空と共にある時計、ブライトリングの歴史

空と共にある時計、ブライトリングの歴史



はじめに

 

腕時計といえば少し前だと就職祝いにもらうなど「大人」を象徴するようなアイテムの一つです。ラグジュアリーブランドの時計の豪華さももちろん魅力的ですが、何よりも人を引き付けるのは人々の知恵とアイディアを結集させて作り上げた複雑機構にあるのかもしれません。腕時計とはこのように日々身に着けることができる機械なのです。

 

そもそも腕時計はいつごろから出てきたのでしょうか。

 

昔の人々にとって持ち歩く、いわゆる「ポータブルな時計」といえば懐中時計が主流でした。腕時計は19世紀後半から増えていったと言われています。世界初の腕時計はスイスの時計商ジャケ・ドロー&ルショーが小さめの懐中時計を革のバンドに取り付けたものを販売したのが始まりだという説があります。

 

また、当初腕時計は女性用のアクセサリーの一種のような扱いで、そこまで高い精度は求められていませんでした。

 

腕時計の発展のきっかけとなったのは戦争や軍隊の影響が大きいと言えるでしょう。当初主流だった懐中時計はいちいちポケットから取り出さなければいけないため、機敏性や迅速性に欠けていました。この取り出しの面倒は軍にとっては命取りだったため、懐中時計から腕時計への需要の変化は歴史の中の必然でした。

 

1879年にはドイツの皇帝、ヴィルヘルム1世がドイツ海軍用に腕時計を2000個作らせたという記録が残っています。また、昔の軍隊の写真でも腕時計らしきものを身に着けている兵隊の画像が残っているそうです。

 

ちなみに一般向けの腕時計を世界で初めて作ったのはオメガ(Omega)だと言われています。その後、1906年にカルティエ(Cartier)が作ったサントスが販売し、当時の男性の間では大人気となったそうです。

 

今回の記事の主役、ブライトリングは軍隊とも関係の深い時計メーカーです。


そこでここではブライトリングの長い歴史を紐解きながら、そのデザインと現在のブライトリング社の活動を見ながら会社のスピリットをお伝えしましょう。

 

 

ブライトリングの歴史


はじまり
レオン・ブライトリングが1884年に創業した時計メーカー「ブライトリング」。

スイス山脈の村、サン・ティミエでブライトリングが最初に作ったのはパイロット専用のポケットウォッチやコクピット機器などの精密計器でした。
(ちなみにサン・ティミエはタグ・ホイヤーやロンジンなど老舗時計メーカー発祥の地として有名です。)

 

ブライトリングは順調に事業を拡大し、しばらくしてからスイスの時計産業の中心地、ラ・ショード・フォンに工場を移転しました。

1914年に第一次世界大戦が勃発。その頃、父親から家業を継いだガストン・ブライトリングは1915年に30分タイマーを開発しました。これは「30分積算計」を装備した腕時計型クロノグラフでした。




空とのつながり 

1923年には世界初、クロノグラフ専用のプッシュボタンを発明し、時計業界に革新をもたらしました。

世界が目覚ましい発展をしていった時代の中でブライトリングが特に注力したのが航空機でした。そこで会社の方針として航空機専用の時計の開発を積極的に行いました。

今現在、ブライトリングがエアーショーやエアースポーツの会場で名前を見る機会があります。航空業界とのつながりはガストンが当時開発の中でパイロットたちと親交を深めたころからずっと続いているものなのです。

 

ガストンから経営を引き継いだウィリー・ブライトリングは1934年にリセット専用の第2プッシュボタンを開発しました。ブライトリングのボタンの改良と革新の末、連続した短時間計測が可能になりました。これはまさに今日のクロノグラフの形態が完成された瞬間だったと言っても過言ではないでしょう。

 

1920年代には航空用時計メーカーとしての高い評判を得ていました。
1936年にはイギリス空軍がブライトリングの時計を正式採用しました。そして第二次世界大戦も佳境に入ってきた1942年には世界初の回転計算尺付クロノグラフ、クロノマットを発表しました。その後、アメリカ軍もブライトリングと提携し、各国の軍隊や企業の公式サプライヤーとして確固たる地位を築きました。




コクピットクロックメーカーとしてのブライトリング 

1952年にブライトリングは航空用回転計算尺を搭載したクロノグラフ、ブライトリング・ナビタイマーを生み出しました。この発表を機にブライトリングは世界各国の主要航空会社のコクピット・クロックの供給を開始しました。

 

第二次世界大戦が終わり、世界の注目は地球を飛び出し、宇宙へ向くようになりました。ブライトリングはいち早くこの流れを読み、独自の開発を続けてきました。


その後ブライトリングもほかの老舗時計メーカー同様、クオーツショックの影響をもろに受け、工場の閉鎖に追い込まれました。その危機を救ったのが自身もパイロットであり、かつ時計技術に精通した電子工学エンジニア、アーネスト・シュナイダーでした。彼はウィリーからブランドをまるっと譲り受けました。そして着手したのはブライトリングが開発し、世界に誇ったクロノマットの開発でした。シュナイダーはイタリア空軍のアクロバットチーム、フィレッチェ・トリコローリのパイロットたちの協力を経て、見事クロノマットを再生させました。

 

このようにブライトリングは時代の流れの中、留まることなく革新を続けているブランドだと言えるでしょう。

 



 

クロノマットの復活

 オリジナルのクロノマットは1942年頃に発表されました。

時代は丁度航空産業が盛んになり始めた頃。ブライトリングは航空用の時計開発に力を入れ始め、世界で初めての回転計算尺を搭載したパイロット用のクロノグラフを生み出しました。この革新は時計業界に新たな風を吹き込み、新ジャンルとして航空用クロノグラフというものができました。

しばらくして、初代のクロノマットは生産終了となるのですが、その後も航空クロノグラフとしてブライトリングのデザインにそのスピリットが引き継がれ、クロノマットはブライトリングのアイデンティティとして現在まで親しまれています。

 

そんなクロノマットが再度注目されたのが1979年。

クオーツ式の時計が出始めた頃で、スイスを拠点にしていた老舗機械時計メーカーたちは大きな打撃を受けました。もちろんブライトリングもその例外ではありません。この頃会社を率いていたのは3代目のウォーリー・ブライトリングでした。ダメージを食らってしまったブライトリングの再起を図るためにウォーリーが会社を託したのが、エンジニアであると同時にパイロットでもあったシュナイダーでした。そのシュナイダーが手掛けたプロジェクトこそがクロノマットの復活でした。

彼はフレッチェ・トリコローリのオフィシャルクロノグラフを決めるコンペティションに参加しました。そのために取った手段は2つ。長年人々に愛されたクロノマットという名前の復活。そして全く新しい機械式クロノマットをゼロから開発することでした。見事成功したシュナイダーの活躍で、再び機械式時計が注目されることにとなりました。機械時計の歴史を語るうえでも、ブライトリングの功績は非常に重要な出来事でした。

 

シュナイダーは心血を注いだプロジェクトはパイロットたちの意見をふんだんに盛り込んで作り上げた品です。やがて復活したクロノマットは革新を続けるブランドのスピリットを尊重してクロノマットと呼ばれました。


 

 

ブライトリングを愛した著名人

 

スコット・カーペンター

アメリカの宇宙飛行士。

1959年にマーキュリー計画で選出されたアメリカ初の宇宙飛行士のメンバーの一人です。ブライトリング・コスモノートを着用して宇宙船オーロラ7号に乗り地球を3周しました。

 

 

チームブライトリング


ブライトリングは現在も航空関係のイベントやチームを積極的にサポートしています。

ブライトリング・ジェットチーム

ジェット機による曲芸飛行体のチーム。

民間最大規模。


 

ブライトリング・ウィングウォーカーズ

ボーイング・ステアマンという複葉機を飛行させながら、上部主翼に固定した状態でダンサー(女性)が様々なパフォーマンスを披露するアクロバット。

 

ブライトリング・レーシングチーム

最近日本でも知名度を上げているレッドブル・エアレース・ワールドシリーズに参戦しているエアレースチーム。2009年に結成。

現在パイロットを務めているのはナイジェル・ラムとフランソワ・ルボット。

また、ブライトリングはこのレッドブル・エアレース・ワールドシリーズのオフィシャルタイムキーパーでもあります。