ロイヤルコペンハーゲンの美術監督アーノルド・クロッグの歴史

アーノルド・クロッグ

ロイヤルコペンハーゲンの芸術監督であったアーノルド・クロッグ(写真)は、1900年にフランスのスタジオで作られたせっ器 (もしくは半磁器)と出会い、デンマークにその技術を持ち帰ることを決め、そこからブランドの最も長く新しい時代が始まりました。 

パトリック・ノードストロームは長い時間をかけ技術的な問題を解決し、1912年同社のせっ器部門を設立します。

色と釉薬素材を独自にブレンドし、非常に美しいジャポニストの花瓶、蓋付きジャー、そしてフィギュリンを生み出しました。

そして、ロイヤルコペンハーゲンは1987年にビングオーグレンダールと合併します。


1775年、皇太后ジュリアン・マリーの下で王立デンマーク磁器製造所として設立されたロイヤルコペンハーゲン磁器製作所は、ドイツ国外で初めて陶磁器の食器と磁器のフィギュリン定期生産を行った工場のうちの1つでした。

これは、マイセンがおよそ100年かけた試行錯誤から得たイノベーションの賜物でした。

化学者のフランツ・ハインリヒ・ミュラーは、デンマークで初めてハードペーストを素地とした磁器の製法を習得し、その成果を買われロイヤルコペンハーゲンに採用されました。

マイセンと同じく、ロイヤルコペンハーゲンの初期の作品はコバルトブルーの釉薬で塗装されています。

当時コバルトブルーは、中国風の磁器の硬度を製作する工程に必要な、非常に高い焼き上げ温度に耐えることができる唯一の色だったのです。

マイセンや他の磁器工場とは異なり、ロイヤルコペンハーゲンは他の色を使用する方法が発見された後も、伝統的な「青と白のスタイル」で陶器と食器を生産し続けました。

このため、コバルトブルーはロイヤルコペンハーゲン磁器食器のトレードマークになっています。

およそ1世紀の間、王立デンマーク磁器製造所としてのロイヤルコペンハーゲンは王室によって運営されていました。 

1868年に運営は民間の手に移行しましたが、その名前と王室の燕尾旗を掲げる特権を保持し続けます。

数年後の1882年から1884年にかけて、工場はアルミニアのファイアンス焼きの工場と統合されたため、コペンハーゲンの中心部からフレデリックスバーグの新しい施設に移転しました。

画家兼建築家であったアーノルド・クロッグ(1856年生-1931年没)は、1885年に監督に任命されます。

彼は釉薬の下に絵を描くと言う新しい技術を開発し、風景や自然主義的な装飾を描くことを可能にしました。

新しい技術を用いた磁器は1889年にパリ万博博覧会に出品され、グランプリを受賞しました。 

さらに1893年、シカゴ万国博覧会で新しい釉薬を発表し、ここでも大好評を収めます。

またこの頃、パリジャン・ブルー、スネークスキン・グレー、赤茶色を使用したクラクリュール技法を習得していました。

この新しい色彩は20世紀の変わり目の美的感覚にぴったりだったようで、ロイヤルコペンハーゲンは国際的な躍進を遂げ、パリ、ニューヨーク、ロンドンにショップをオープンすることになります。

そして1900年、クロッグはパリ万国博覧会に出品したマーガレット・サービスでグランプリを受賞しました。

この万博に出席した際、彼はフランスのスタジオ陶芸家、シャプレ、デラヘルチェ、ダルペラ、ダムーズ、カザン、ジャヌネ、ウンチェルらのせっ器の作品に魅了されました。

感激したクロッグは、デンマークに戻り器製造の技術をデンマークに持ち込む決意をします。

ロイヤルコペンハーゲンがパトリック・ノードストローム(1911年から1923年までロイヤルコペンハーゲンに所属)の指揮の下、せっ器部門を設立したのは1912年のことでした。

ノードストロームはフランスのせっ器を熱愛しており、特にキャリーズ・スクールの作品を気に入っていました。

そして、彼独自のガラス化が可能なせっ器粘土、釉薬の材料、制作方法を編み出したものの、全て秘密にしていました。

その後研究者たちは、ノードストロームの技術のほとんどが1910年10月にアール・エ・デコラシオンに掲載された記事が元になっていることを発見します。

その記事には、キャリーズと共同制作を行なっていたオークレアーがキャリーズの秘密を明らかにする内容でした。

ノードストロームはその記事の脚注から同じ雑誌の昔の記事を発見し、そこにタキシル・ドアトによって明かされたセーブルの技法を参考にしたようです。

ノードストロームはキャリーズの伝統を守りながら、その知識を他の領域にも広げました。

玄武岩、溶岩、銅と鉄、金紅石、木の灰など、驚くほど多様な色と、様々な釉薬の原料が使用されました。

独特の触覚と輝く石粘土が、強烈な熱と炎によって作られた色と調和し、さらに慎重に調合された釉薬と反応することで、20世紀の装飾美術の最高峰の作品を生み出したのです。