ロイヤルドルトン・ボーンチャイナ(Royal Doulton Bone China)の意外な歴史

ロイヤルドルトン・ボーンチャイナは、ロンドンのフラムで、1815年にジョン・ドルトンとジョン・ワットによって設立されました。信じられないかもしれませんが、この企業は元々陶磁器に注力した企業ではありませんでした。

何故でしょう?

18世紀初頭、ジョン・ドルトンが陶芸家として活動を始めたとき、まだ陶磁器は生まれたばかりで、レシピは秘密に包まれており、大量生産の選択肢には当てはまりませんでした。
塩焼石器が若いジョンが理解できる物でした。

雇われる事に疲れたジョンは、22歳の時にジョン・ワットと共に、自身のビジネスを始めました。
ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史

ドルトン家は起業家一家

新しいビジネスは繁栄を続け、拠点をロンドン内のフラムからランベスへ移しました。家庭用の陶器は彼らのビジネスの利益の多くを占めるものではありませんでした。 
ジョンの跡継ぎの息子のヘンリー・ドールトンがこれらを全て変えました。彼は華美な装飾がされた商品の開発に力を入れました。
ヘンリーは、蒸気で動く陶器製作の機材を含め、多くの発明に寄与しました。
初期のロイヤルドルトン・ボーンチャイナの発展は、下水管の大量生産によってもたらされた資金によるものでした。

汚物のある所には金がある

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史


イギリスの南部に「汚物のある所には金がある」というフレーズがありますが、それにここまでマッチすることもないでしょう。
しかしながら、スタフォードシャーでは他の陶芸家達が、新しい「陶磁器」で、目覚ましく成功していく中、ヘンリーは気が進みませんでした。

1884年に、彼はその新しい技術をロイヤルドルトン・ボーンチャイナで使うことを決め、それに彼らの素晴らしいランベスの美術部署よりも更に素晴らしいアーティスティックなイマジネーションを散りばめました。

その後すぐ、彼らは模型製作者、装飾家、画家から成る、とても傑出したチームに囲まれることとなります。

ランベス・ストーンウェア・アート・ポッタリーと、ロイヤルドルトン・ボーンチャイナどちらもが、企業としての名声を得て、商品も世界的に展開されていきました。
1887年、ヘンリーはクイーン・ビクトリアよりナイトの称号を与えられました。

20世紀に入り、新しいアート・ディレクターのチャールズ・C・ノークの元で、悪評が広がっていきました。(筆者にとってはヒーローと呼べるかもしれません。ロイヤルドルトンの像を自分で彫りたいと思わせた人物なので。)
そして、クイーン・ビクトリア治世の後期における、成長を支えた素晴らしい才能達の時代は終わりました。(ジョセフ・ハンコック、ハリー・チセンサー、エドワード・バークス、パーシー・カーノックなどなど)

1901年、エドワード7世は、企業がロイヤルの称号に相応しいと判断し、企業はロイヤルドルトン・ボーンの像や水差しといった、収集可能な商品の生産を始めました。
ドルトンは新しい光沢や装飾におけるリーディング企業でした。

1897年に、サー・ヘンリー・ドルトンは亡くなり、彼の息子(同名のヘンリー)ヘンリー・ルイス・ドルトン(創設者ジョンの孫にあたる)が後を継ぎ、息子ヘンリーはその後1925年まで、企業をコントロールすることとなりました。

ロイヤルドルトン・ボーンチャイナは1901年にエドワード7世よりロイヤルの称号を与えられましたから、父ヘンリーはわずか4年の差でその瞬間を逃してしまったことになります。

創設者 ジョン・ドールトン

ジョン・ドルトンは1793年に生まれ、少年の頃から、ロンドンの陶器類貿易会社で見習いとして働いていました。ほとんどの場合、陶器の起業家はスタフォードシャーの人物なので、ロンドン育ちの人物は筆者にとっても珍しい事です。
その時代、陶器の貿易会社で見習いになることは全く悪いことではありませんでした。忙しくて、急成長している業界でのスキルが磨けたからです。
彼の母親はきっと誇りに思ったことでしょう。(もし生前母親がロイヤルドルトン・ボーンを見たのなら、きっと大好きになったに違いありません。)
ドルトンは明らかに一生懸命働く中で、度胸を得て、お金を貯め、心の中で立派な計画を立てていたことでしょう。
そして、彼は全てにおいて通用する、やみくもな野心を持っていました!長い道を突き進める健康と、エネルギッシュさ、そして生まれながらの教養と共に備わっていました。
22歳の時にはすでに100ポンドの大金を彼の名前で大事に貯金していました。ギャンブル、お酒、フェイスブックに費やす時間は彼とは無縁でした。
当時の100ポンドが、現在の価値でどの位になるのか知りたかったのですが、当時は食べ物の値段は今より高く、土地や家賃の値段は安かったため、換算することがとても難しいのです。しかしながら、推測するに8500ポンド(110万円)位の価値ではないかと思います。この計算が正確なものかは確かではありませんが、若い倹約家で質素な若者が、新しい自分のビジネスのために費やす金額と考えれば、納得のいく金額だろうと考えます。

ジョンは、取引のいろはを、1688年に創業したフルハム・マニュファクチャリングで学びました。ジョン自身は1800年代前半に企業に入社しました。

古い知識を吸収したドルトン

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史

フルハムは塩焼石器におけるイギリスのパイオニア企業で、既に一世紀以上の経験がありましたから、ジョンは熱心にその知識を得たはずです。
このフルハム・ファクトリーは後期、彼と彼の両親によって買い取られ、ジョーンズ、ワット&ドルトンという名前に改名されました。(若い見習いは企業を買い取るほど大好きだったのです!)
この工房は装飾石器に特化した工房で、中流階級のまだ自由に使える収入があるような人々を楽しませました。

同じころ1815年、新進気鋭の起業家は、彼の100ポンドをランベスのマーサ・ジョーンズの『陶器工房に出資しました。(フルハムから約6.5キロ離れた、テムズ川の南岸にありました。)彼女にはジョン・ワットという顧客が付いていました。彼は時に周りにいなければならない、必要不可欠なタイプの人間でした。ですので、ドールトンは企業を三分割することに合意しました。そして、ジョーンズ、ワット&ドールトンと改名されました。

1820年にマーサは経営から抜け、ドルトン&ワットとなりました。1926年、ランベス・ハイストリートに新しい店舗が出来ました。

メインのアイテムは、装飾石器を始めとした、使い勝手が良く実用的なアイテムでした。この頃はまだロイヤルドルトン・ボーンチャイナとは無縁のアイテムばかりでした。

古い壁を削り落とした人物、息子のヘンリーについて

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史


息子のヘンリーは、古い壁を削り落とした人物でした。(他にも行いましたが。)

彼はジョンの子供たちの中で最も聡明な人物でした。彼がドルトン家に生まれてきたことは、彼らにとって、幸運なことでした。

では、彼は一体何を行ったのでしょうか?

1835年に、彼は見習いとして企業に入りました。彼は、基礎から一つ一つ学んでいく必要がありました。

彼の成功は、父の功績にも関わらず、すぐに失墜することとなりました。彼は、アーティストの目線からスタートしました。エナメル加工について習得、実験し、アート・ビジネスを学ぶことに没頭しました。

1864年、彼は、自社の衛生用品で国をコレラとチフスから救いたいという衝動に駆られました。その後のラグジュアリーなロイヤルドルトン・ボーンチャイナの商品とは、似ても似つかないものです。

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史



1860年代、彼はランベスの下院議員となりました。

1870年代より、彼は美しいコンテンポラリー・アートの陶器製作と、新たなスタフォードシャーのラグジュアリー陶器生産地域の発展のため、アート部門のイノヴェーションに注力しました。

1887年に彼はナイトの称号を与えられ、彼の功労が認められ、1901年に王によりロイヤルの称号が与えられます。(残念な事に彼は1897年に亡くなっているため、わずか4年の差でこの瞬間を見逃すこととなりました。)

ヘンリー・ドルトンの初めての試みは、彼の同志でもあるロンドン市民を死と病気から救おうとするものでした。当時、人々は死に至らしめるような病気に対抗するために汚物と細菌をどうすればよいか、理解を始めたばかりでした。
未発達の下水処理と病原の関係性が、ある一つの証拠により明らかになるとすぐに、ヘンリー・ドルトンは道路を清潔にするための製品開発に取り掛かりました。

1846年から1853年当時、ドルトン&ワットは、UKのリーディング企業となりました。

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史


しかし同じころ、ドルトンの真のアーティスティックでラグジュアリーで豪華な側面のビジネスは、息子のヘンリーに任せられ、企業を前へ推し進めました。

1853年頃と見られるワットの引退から、このプロセスは進められ、企業はドルトン&Coとなります。この企業名は1972年まで続くこととなりました。

ドルトンについて考察するにあたり、念頭におかなければいけないポイントは、二つの別の企業が、二つの支社として、別の土地で別々の発展を遂げたという点です。

ランベスの支社は、装飾石器を続け、スタフォードシャーの工房は、ロイヤルドルトン・ボーンチャイナの高品質の陶器製作に注力しました。

ランベスの製作所は1956年に閉鎖され、本社であるロイヤル・ドールトン・ヘッドオフィスは1971年まで続きました。

1870年代以降のランベス・アート・デヴェロップメント

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史


1860年代前半に、装飾石器で有名なドルトン・ウェアがランベスに誕生しました。同じ時期に、ヘンリーがランベス美術学校のマネジメントチームに参加しました。そしてそこから優秀なアート・デパートメントが1871年に誕生することとなります。

ヘンリー・ドルトンは強い影響力を持っていました。

1862年から1868年までヘンリーはランベスの下院議員でしたので、影響力のある人物だったのです。
安定したアート・ポッタリーは良い影響を与えるために、学生の起用をしました。
価値のあった起用は、奇怪なウォリー・バーズで有名なエドウィン・マーティンと彼の兄弟ウォルターとチャールズ。ハンナ・バロウと彼女の姉妹フローレンスも特筆すべきアーティストですし、ジョージ・ティンウォースも優れた彫刻家でした。

父のジョンが1873年に亡くなり、かの有名なドルトン&Coランベスのアート・ビジネスは開花を始めました。


多くの賞を獲得したドルトン&Co

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史


ドルトン&Coとその関連団体であるアート。スクールの名は、世界的に知られていきました。アメリカのフィラデルフィアとシカゴの展示会で、栄誉のある賞を受賞したのです。1890年代の終わりにはおよそ400のアーティストがランベスで働きました。
ランベス・ストーンウェアの作品は今も昔も収集可能な物が多いです。おそらく、それ以上にロイヤルドルトン・ボーンチャイナによるものだと思われます。1970年代に、ドルトンは名前を利用して、ランベス・ストーンウェアを作り、テーブルウェア・コレクションに注力するように仕向けました。
ビクトリア女王が1901年に亡くなり、即時にビクトリア時代の感性も消えていきました。趣向が変わり、ランベス・ストーンウェアに対する需要は下がっていきました。皮肉な事に、新しい王が彼らの働きをたたえ、ロイヤルの称号を同社に与えたのも同じ年でした。

ランベスは時代のトレンドに追いつこうと奮闘しましたが、1920年代には、そこで働くアーティストたちの90%は企業を去っていました。
第二次世界大戦などにより、少量の需要はありました。戦後、美術陶芸家のアグネット・ホイが経営陣に招かれ、工房の立て直しを試みました。
結果的にこれは失敗に終わり、工房は最終的に1956年に閉鎖されました。

しかしながら、スタフォードシャーでの大きな存在をよそに、ランベスはドールトン&CoのHQとして、1971年まで存続しました。

ストーク・ドルトン 1877-2004

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史


ヘンリー・ドルトンは生粋のロンドンっ子でしたが、ある日、企業は陶器製作の中心地、スタフォードシャーに工房を持つべきだと気づきました。
そこで1877年、ヘンリーはバーズレムの企業、ピンダー、ボーン&Coに利子をコントロール出来る様に交渉しました。新たなドールトンの工房は、こうしてスタフォードシャーのストークオントレント、バーズレム、ナイルストリートに構えられました。そしてこの工房は2004年まで存続しました。
ここは筆者がフリーランスのモデラー・彫刻家としてロイヤルドルトンで働いていたときに、幾度となく訪れた場所でもあります。車を留めてからロイヤルドルトンの像製作の事務所まで向かうまでに、とても歴史的な体験をしました。飼育場の裏側を抜け、茂った草達をかき分け、きき音が鳴るような戸口を通ると、やっととても状態の良いオフィスへ続く階段が見つかります。

1877年の話に戻ると、ヘンリーはすぐさま重要な点を見抜き、ピンダーの従業員だった二人の才能あふれる人物を素早く取得しました。

それは、後にアート・ディレクターに任命されるジョン・スレーターと、若干23歳だったジョン・ベイリーです。ドルトンは良い人物を嗅ぎ分ける事ができたので、ベイリーはその若さに関わらず、聡明で才能があり、バーズレムの工房における完全な権限を与えられました。
このことは良い決断であり、人生におけるターニングポイントでもありました。

ベイリーとスレーター

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史

さて、もう一つの事業として、ドルトン・スタフォードシャーは、二人の監督者も得て、準備万端となりました。そして、ランベスに追いつくためにチャレンジも同時に始まりました。
ロイヤルドルトン・ボーンチャイナの製品は1884年に初めて製作されました。ベイリーとスレーターは、陶器の品質を最低でもダービーやミントン、ウォーセスターと肩を並べることが出来るものと見ていました。
上層部のヘンリーは、もっと半信半疑でした。結局、陶器製作所はマネーシンクとなりました。製作にコストは掛かりますが、作るのは簡単です。

ベイリーとスタンレーは、彼ら独自の方法を取りましたが、とても上手く任務をこなしました。

ヘンリー・ドルトンは1887年にナイトの称号を与えられ、1889年、チャールズ・ノークが企業に入りました。(企業にとって別の良い日々の始まりです。)ノークは色々なシーンで働く人々をコンセプトに、色々な形で表現するシリーズ・ウェアを構想していました。1904年、ノークは同僚のバーナード・ムーアと共にフランベ・ウェアを作りました。1913年、HNシリーズが発表されました。シリーズの初めての商品はHN1ダーリンでした。
チャールズ・J・ノークの秘密は、ウーセスターでチャールズ・ビンズの元で学んだということでした。チャールズ・ビンズはアーティストとしても、モデラーとしても、セラミック研究の面でも天才的で、かつアイディアに溢れた人物でした。1914年、チャールズ・ノークは、スレーターからアート・ディレクターの地位を譲り受けました。

ロイヤル・ドールトン・ボーンチャイナ 歴史


1930年代、企業のメインであるドルトンのナイルストリートの装飾陶器は下り坂でしたので、彼らは早急に新しいアイディアを必要としていました。そして、1934年、トビー・ジャグスの陶器シリーズが発表されました。その他の成熟したアイディアも一つ一つ達成していきました。記念品、動物の像、高品質の陶器テーブルウェア、子供用の陶器、バニーキンスとブランブリーヘッジなど。
イギリスのトランスルーセント、またの名をドルトン・ファイン・ボーンチャイナは1960年に発表されました。ヨーロッパの陶器メーカーは、伝統的な骨灰を使用していませんでしたから、あなたはロジックを知ることが出来ます。

ドルトンの悲しい失墜

ドルトンは、ロイヤル・アルバート、ミントン、ジョン・ベズウィックといった他の有名陶器メーカーを所有していました。
最近では、ロイヤルドルトン自身もウェッジウッドグループに買収され、ほとんどの商品はインドネシアで生産されています。
2004年、スタフォードシャーに残っていた従業員がウェッジウッドのバーレストン工房に異動させられました。筆者もよく覚えています。

共に働いた人物の一部が異動となり、続いて他の人々はリストラ、または引退を強いられました。