ヴァシュロン・コンスタンタンの歴史
スイスの時計業界で偉大な時計メーカーの1つであるヴァシュロン・コンスタンタンは、250年を超える歴史を誇り、継続して事業を続ける最も古い時計メーカーの1つとなっています。
現在はリシュモン・グループの傘下にあり、現在もジュネーブとヴァレードジューに工房を構えています。
ヴァシュロンは、複雑な装飾が施された一流の高級時計と、竜頭を飾るマルタ十字のデザインで知られています。
ハリー・トルーマン、ナポレアン・ボナパルト、ウィンザー公、教皇ピウス11世がヴァシュロン を所有していたと言われているそうです。
18世紀
ジャン=マルク・ヴァシュロン(1731年生~1805年没)は優れた時計職人であると同時に熱心な時計学者でもあり、1755年にジュネーブに工房をオープンしました。
彼の最初の注目すべき作品は、シルバーのケースにムーブメントがしっかり固定されたシルバーウォッチでした。
ジャン=マルクは1770年に最初の複雑な時計を製作し、1779年にはその後多くの時計職人に採用されることになる、エンジンチューニングダイヤルを初めて製造します。
1785年にジャン=マルクの息子であるアブラハムが事業の指揮をとり、1789年から1799年まで続いたフランス革命の10年間も開業していました。
19世紀
ジャン=マルクがに亡くなり、1810年に孫のジャック=バルテルミーが社長に就任し、フランスとイタリアへの輸出を開始することにより、事業を拡大しました。
1812年に、同社は最初のクォーターリピーター時計を発表します。
エナメル加工されたダイアルには「ヴァシュロン・ショサ&コンプAジュネーブ」と刻印され、ブルースチールのサーペンティンの針、贅沢な装飾彫刻が施されたフランス帝国スタイルのイエローゴールドケースが使用されていました。
1819年、ジャック=バルテルミは、経営していた時計のビジネスを畳むことになり。その時計を販売するために海外へ遠征する必要があったので、先見の明のあるビジネス戦略家のフランソワ・コンスタンタン(1788年生~1854年没)と組んで時計販売を行いました。
この時代に社名は「ヴァシュロン&コンスタンタン」となります。
コンスタンタンは、海外での時計のマーケティングと販売に才能を発揮し、米国との強い貿易を含め、世界中にブランドの時計を広めたのです。
1831年の懐中時計は非常に装飾が華やかで、イエローゴールドのケースの裏はカラフルなエナメルのデザインと美しい彫刻で装飾され、エナメルを施したダイアルには金の針が使用されました。
1839年、同社は発明家であり時計職人であるジョルジュ=オーギュスト・レショーを雇用して、エボーシュを製造するための機械工具を開発しました。
量産に必要な、機械を使用して製造できるレバー脱進機の設計に長年取り組んでいたレショーは、すぐに製造の責任者と技術ディレクターになり、ヴァシュロン&コンスタンタンは1842年までにスイスで最初の近代的な産業用時計の製造元になりました。
1845年、会社は独自に開発した脱進機とエボーシュを社外の時計職人に販売していました。
レショーはまた、ダイアルやその他の小さな時計部品に彫刻を施すのに機械を使用し、さまざまな時計部品の機械的な複製を可能にした「パントグラフィー装置」を発明した人物でもあり、それにより時計製造界に工業化の波を起こしたのです。
レショーは1844年にジュネーブ芸術協会から金メダルを授与され、これはヴァシュロンの評判と名声を飛躍的に高めるのに一役買ったようです。
1854年に没したフランソワに引き続き、1863年にジャック=バルテルミ・ヴァシュロンが亡くなります。
1862年、ヴァシュロン社は科学の進歩に強い関心を示し、、耐磁性材料研究協会に参加しました。
耐磁性時計は、磁場中または磁場の近くで使用する研究科学者や検査技師に不可欠なアイテムになりました。
1860年代後半、同社は技術的にはコンスタンティン家またはヴァシュロン家のいずれかからの誰かが管理するという状態で、 異なる二家族の気まぐれで名前を3回も変更しました。
1880年に今日まで続くマルタ十字のシンボルの使用が始まり、1890年にその特許を取得しました。
その意味については多くのコレクターの興味をそそるものですが、実際はぜんまいのテンションを制御するために設計された十字型の時計の部品が由来のようです。
1885年に、同社は、パラジウム、ゴールド、ブロンズ製の部品を用いて製造した最初の耐磁性時計を製造しました。
1887年には、法定憲章で定められた名称「ヴァシュロン&コンスタンタン」が確立されました。
その後、ジュネーブでのスイス国立展示会で金メダルを獲得した後、株式会社に再編成されました。
20世紀
1906年、現在も同じ場所にあるジュネーブのケドライレにブランド初のブティックがオープンしました。
1935年、ヴァシュロンはエジプトの王ファルークの依頼を受け、5年の歳月をかけて、最も複雑な懐中時計を作りました。
大恐慌が会社経営に影響を与え始めた1936年、チャールズ・コンスタンタンが1850年代以来初のコンスタンタン家からの社長に就任しますが、2年後SAPIC持株会社が運営するジャガールクルト・ファミリーに買収され、ジョルジュ・ケッターが取締役を務めることになります。
1940年、ケッターはチャールズから株式の大部分を購入し、119年間続いたコンスタンタン家の経営は終わりを告げたのです。
ケッターはリーダーシップを発揮し、第二次世界大戦が始まるまで戦中存続するのに十分な収益を維持しました。
ヴァシュロンは1945年の終戦を祝して、トゥールビヨン・レギュレーターがケースバックの円形の窓から見える、ピンクゴールドの懐中時計を生産しました。
19つの受け石とロジウムメッキのムーブメントが観察できる窓の周りに太陽光線のデザインが施されたものです。
1955年、ヴァシュロン&コンスタンタン創業200年の節目を迎え、厚さわずか1.64 mmの最薄のムーブメントを発表して祝いました。
ジュネーブにて、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領、エドガール・フォール、ニコライ・ブルガーニン、アンソニーエデン卿の4人の国家元首がサミットを行った際、スイスの幹部グループがヴァシュロンに、それぞれの贈り物として、特別な腕時計を4つ制作するよう依頼します。
1969年にケッターが亡くなったとき、彼の息子であるジャックは、日本で始まったクオーツ・ムーブメント革命に揉まれながらも、事業を維持しました。
1970年に社名から&が省かれ「ヴァシュロン・コンスタンタン」となります。
1979年、世界で最も高価で複雑な時計の1つであるカリスタを発表しました。
カリスタは、ヴァシュロンのトップの時計マスター達が制作に6,000時間を要し、さらに20か月かけて118つの最高級エメラルドカットのダイヤモンドで装飾された時計で、当初の提示価格は500万ドルと驚異的な金額でしたが、現在は何と1100万ドルほどの価格が付いています。
ジャックは1987年に亡くなり、ヴァシュロンは時計愛好家のアハマド・ザキ・ヤマニ(サウジアラビアの元石油大臣であり、ハーバードのMBAを保持)が過半数の株主になり、その時点で同社はインベストコープ社の一部となりました。
1994年、ヴァシュロンは、数学者、地理学者、および地図製作者であるゲラルドゥス・メルカトルの生誕400周年を記念し、限定盤のメルカトル・モデルを発表しました。
1996年、リシュモン・グループはヴァシュロン社の株式資本を購入し、現在も傘下にあります。
21世紀
21世紀に入り、より現代的でモダンなデザインに重点が置かれるようになります。
パトリモニー・シリーズは、ヴァシュロンの時計製造が3世紀目に入ったことを記念し、厚さ5.25 mmの世界で最も薄い機械式時計として作られたものです。
2003年、オーバーシーズというスポーツラインと、エジェリーと呼ばれる初の女性専用のコレクションを発表しました。
2004年、製造及び本社を、ジュネーブのプランレズゥアトにある新しく改装された場所に移転し、そこには、マスターウォッチメーカーのワークショップ、そして有名な高級ブティック等が含まれています。
2005年、ヴァシュロン・コンスタンタンは250周年を迎え、ツールドゥリルと言う記念モデルを発表しました。
ツールドゥリルは、これまでで最も複雑な両面時計で、天文ダイアル、16の複雑機構、および技術者による開発と研究に10,000時間以上かかった834の部品が使用されています。
これまでに7個の時計を製造し、それぞれ100万ドル程の値段で販売しています。
サンジェルヴェにはトゥールビヨンと永久カレンダーを搭載しており、パワーリザーブは10日以上あります。
キャリバー2250のムーブメントは4つのバレルがあり、パワーリザーブは驚異的な250時間を誇り、こちらは55個生産されました。
2005年10月、フアン・カルロス・トレスがリシュモン・グループのCEOに就任しました。
2007年に初登場したメティエ・ダール“マスク”コレクションは、私立博物館からの12の原始的なアートマスクが文字盤の中央にデザインされたシリーズです。