにより買収され、新たな会社が設立されました。
これは「クロワマール・ヴェルリー(ガラス工房)株式会社」と名づけられました。
この工場は、190人の男性労働者、90人の女性労働者に80人の子供の総勢300人を超える従業員を雇っていました。
しかし、景気が悪化したため、ガラス工房はそのシェアをクロワマールのヒンツェリン家に買い取られました。
名前は「クロワマール・グラン・ヴェルリー株式会社」と変更されました。
1913年に従業員は200人まで縮小されました。
そして第一次世界大戦中、稼動は停止されました。
1919年にミューラー兄弟が、その工場を再開しました。
ミューラー兄弟は、カルハウゼンにある宿屋の主人の子供たちです。
1870年よりドイツに占領されていたその地からナンシー市に疎開したとき、彼らはまだ17才にもなっていませんでした。
オーギュストは1893年にナンシーへ来ました。
専門家は彼がガラスの彫刻家だったとしています。
アンリは、28才の時にガレの工房で働き始めました。
デジレは、エナメル装飾の専門家として、17才からやはりガレの工房で働き始めます。
そして、アンリとデジレは、1895年にガレの工房を去るとリュネヴィルに自分たちの工房を作りました。ジャンは、24才の時にクリスタルの彫刻家としてガレの工房で働き始めました。
1896年にミューラー一家(父親、母親とその子供たち)は揃ってナンシーで暮らし始めました。
カミーユは、ドーム兄弟のもとで働き、バカラ社を経て、最終的にセーブルの町へ行きました。
ウジェーヌとヴィクトル、ピエールは、ガレの工房に加わりました。
1904年にむけ、ウジェーヌはリュネヴィルのアンリとデジレの工房に加わるようになります。
3兄弟は、サンタンヌ通りの工房で仕事を始めました。
他の兄弟たちもそこに加わりました。
彼らは、ヒンツェリン工房(1895-1914)の「白色ガラス」部門を請け負い、浮き彫りや彫刻などを行い、花瓶、カップ、水差し、彫刻などを製作しました。
すべての作品に様々な形で象嵌細工、エナメル、何層ものガラスを被せるなどカメオ彫りのあらゆる技術が使われました。
1900年にアンリはクロワマールのガラス工房のスペースを借り、リュネヴィルのサンタンヌ通りの工房の一部をそちらに移しました。これ以降、「ミューラー兄弟・ナンシー近郊クロワマール」というサインが使われるようになります。
ミューラー兄弟は、職人であり工業生産者ではありません。
彼らは、何層にも重ねたガラスの数を掛け合わせていきました。
この技術においてかなう相手はいません。
この頃の作品は最高のものばかりです。
なぜなら、彼らは完璧なものしか残さなかったからです。
彼らは色のスペシャリストであり、以前に学んだ技術の全てを駆使し、
さらにそれを向上させていきました。
1905年にデジレは、ベルギーのヴァル・サン・ランベールへ向かうべく、クロワマールのアンリの工房をあとにしました。
ジャン、オーギュストとカミーユも家をあとにしセーブルのフーダイル社に行きました。
エミールはショワジー・ル・ロワのガラス工房でアシスタントディレクターになりました。
ウジェーヌは、ヴァル・サン・ランベールでデジレに加わります。
そしてそこで、レオン・レドリュの指導のもと、美術作品の製作を始めました。
411もの様々なモデルが作られました。1908年にウジェーヌはとデジレは、
リュネヴィルに戻りました。
アンリと共に、彼らは新たに2つの工房を開きます。
そこで、彼らはライン生産方式を採用し、製品の製造を行ない、半工業生産をはじめました。
彼らは1911年にトリノの万国博覧会において銀賞を受賞、1914年のリヨンの万国博覧会では金賞を受賞しました。
1914年に第一次世界大戦が勃発し、戦争初期にウジェーヌが戦死し、彼らは稼動を中断しました。
1919年、クロワマールのガラス工房もまた一部、戦争被害を受けていました。
製造機械ももはや古いものでした。
アンリとデジレは、ヒンツェリン工房のシェアの過半数を買取り、新たに「クロワマールのグラン・ヴェルリー&クリスタルリー会社」を設立しました。
建物は改装され、新しいガラス用の溶解炉も導入しました。
それと同時に、彼らは新会社「ミューラー兄弟・アート・ヴェルリー」も設立しました。
リュネヴィルでの製作活動にはこちらの名前がつけられました。リュネヴィルで製作された作品には「ミューラー兄弟リュネヴィル」とサインされることとなったのです。それに対し、クロワマールで製作された作品には「G.V.(グラン・ヴェルリー)クロワマール」とサインされています。
1925年には、彼らはクロワマールで250人、リュネヴィルで100人の従業員を雇っていました。
ミューラー兄弟は、創作、革新、製作に関して天賦の才を持っていました。また流行を追い、先取りし、引き起こし、新たに生み出す才能にもあふれていました。
彼らはありとあらゆるタイプ、色、形の作品を予算にあわせて作りました。
1927年、2つの会社は「グラン・ヴェルリー・クロワマール&ミューラー兄弟・アート・ヴェルリー合弁株式会社」という名のもとに統合されました。本社は当初クロワマールにおかれましたが、1931年にリュネヴィルに移されました。会社は1931年には、クロワマールで350人、リュネヴィルで100人もの従業員を雇うほどになっていました。
この時代のアールデコ様式のシャンデリアは、歴史的にも記念に残る一品です。型取りされたガラスはオペーク(不透明なガラス)、つやけしガラス、ポリッシュなど様々な形をとり、アシッド(腐食技法)とホイール彫りにより装飾されています。生き物をかたどった花瓶は、この時期のもっとも美しい作品のひとつです。
デジレは、1929年に技術をさらに洗練させていきました。彼はシャペルでアイアンワークによる新しい作品を作りだしました。アールデコ様式で、生き物の形のメタルフレームにブロー成形(吹きガラスを成形する技法)で、ガラスを作るというものです。これらの作品は空洞となるため、電気の照明に利用されるようになりました。