世界3大腕時計 ヴァシュロン・コンスタンタン(Vacheron Constantin)の歴史
ヴァシュロン・コンスタンタン 世界三大高級時計メーカーのはじまり
スイスの時計メーカーで最も歴史が長く偉大な名前の1つ、ヴァシュロン・コンスタンタンは260年以上の歴史を持ち、継続的にビジネスを続けている最古の時計メーカーの1つです。 パテック・フィリップ、オーデマ・ピゲと共に世界三大高級時計メーカーの一つとされています。現在ではリシュモングループが所有しており、依然としてジュネーブとバレーデジュール(Vallee de Joux)にあるヴァシュロン社は、素晴らしいコンプリケーションを持つ名高い高級時計のクラウン(竜頭)にマルタ十字のロゴが付いていることで有名です。 ヴァシュロンのオーナーの中には、ハリー・トルーマン、ナポレオン・ボナパルト、ウィンザー公およびローマ教皇ピウスXI世などがいます。 ヴァシュロンは常に精密さや細かい職人技、伝統的なエレガントなデザイン、そしてハイテク技術の進歩に尽力してきました。
18世紀のヴァシュロン・コンスタンタン
1755年9月17日、ジャン・マルク・ヴァシュロン(Jean-Marc Vacheron)がジュネーブに時計工房を開きました。彼は優れた時計職人(キャビノチェ)であり、熱心な時計学者でした。彼が最初に作ったシルバーウォッチという懐中時計は、キー巻き取り式のムーブメントが頑丈な銀のケースに入っており、精巧に作られたゴールドの針が付いたものでした。この時計のムーブメントにはジャン・マルクのサインが入っており、会社の創業者を証明する唯一のものとなっています。
1770年、ヴァシュロンは初めての複雑懐中時計を作り、1779年にはエンジン調整式ダイヤルを開発します。この発明は次第にさまざまな時計メーカーに採用されるようになりました。1785年にはジャン・マルクの息子であるアブラハムが事業の指揮をとり、10年に及んだフランス革命による危機を乗り越えます。1790年に開発された複雑時計は、美しく彫刻された文字盤に、時計以外に日付と曜日を表示する小さなダイヤルが付いており、当時はとても珍しいものでした。
19世紀のヴァシュロン・コンスタンタン
1805年にジャン・マルクが亡くなり、1810年に彼の孫であるジャック・バルテレミーが会社の後を継ぎます。ジャックはフランスとイタリアへの輸出を開始して事業の領域を拡げるとともに、王族や貴族など上流階級の顧客を獲得していきます。
1812年、ヴァシュロン社は1時間ごとと15分ごとにチャイムが鳴るクォーターリピーター時計を初めてデビューさせました。ダイヤルには「ヴァシュロン、ジュネーブ」というサインが入り、イエローゴールドのケースにエナメルダイヤル、ブルースティールの針、細かい彫刻が施された豪華な時計でした。
事業が拡大するにつれ、ジャックは一人で会社の経営を続けることが困難になり、1819年、彼は経験豊かなビジネス戦略家のフランソワ・コンスタンタン(François Constantin)を共同経営者として迎え、社名も「ヴァシュロン・コンスタンタン」となります。同年7月5日、イタリアへ出張中だったジャックの元にフランソワから手紙が届きますが、その中の一節である「最善を尽くそう、それを試みる事は常に可能である」という言葉は、現在まで同社のモットーとなっています。
同社の時計は、1811年にはフランスの貿易会社によってアメリカに輸出されていましたが、海外でのマーケティングと販売を得意としていたフランソワの手腕により、アメリカやブラジル、キューバに販路を拡げていきます。
ヴァシュロン・コンスタンタン ルショーの功績
1839年、ヴァシュロン・コンスタンタン社は、時計職人で発明家でもあったジョルジュ・アウグスト・ルショー(Georges-Auguste Leschot)を雇い、エボーシュ(未完成のムーブメント)を作るための工作機械を開発します。(1850年まで、エボーシュはバーとピラーが付いた2つの受け皿、バレル、フュージー、ラチェットホイール、インデックス、組立用のネジで構成されていました)ルショーは長年、機械を使って製造できるレバー脱進機の設計に携わっており、連続生産できるようになることが将来の目標でしたが、彼はすぐに監督者兼技術責任者となり、1842年には会社をスイス初の近代産業時計メーカーにしました。そして1845年には、自社製の脱進機やエボーシュを他の時計メーカーに販売し始めます。ルショーはまた、初めて「パンタグラフ」という装置を発明し、様々な時計部品を高い精度で複製することを可能にしました。これによって時計製造は工業化の時代に突入し、ルショーは1844年にジュネーブ芸術協会から金メダルを受賞します。
1854年にフランソワ・コンスタンタンが亡くなり、続いて1863年にはジャック・バルテレミーも亡くなります。その後は一連の継承者たちが後を継ぎ、有能な従業員たちが事業を維持し守り続けます。1862年、ヴァシュロン・コンスタンタン社は科学技術に興味を示し、非磁性材料研究協会に参加します。彼らは開花する科学界のニーズを認識しており、 磁場の近くで作業をする科学者や技師たちの研究にとって、耐磁性のある時計が不可欠ということに気づいていました。また、1872年にはジュネーブ天文台で開催された初めてのクロノメーター・コンクールに参加し、高い評価を受けます。1885年、同社は初めて耐磁性のある懐中時計を作り、1887年にはスイス国家展示会で金メダルを受賞したことを受け、株式会社に再編成されました。その後19世紀の終わりまで、同社はダブルフェイスの懐中時計や永久カレンダー付きの時計、女性のためのブレスレット型腕時計などを製作し、センセーションを巻き起こします。
1860年代終わりまで、ヴァシュロン家またはコンスタンタン家のどちらかの後継者によって会社は経営され続けましたが、1877年に社名が「バシュロン・コンスタンタン」に戻るまで、3回社名が変わりました。そして1880年からマルタ十字を会社のシンボルとして使い始め、1890年には会社のロゴとして特許を取りました。これは、より高い精度を実現するために時計に付けられた十字型の部品から着想を得たものでした。
20世紀のヴァシュロン・コンスタンタン
1901年、ヴァシュロン・コンスタンタンのムーブメント(キャリバー)が、初めてジュネーブシールの認定を受けます。ジュネーブシールとは、スイス政府及びジュネーブ州による基準に基づいた品質規定を証明するものであり、時計がジュネーブの職人によって作られ、高い品質や精度を有している証でもあります。
1906年、同社はジュネーブに初のブティックをオープンします。この頃にはルーマニアのマリア王妃やナポレオン公といったそうそうたる顧客から注文を受けるようになっていました。翌1907年には、高い精度を持ち、どんな悪天候でも機能するクロノメーター付き懐中時計「クロノメーター・ロワイヤル」を発表し、商標登録します。これは当時、コーヒーの生産で富を築いたブラジルの富豪たちの要望に応えて作られたと言われています。
そして1912年、同社初の腕時計が発表されます。フランス語で樽を意味する「トノー」という形のケースをしたイエローゴールドのモデルは男女ともに人気を博し、登場するやいなやブランドのアイデンティティの一つとなりました。この腕時計は、放射線状に広がった1から12までのアラビア数字と、外周にミニッツトラックが表示されているシルバーの文字盤が特徴です。このあと20世紀末まで、このトノー型ケースには様々なコンプリケーション(複雑機構)が搭載されていきます。
第一次世界大戦が始まると、ジュネーブにアメリカ海外派遣軍の軍備調達局が置かれました。1918年、ヴァシュロン・コンスタンタン社は同局から数千個のクロノグラフ懐中時計を受注します。要求された仕様は、ステンレスシルバー製のケース、急激な温度変化への耐性、暗闇でも視認できる夜光塗料付き針、といったものでした。この契約は1920年まで数回更新されました。
ヴァシュロン・コンスタンタン コンプリケーションへの挑戦
1900年初めには、透明の文字盤からムーブメントを見ることができるカレンダー付ミニッツリピーター懐中時計を作っていたヴァシュロン社ですが、この時計のカレンダーはまだ、うるう年の2月29日には手作業による修正が必要でした。その後同社は1929年、クロノグラフ、永久カレンダー、ミニッツリピーター、グランソネリとプチソネリを搭載した「グランドコンプリケーション懐中時計」を完成させます。これは当時の時計製造技術をすべて盛り込んだものでした。この時計はエジプト国王ファード一世に見せるために作られたもので、ケース裏には王室の紋章がエナメルで描かれ、12時の位置には曜日と日付の表示窓、9時の位置には月と年のサブダイヤル、3時の位置の30分カウンター、6時の位置にはスモールセコンド付きムーンフェイズを備えていました。その後同社はファード一世の息子であるファルーク国王のため、5年の歳月をかけてさらなる超絶級のコンプリケーション時計を開発します。1935年、この時計はジュネーブ政府から新国王への贈り物となりましたが、14種類の複雑機構が搭載され、使用された820個の部品のうち55個がジュエル軸受というものでした。
世界恐慌が同社にも影響を及ぼしてきた1936年、創業者の血筋を持つチャールズ・コンスタンタンが社長に就任しますが、同社はジャガー・ルクルト社に買収され、共同企業である工業製品商事株式会社(SAPIC)が設立されます。大恐慌中であっても品質を落とさなかった同社は、1930年代から高級時計会社としてパテック・フィリップ社と並ぶことになりました。
1940年、ジョルジュ・ケトラーがチャールズ・コンスタンタンから大部分の株式を買い取り、同社は119年に及ぶ家族経営に幕を閉じます。ケトラーはリーダーとしての手腕を発揮し、第二次世界大戦中も会社を守りました。1945年、戦争終了を記念して、ケース裏の丸い窓からトゥールビヨン・レギュレーターを見ることのできるピンクゴールドの懐中時計を発表します。周りに太陽の模様が彫られた開口部から、19ジュエル付きロジウムメッキのムーブメントを観察できるものでした。
ヴァシュロン・コンスタンタン 数々の世界記録
1955年、ヴァシュロン・コンスタンタン社は創業200周年を祝い、世界最薄の手巻きムーブメント「キャリバー1003」を生み出します。厚みが1.64mmしかないこの時計はジュネーブシールの認定を受け、超薄型ムーブメントの代表となります。そして同年7月18日にジュネーブで開催されたビッグフォーと呼ばれるサミットの際、ヴァシュロン社はスイス政府から4国の首脳(米国、イギリス、ソ連、フランス)へ贈るための腕時計を依頼されます。
1969年にジョルジュ・ケトラーが亡くなると、会社は彼の息子のジャックに引き継がれ、日本によるクォーツムーブメント革命を切り抜けます。1979年に同社は、世界で最も高価で複雑な腕時計の1つとなった「カリスタ」を発表しました。この時計の製作には職人が6000時間を費やし、さらに宝石商たちが20か月を費やして130カラットにもなる118個のエメラルドカット・ダイヤモンドをはめ込みました。当時の価格で500万ドルという驚異的な価格でしたが、現在の価値ではおよそ1100万ドルにもなっています。
1940年代から薄型ムーブメントの開発に取り組んできたヴァシュロン社ですが、1968年には超薄型の自動巻きムーブメント「キャリバー1120」の開発に成功します。厚さ2.45mmのキャリバー1120はモダンなスクエア型のケースに入った腕時計として発売され、時計専門家やコレクターたちから大反響を呼びました。さらに年月を重ねた1992年、今度は世界最薄のミニッツリピーター用ムーブメント「キャリバー1755」を誕生させます。厚さはわずか3.28mmで、限定200本のみ製作されました。
21世紀のヴァシュロン・コンスタンタン
1996年にリシュモングループがヴァシュロン社の株式をほぼ買い占め、グループの傘下に入ります。2000年代に入るとヴァシュロン社は創業から3世紀を迎え、より近代的でモダンなデザインにフォーカスしたスポーツラインや女性向けコレクションを発表します。2005年には、時計メーカーとして最長の創業250周年を祝って、5つのコレクションが発表されました。そのうちの1つである「ツール・ド・リル」は歴代モデルの中でも最も複雑な16のコンプリケーションを搭載し、ムーブメントは834個の部品で構成され、研究開発に1万時間を要したもので、限定7本のみ製作されました。もう1つのコレクションである「サン・ジェルヴェ」は永久カレンダーとトゥールビヨンが搭載され、10日間のパワーリザーブを実現しました。新型のキャリバー2250に取り付けられた4つのバレルが、パワーリザーブを250時間まで引き上げました。この時計は限定55本の製作でした。
2009年にはカリスタの後継モデルとして「カラニア」を発表し、186個のエメラルドカット・ダイヤモンドによる170カラットという数字で世界新記録を立てます。この時計にはヴァシュロン社が開発から製造まで手掛けた機械式ムーブメント「キャリバー1003」が搭載されています。
その後も同社は、今日に至るまで複雑機構と薄型ムーブメントの限界に挑むべき挑戦を続けています。2015年9月に発表されたオーダーメイドの時計「リファレンス57260」は、設計と製造に8年の歳月を費やし、最先端の技術と伝統的な手法の組み合わせによって57もの複雑機構を搭載した、史上最も複雑な時計とされています。これからも、同社の長い歴史による卓越した技術と挑戦によって、独創性あふれる魅力的な時計が誕生することでしょう。