オールドノリタケの歴史と素晴らしき作品のご紹介(ノリタケカンパニー)

   

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オールド・ノリタケの歴史について

あまり知られていない事ではありますが、実は名古屋にあるノリタケが日本貿易のルーツになるのです。

 

安政五年(1858年)に徳川幕府は鎖国を止め、世界に向けてその扉を開きました。

日米修好通称条約の締結でした。

それまでの日本は、当時の国際通貨であるメキシコドルと日本円の交換レートの比率が悪いということをあまり理解してませんでした。

それと金や銀も安く海外に流出してることも原因で日本は損をし続け、結果的に国力が弱くなってしまうというを森村市左衛門はわかっていました。

そこで、森村市左衛門は信仰のあった福沢諭吉に助言を求めています。

その時にされた助言が、安く持って行かれた金や銀、日本の資産は貿易をすることによって外貨を稼ぎ取り返すことができるということでした。

森村市左衛門をはじめ日本人はそれからアメリカへ向かい、本格的に貿易をスタートさせたのです。

それから18年後の明治9年(1876年)森村兄弟が、貿易を行いました。

森村兄弟の兄である、森村市左衛門が東京の森村組で行い、アメリカに向かった弟である森村豊がモリムラ・ブラザーズの作品をニューヨークで販売したのが貿易だったのです。

日本の貿易について研究している、「日米経済交流史研究会」で調べられた結果、ノリタケに貿易のルーツがあるとしているのです。

その理由として、当時の日本で貿易に関わった組織は、日米用達社、起立工商、扶桑、朝日貿易などがありました。しかし、いずれも途中で頓挫してしまったり、事業の失敗や解散などで貿易が継続されることがなかったからなのです。

森村兄弟が貿易で取り扱った商品は、日本の骨董品である、漆器、陶磁器、銅器、花瓶、置物、屏風、印籠、扇子、絵画、根付というように多くのものがありました。

もともとは、こういった商品を小売として販売をしていたのです。
 

しかし、明治15年(1882年)頃になると、陶磁器がアメリカで人気を得るようになってくるのです。

そして、その陶磁器が次第に森村兄弟が取り扱う貿易の、主力商品となってきました。

森村兄弟も、それらの陶磁器が今後の主力商品になると見極めたのです。

それにより、販売方法も変化してきます。

それまで一地域での小売に過ぎなかったものが、全米を対象とした卸販売に方針転換したのです。

その後、陶磁器は森村兄弟が取り扱う貿易の主力となってきました。

さらに明治17年(1884年)頃から、森村組はこのままでは将来の事業に暗雲がたちこめるのではないかと危惧します。

これまでは、骨董品問屋から商品を仕入れて、それを販売するという手法をとっていました。

ですが、それでは独創性やオリジナリティがなく、すでに作られた状態の商品でした。

だからこそ、今の状態では事業が行き詰まってしまうと不安を覚え、自分達の力での商品設計の必要性を痛感したのです。

そこで森村組は、東京や京都、名古屋などに出向き、そこで優れた技能、技術を持つ絵付け工場を視察し検討を重ねたのです。

そして選ばれたのが、東京の河原(河原徳立経営 瓢池園)、杉村(杉村作太郎経営 胡蝶園)、昇山(井口昇山経営)、藤村(藤村与兵衛経営)、足立、太田、そして京都の石田(石田佐太郎経営)、名古屋の西郷(西郷久吉経営)といった所と、専属の絵付け契約を結び商品を作らせるようになりました。

けれど、森村組が行ったのはそれだけではありませんでした。

自社製品をしっかりと守る術も整えたのです。

それが自作の意匠の保護と品質管理の推進でした。

年々陶磁器の取り扱いが増えてきた事により、瀬戸の生地を取り扱う機会も増えてきました。

そのことで名古屋を中心とした陶磁器の荷動きが活発になってくるのです。

しかし、生地の製造手配や、仕入れ、それに窯元との折衝を東京にいる状態でやり取りするのは、困難でした。そこで森村組は名古屋に支店を設けることにしたのです。

そして、こういったやり取りをすべて名古屋の支店に任せることにしました。
この頃の瀬戸の生地は、現在よりも少し薄い鼠色でした。

瀬戸の生地も絵付けと同じように専属窯制度の採用を決めたのが、明治26年(1893年)のことでした。

このときに契約したのが、加藤春光窯をはじめとした5~6軒の窯元だったのです。

他の窯元は、川本惣吉(原泉堂)、加藤五郎窯(陶玉園)、川本枡吉窯(寄陶軒)、加藤周兵衛窯(白雲堂)です。

その当時、森村組が製造していた自社製品は、純日本風の絵柄をメインとしたものでした。

伊万里や有田、清水、九谷などがそれにあたります。

さらに、それらのものに漆器や織物、染物などの技法を加えて独自の新しい製品を生み出していったのです。

けれど、日本風の商品をアメリカで売り続けていくには、売上も、販売経路も、需要も限界があったのです。

森村組は将来を見据えることで、販売を拡大していくには絵柄の改良が必要であると感じました。

そこで明治26年(1893年)に、ノリタケの創業者の一人でもある大倉孫兵衛がアメリカに渡ります。

シカゴで行われていたアメリカ大陸発見400年記念世界博覧会へ出席するためです。

そこで大倉は、会場にあるヨーロッパの陶磁器製品をしっかりと視察していったのです。

大倉孫兵衛は、この視察で日本品が生地や絵柄など、すべてにおいて海外の製品に比べるとどうしても見劣りしてしまうと、実感せざるを得ませんでした。

特にヨーロッパの製品は、美しく華やかで常に人の視線を集めるものばかりだったのです。

装飾においては、ファンシーウェアに美しく艶やかなバラ、植物、風景などの絵が施されていたのです。

※輸出用にデザインが変更されたオールドノリタケのティーセット

輸出用にデザインを変更したノリタケの作品

これらの商品の顧客は、ほとんどがアメリカ人でしたので、大倉は、これからの将来を考えるとデザインを日本風から洋風に変える必要性を感じました。

そのことを強く決意した大倉は、さっそく見本となる製品や絵具に絵筆に至るまでさまざまなものを購入して帰国するのです。

そして画工職人たちに洋風絵の必要性について説明して回ります。

しかし、職人たちは洋風絵など経験がありません。
強い反発に遭い、大倉は大変な苦難を強いられてしまうのです。

けれど、諦めず根気強く説得を重ね続けることで、ようやく洋風絵への方向転換へと成功することができたのです。

これが、オールド・ノリタケの洋風絵のスタートでした。

 

さて、次なる問題は、完成した運搬費の高騰や破損の増加などの不経済な金銭面でした。

そもそも絵付けの専属工場が東京、京都、名古屋とあちこちに分散していたため、取り扱いに不便だったのです。

そこで明治29年(1896年)に合理化を図ることを決意します。

およそ三年もの歳月をかけて、東京や京都にあった工場を名古屋の橦木町に集約することにしたのです。

ですが、この移転はスムーズに進んだわけではありません。

職人たちは、代々その場所を拠点としており、伝統的に地域との密接な関係を築いていたからです。

さらに、職人の家族たちも、未知の場所である尾張名古屋の土地に引越しをするのを渋ったのです。

これらの状況で行われた移転ですから、大変な苦労があったのです。

明治36年(1903年)これらの絵付け工場は合併をして、錦陶組を組織しました。

さらに明治38年(1905年)には、名前を真陶組に変更し、活動していたのですが、大きな組織での運営はまだ時期が早く、うまくいかなかったので、結局組織を解体することになったのです。

もとのバラバラの絵付け工場となり、活動していたのですが明治42年(1909年)再び専属契約の工場のすべてを合併させ、錦窯組として統合組織を結成、絵付けの近代化に取り込みました。

この間、母体となる森村組は洋食器の製造工場を建設しました。

 

これは明治37年(1904年)のことで、場所は現在のノリタケ本社のある愛知県愛知郡鷹場村大字則武でした。

森村組はこの場所に、ノリタケカンパニーの前進である日本陶器合名会社を設立し、創業を始めたのです。

錦窯組も大正元年(1912年)に日本陶器に吸収合併されますが、それまでは森村組と日本陶器の絵付け生産工場としての一翼を担い、活躍していました。

特にオールド・ノリタケのアールヌーヴォー調のファンシーウェアの絵付けなどは、多く存在していた絵付け工場を合併したあとの錦陶組や真陶組そして、錦窯組の手によって製作されたものだったのです。

※オールドノリタケのファンシーウェアを代表する飾り壺(宝飾品)

オールドノリタケのファンシーウェア 飾り壺、花瓶、宝飾品

オールドノリタケとは

古い時代から製造されてきたオールドノリタケのファンシーウェアですが、決して自力での製造ばかりにだけ力を注いでいたわけではありません。


新しい時代の流れを読み、人々の生活様式の変化や芸術に主義主張などさまざまなものを商品に取り入れ作ってきたのです。


この流れは大きく2つに分けることができます。


1つ目は、明治18年(1885年)頃から大正9年(1920年)頃までの、アール・ヌーヴォーをベースとした、ファンシーウェアです。
 

そして2つ目は、大正9年(1920年)頃から昭和5年(1930年)頃までの10年間のアール・デコ調ファンシーウェアです。


それでは、この2つのグループの特徴や製作におけるその背景など、商品が作られるまでの過程についてご紹介していきましょう。
 

まず、2つのグループに共通しているのが、それぞれの製品が極めてバランスのとれた形状と他の競争会社は持っていない製作技法を持っていることです。

その中でも、絵付けの技法に関しては特に特徴があります。

・オールドノリタケのアールヌーボー様式

アールヌーボー様式を取り入れたオールドノリタケの花瓶(宝飾品)

アールヌーボーのグループは、1870年代のロマン主義からの流れを受け継いでいます。

それは複雑な曲線や丸み、膨らみなどバランスのとれた形でうまく取り入れられているのです。

その中でも、大小サイズがさまざまある花生け、壺、鉢、花瓶、水差し、置物、などは、高さ、大きさなどに合った曲線や膨らみで表現されています。

そしてこれらの作品の摘み、取っ手、蓋の摘みなどもとてもバランスのとれた曲線や丸みで表現されているのです。

さらに絵付けはもちろんではありますが、多くの絵の具、高品質な金彩で仕上げられています。

織物、漆器、染物、七宝焼などの、とても難しい技法が磁器の絵付けに使われているのです。

その中には、とても人間業とは思えないものまであります。

それほど繊細で、綿密な技法で作られている作品もあるのです。

そして、デザインのモチーフもとても優れています。
 

品格においても、品質においても、上室のものばかりなのです。

これらのようなオールドノリタケの作品は、収集家や骨董の専門家たちの間でも、大変評価が高く芸術作品として賞賛されているのです。

特徴でもある、アール・ヌーヴォー調の絵付けというのは、おおまかにわけると、次のようにわけられます。

1.繰り上げ

2.金盛り

3.レリーフを施して模様上の絵付け

4.金腐らし

5.つづら織布目地の絵付け

6.色点盛り

7.エナメル盛り

8.レリーフの貼り付け盛り上げ

9.転写絵付け

というようなものなどがあります。

※オールドノリタケのき金盛の技法を使ったカップ&ソーサー

オールドノリタケの金盛の技法を使ったカプ&ソーサー

この中でも、金盛り、色点盛り、エナメル盛り、エナメル盛り、レリーフの貼り付け盛り上げのほとんどは、一陳を使っての盛り上げとなっているのです。

そしてオールド・ノリタケは、これらの絵付けの方法を単体で施しているわけではないのです。
多くの作品において、他の方法も併用して絵付けされているのです。


 

・オールドノリタケのアールデコ様式

オールドノリタケのアールデコ様式を取り入れた花瓶

第一次世界大戦のおこった(1914年~18年)から第二次世界大戦(1939年~45年)の間で、誕生した豪華で瀟洒な装飾の様式のことを、アールデコであると表現出来るのではないでしょうか。

この様式のルーツとなったのは、世界のあちこちにあるさまざまな装飾なのです。

時には、異なる装飾の様式での表現もありましたが、それらの統合体と言えるのです。

具体的に言うのであれば、当時のヨーロッパの立体派、ロシアの構成主義、ドイツのバウハウス、イタリアの未来派(抽象、ゆがみ、単純化)、そして古代エジプトの様式、アフリカの種族の様式、東洋の様式(東南アジアのサラサ様式、日本の着物様式)、ロシアバレーの色彩といったさまざまなポイントが含まれています。

こういったさまざなものをベースとして取り入れ、モチーフを作り出したのです。

そして衣服、布地、家具、金属機器、ガラス製品、陶磁器、宝石、壁紙、建物といったものに使用されています。

それらは、ヨーロッパの都市文化や風俗、習慣といった一般市民の中にまで取り入れられ、そこから色々な分野に広がっていくことになりました。

 

しかし、この時代というのは、第一次世界大戦により、肉体的にも精神的にも多くの人たちはダメージを負っていました。

そんな人たちの気持ちを救う、楽しみ、快楽、拘束からの解放、そしてそれだけでなく、風変わりで斬新、そして奇抜なものを求め続けていた時代でもあるのです。

その上、経済社会においては、大量生産時代に入っていくのです。
 

高価なものでも、安く大量に生産することができるようになってきました。
 

そのことにより、一部の上流階級の富裕層だけではなく、一般市民も手に入れることが容易くなってきたのです。


身近な地域のものだけではなく、世界各地にある遠くの珍しいものであっても、手にすることが可能となってきました。

家庭においてもモダンで楽しい生活を送ることができる、精神的に豊かな時代でもあったのです。

 

こういったアール・デコの動きは、現代美術産業博覧会がパリで開催された大正14年(1925年)に頂点となりました。

アメリカは、パリの装飾博覧会に参加していなかったのです。

そのことにより、このときの博覧会で展示されていた作品のうち、およそ400点ほどをアメリカの9つの美術館で循環展示することになりました。

これが、現代美術産業博覧会が行われた翌年の大正15年(1926年)のことでした。
 

そして、さらに次の年である昭和2年(1927年)に、この新しいモチーフによるアールデコ商品の特別展示を、アメリカの主だった百貨店で開催したのです。

こういった展示会をきっかけとして、全米においてアール・デコのブームが広がっていき、さらに世界各地にまで広がっていったのです。

 

この様式のブームが世界各地でおこったことにより、アメリカのモリムラブラザーズと日本のノリタケもいち早くこの様式を取り入れて商品化することにしました。

 

このモチーフを商品化するにあたって、当時のモリムラブラザーズの販売部長であったチャールス・カイザーは、大正8年(1919年)に、シリル・リーというイギリスのデザイナーを雇い入れます。そして、デザインの主任スタッフに任命したのです。

 

大正11年(1922年)から昭和6年(1931年)までの10年間に、デザインスタッフたちは900点もの数を超えるアール・デコ商品を作り上げていったのです。
 

この期間は、毎年船を使ってカイザーは来日をして、アール・デコ商品の製作についての指導を行っていたのです。
 

作られた作品は、食器類ではありませんでした。
食器類ではなく装飾品でさまざまな意匠を凝らしていったのです。


※オールドノリタケのアールデコ様式を取り入れた花瓶(ファンシーウェア、宝飾品)

オールドノリタケのアールデコ様式を取り入れた花瓶(宝飾品)

時には大胆で奇抜、そしてユニークなファンシーウェアでまとめています。

パリの博覧会で見た公式のモチーフをベースとして、その特徴を捉えた作品を作るだけではなく、モリムラブラザーズは、毎年少しずつ変わっていく装飾のモチーフの変化をいち早く敏感に察して、それを取り入れていったのです。
 

例えば、ある年にはロシアからパリへと出て、ファッション・イラストレーターへの道を進んだエルデのモチーフを取り入れたこともありました。

そしてまたある年には、ニューヨークのブロードウェイミュージカル「マダム・ポンパドール」のモチーフも習得します。

※エルデのイメージ図

エルデのイメージ図


※マダムポンパドールのいイメージ図

マダムポンパドールのイメージ図




そのようにさまざまな商品を作り上げていったのです。

この当時のアメリカは、大量生産時代へと突入していました。

一般家庭にも自動車は普及していましたし、工場においては機械が導入されるようになりました。

 

煌びやかに輝く金属製品に金属の家具、金属のランプスタンドや、金属の扉に、壁飾りなどが流通されるようになったのです。

ニューヨークの先端を行くアパートメントや高層建築、そして街路灯などではアールデコのモチーフも見られるようになりました。
 

特にクライスラービルディングやエンパイヤーステートビルディングなどが代表的なものと言えるでしょう。

ノリタケのアールデコ商品の特徴は、虹や真珠の貝殻の内側に見られるような美しく輝く光沢をラスター彩で、表現しているところではないでしょうか。

※オールドノリタケのラスター技法を使ったトリオ

オールドノリタケ ラスター技法を使ったカップ&ソーサーとプレート

この当時のアメリカのご婦人たちにとって、ラスター彩の輝きというのは、どのような意味を持つものだったのでしょうか。

煌びやかで美しい色彩のラスター彩の輝きは、上品さと高価さ、気高さなどを当時のアメリカ人婦人たちに感じさせていたのです。
 

ノリタケのアールデコ商品の特徴としては、明るい色彩に大胆であり、強烈で新鮮味溢れる幻想的でエキゾティックな表現をされているところです。
 

その1つ1つは、決してバラバラの印象を与えることなく、しっかりとまとまっており、的確な線画で描かれているのです。

アイテムやデザインの種類は豊富で、バラエティに富んでもいます。

ノリタケのアール・デコ商品を分析してみると、大きく6つに分類されるのです。

 

1.オールドノリタケの人物図案


※日本人をモチーフにした人物図
オールドノリタケの人物図案

この人物図案には、2種類があります。

1つは、皿のような平面のところに人物像を描いたものです。

その多くは婦人をモチーフとしていました。

2つめは、立体的なものに人物像を描いたものです。

やはりこれも、婦人をモチーフとしているものが多くあります。

平面的なところに描かれた婦人の特徴としては、髪型や服装に関しては、当時の流行を表現していました。

 

それは、短く刈り込んだヘアースタイルの若い女性がソファに横たわり、本を読みながらタバコを吸っている婦人像の皿であったり、ブロードウェイミュージカルの舞台で美しい舞踏会のドレスを身にまとっているマダム・ポンパドールを平面の皿に描いたものなどがあります。

立体的なところに描かれているのは、彼女をかたどったパウダーボックス、やはり短く刈り込んだヘアースタイルしていて、美しく着飾った若い女性が向き合いながら盥のようなものを抱えて、楽しんでいるようなボール。

そして、サーカスに出てくるような道化師の色彩鮮やかな服をまとった女性が膝を抱え込んで座っているような灰皿など、本当にさまざまな種類のデザイン品物があったのです。

※オールドノリタケの西洋の女性をモチーフにしたドレッサー

オールドノリタケの西洋の女性をモチーフにしたドレッサー

2.オールドノリタケの絵付け 花柄

オールドノリタケの絵付け 花柄のカップ&ソーサー

花柄にも、やはり平面的なものと立体的なものがありました。

幻想的でファンタジックな花柄が描かれています。

それだけではなく、日本の着物のを思わせるような花柄や蓮の花の中に浮かぶ人魚。

皿の一面に花びらを大胆に大きく描いたもの、幾何学模様と合わせた花柄など、本当にさまざまあるのです。

3.オールドノリタケの絵付け 風景

オールドノリタケの絵付け 風景の花瓶

風景絵もさまざまなものが描かれているのです。

夕日に照らされた池のほとりに、ボートが浮かんでいて遠くには小さな洋風の家が見受けられるもの。

夕涼みのうちわを手に、日本の伝統的家屋の庭先で佇む若い女性の姿を描いた風景。

チャイナチックな雰囲気を醸し出す寺院や、庭の風景などを遠近法を巧みに利用して描いた風景などがあるのです。

4.オールドノリタケの技法 動物

オールドノリタケの技法 動物

デザインの中には、動物を描いているものも数多くあります。

その動物柄にも平面に書かれたものと、立体的なところに書かれたものがあるのです。

モチーフとしてよく書かれていたのは、熱帯の動物が多いようです。

熱帯のモチーフというのは、アール・デコの中でももっとも重要なテーマでもありました。

鳥類で挙げるのであれば、インコ・オウム・孔雀・アヒル・大嘴・極楽鳥・ふくろうやカナリアなどが、まるでそのままの色を写し取ったかのような美しく鮮やかな色彩で描かれています。

そのほかにも、猫や犬、象、リス、蛙、狐に魚や蝶などが描かれたり象どったりもされているのです。

5.オールドノリタケの絵付け野菜・果物

オールドノリタケ ラスター彩のフルーツセット

野菜や果物なども多く描かれています。

種類も本当に多種多様に描かれているのです。

レタス・トマト・レモン・アスパラガス・栗・くるみ・オレンジ・りんご・ぶどう・蕪・セロリーなどがそれです。

6.オールドノリタケの絵付け幾何学模様

オールドノリタケの絵付け幾何学模様の花瓶

幾何学模様のデザインに関しては、描かれている数や種類が大変少なく、現在では大変貴重なものとされています。

その模様は、当時の立体派の様式や、バウハウスのアール・デコ様式のものが豊かで鮮やかな色彩で幻想的、抽象的に表現されているのです。

これらのアール・デコ商品が作られていたのは、大正2年(1922年)から昭和6年(1931年)までの10年の間だけです。しかし、昭和4年(1929年)の秋に事件が起こります。

それが、ニューヨークのウォール街で起きた株価の大暴落による株式取引所の破綻に端を発する世界大恐慌と世界を取り巻いた、険悪な政治とそれによる経済の異変です。

これにより、昭和6年(1931年)で製造をやめなくてはいけなくなってしまったのです。

企画をし、毎年のように来日していたチャールズ・カイザーが日本を訪れたのも、この年が最後となっています。

「NIPPON」と原産地名を表記した裏印

オールドノリタケの「NIPPON」と原産地名を表記した裏印、マーク、刻印、サイン

日本が貿易を始めた明治時代初期。

陶磁器はもちろん、どの製品においても輸出する商品には原産地名が何も表示されていませんでした。

そんな中で、陶磁器など何も表記がないということから、一部の名前や工場名なども漢字で表記がされていたのです。

それは一部の絵付け商品にでしたが、制作した人物の名前であったり、工場経営者の名前であったり、ときには記事製造業者の名前であったりしました。
 

例えば、東京の絵付工場の河原は「瓢池園」、杉村は「杉村」もしくは「胡蝶園」、井口昇山は「昇山」、藤村工場は「藤村」、京都の石田工場は「石田」、名古屋の西郷は「西郷」、瀬戸の窯元加藤春光は「春光」というように表記していたのです。
 

しかし、このような表記のままでは輸出先であるアメリカでは、どこで作られた商品なのかというのが、ハッキリしなかったのです。

そこで1890年(明治22年)に、アメリカは関税法を制定します。

その関税法により、すべての商品をアメリカに輸出する場合は、その原産地名を必ず表記するようにとしたのです。原産地名の表記がないものと、一切アメリカに入れることができないとなってしまいました。

これは1891年(明治23年)の3月1日のことでした。

そのとき、日本ではなぜか「JAPAN」ではなく「NIPPON」と表記することを決められ、輸出業者が使用することになりました。
 

この「NIPPON」の表記と決めた人は、定かではないようです。
 

アメリカの関税法第1244条第6項には、「原産地名をハッキリと、もっとも読みやすい英語で表示するようにそうでないものは、輸入を許可しない」と記されています。

「NIPPON」というこの表示は、現在では世界のあちこちで使用されていますので、違和感も少なくなったきました。
 

しかし、正確な英語というわけではありません。

ですが、この「NIPPON」という表示について、誰も気づくこと長い間、日本とアメリカの間を「NIPPON」表記の商品が行き来していたのです。
 

けれど、「NIPPON」と表記してから27年後の1918年(大正7年)に「原産地名としてNIPPONは正しい英語ではない」と指摘されてしまいます。

そのことにより、米国商務省から「NIPPON」ではなく「JAPAN」表記とするように通達を受けてしまいます。この通達が全体に浸透するまでに、3年もの月日が必要でした。
 

結局、明治24年(1891年)から大正10年(1921年)までの30年間もの間、「NIPPON」の表記が使われていたのです。

この原産地名「NIPPON」という表記は、あらゆる商品において使用されていました。

しかし、「NIPPON」表記が使われていた30年間の間で、もっとも多く使われていた製品をあげるのであれば、生糸、綿織物、緑茶、木材、マッチ、屑糸や真綿、陶磁器、セメント、精糖、水産物などです。

ですが、表示として残されていたのは陶磁器製品のみで、他の物は、原産地名が残されていないと考えられているのです。

森村組が使っていたメープルリーフ(楓の葉模様)を含めると、おおよそ10数種類のオールド・ノリタケ商品で原産地名「NIPPON」を表示したノリタケ裏印があります。
 

これらの裏印がついた、オールド・ノリタケは特にバランスがよく、繊細かつ優美な絵付け技法がされていて、品格も高いのです。

そのことにより、アメリカやヨーロッパ、そして日本のコレクターたちや、骨董品専門家など多くの人たちから、完成度の高い芸術品として高い評価を得ているのです。



 

 

オールドノリタケの素晴らしき作品のご紹介

 


 

・オールドノリタケ 湖畔の絵が描かれた大型花瓶

ノリタケの湖畔の風景が描かれた大型の花瓶です。

陶磁器製で、白い蓋が付いています。
側面は白鳥と湖畔の風景が描かれていてとても美しいです。
金めっきをされた果物と蔓が湖畔の絵の周りを縁取っています。
果物はピンクと青色です。

状態はとても良く、切屑、亀裂、ひび割れなどは修復されています。

サイズ

高さ  35.5cm

重さ  約2kg

オールドノリタケのジュエルを盛り付けた花瓶(ファンシーウェア)

 

オールドノリタケのアールヌーボー様式の花瓶

 

 

 

・オールドノリタケ製の美しい盛り上げ花瓶

この花瓶は切り粉や亀裂、修理などをしていない素晴らしい状態です。

背面にも表面にも、美しい手書きの模様描かれています。

花瓶の底面には青いメープルの葉と、オールド・ノリタケ製であることを示す印が入っています。

高さ

約26cm
 

オールドノリタケの盛上技法を使った花瓶
オールドノリタケの盛上技法を使った花瓶

 

 

・オールドノリタケ一陳盛上片手花瓶

オールド・ノリタケ製の、赤と黄色のバラの装飾をたくさん施した、美しい片手花瓶です。

欠けやひび割れなどの修理はなく、品質の状態は抜群です。

花瓶の底面には青いメープルの葉と、オールド・ノリタケ製であることを示す印が入っています。

高さ

約25cm
 

 

 

オールドノリタケの一陳盛上技法を使った水差し

 

オールドノリタケの一陳盛上技法を使った水差し

 

・ノリタケのクレストウッドコバルトプラチナ食器12個セット

新しく製造された食器セットです。

食器洗い機でも洗うことができます。

12個のそれぞれの詳細
ディナープレート

27cm

サラダプレート

21cm

パン&バタープレート

16cm

ソーサー

15cm

カップ

8.5cm

このノリタケのクレストウッド・コバルト・プラチナ製の食器は、

白い陶器をプラチナバンドで縁取ることで上品さを演出しています。

プラチナ製の白い磁器製のものです。

・ノリタケのクレストウッドコバルトプラチナ食器12個セット

 

 

・オールドノリタケのラスター彩のティーセット

美しい21ピースのラスターの技法を使ったノリタケのティーセットです。

取っ手の部分は、贅沢に金を施してあり、側面の部分は青色で、花の模様が描かれています。

それぞれの大きさ

ケーキプレート 直径 24cm

ミルクジャグ  高さ 10cm

シュガーボウル 高さ 7cm

直径 13cmです。

各カップ    高さ5cm、幅9cmで立っています。 それぞれのソーサーは幅13.5cmで、各プレートの幅は16cmです。

すべての食器の状態はとても良いです。

損傷や修理はありません。

・オールドノリタケのラスター彩のティーセット
・オールドノリタケのラスター彩のティーセット

 

・オールドノリタケ:アールデコ調のティーセット

ノリタケのアール・デコ調の六人用ティーセットです。

陶磁器製です。

日本のノリタケ工場で作られた、6人分の素晴らしいティーセットです。

15ピースになっています。

このセットには、コーヒー・紅茶用のカップ、シュガーポット、ミルク瓶、ソーサーが含まれています。

陶磁器の部分は、クリーム色に近い白色で、金色の模様が装飾されています。

ボーダーとハンドルはすべて金色で装飾されています。

ノリタケの製品であることを示す、緑色のマルキ印のマークが食器の裏側に施されています。

全ての商品に欠けや損傷はなく、良好な状態です。

ハンドルの金色は、磨いた跡が少しあります。

重量    約1.8kg。

それぞれの食器の大きさ

コーヒーポット 16cm

シュガーポット 14cm

ミルクポット   13cm

カップの高さ   6cm

直径                    8.5cm

ソーサー   13cm

オールドノリタケ:アールデコ調のカップ&ソーサー

 

オールドノリタケ:アールデコ調のティーセット

 

・オールドノリタケのアールデコ調、デコレディの装飾楊枝入れ

底面の部分(楊枝入れの部分)の外側は太い黒のラインでふちどりされており、鮮やかなオレンジ色をしています。

楊枝を入れる部分の内側は白色です。

婦人の服はピンクの短い袖の服で、薄い黒のラインがアクセントになっています。

白い手に持っている扇子は、薄い青色の背景と、中心部分に描かれた星の模様が特徴的です。

星の周りにも黒い点が点在しています。

容器の底には、ノリタケ製であることを示す、緑色のマークが描かれています。

この楊枝入れの状態は良い状態です。

色は鮮明で、色移りもしていません。

この楊枝入れには二つ小さな損傷があります。

オールドノリタケの楊枝入れ デコレディ

 

オールドノリタケの楊枝入れ デコレディのマーク、刻印、裏印

 

・オールドノリタケ、アール・デコ調の陶磁器製コーヒーサービス

ノリタケの工場で作られた、素晴らしいコーヒーサービスセットです。

このコーヒーサービスには、コーヒーポットと、ミルクピッチャー、蓋付きのシュガーポットの3点セットです。

この三つの食器は全て両面に手塗りの花が描かれており、さらに金色で装飾されています。

食器は1930-40年代のもので、底面にノリタケ製であることを示す青色のマークが描かれています。

コーヒーポットの高さ 17.5cm

ミルク瓶の高さ    12.5cm

シュガーポットの高さ   15cm

コーヒーポットとシュガーポットには損傷がない良好な状態です。

ミルク瓶も、金色で装飾された取っ手部分にいくつかの小さな損傷があること除いて良好な状態です。

オールドノリタケ製の金装飾ガレ風景の花瓶

 

オールドノリタケ製の金装飾ガレ風景の花瓶

 

・オールドノリタケ製の金装飾ガレ風景の花瓶

手描きで美しい川の風景が描かれている、金メッキが施されたジュエリー花瓶です。
ノリタケが1930年代に製作した作品です。
コレクターの間ではフランスのガラス工芸家のエミールガレの風景図の作品に
似ている事からガレ風とも言われています。

側面にも、細かく美しい絵が描かれていることがこの作品の特徴です。
花瓶の底にはノリタケ製であることを示す、緑色のマークが施されています。

取っ手の部分や花瓶の端の部分にはしっかりと金色の装飾が施されています。
状態は欠けやひび割れなどがなく、品質はとても良い状態です。

高さ  約22cm


・オールドノリタケ製の金装飾ガレ風景のの花瓶

 ・オールドノリタケ製の金装飾ガレ風景のの花瓶

・オールドノリタケ製金彩とコバルトの食器セット

オールドノリタケの高品質の食器セットです。
黒と金色の装飾が施されています。


このセットの内容は、

カップ&ソーサー   5セット
シュガーポット
ミルクピッチャー
エスプレッソポット(蓋つき)
トレイ

の14点です。

それぞれのサイズ

トレイの直径     40cm
高さ          3cm ト
レイには2つの小さなオープンハンドルが付いています。

エスプレッソポット  18cm
シュガーポット     9cm
ミルクピッチャー    9cm
ソーサ―の直径     12cm
カップの高さ     5、5cm
直径 4cm

となっております。

状態は欠けや割れ、ひびなどはなく、非常に良い状態です。
食器の状態がとても良いので、装飾の模様のしっかりと残っています。
それぞれの食器にノリタケ製であることを示す緑色のマルキ印のマークが印字されています。
オールドノリタケ製金彩とコバルトの食器セット

 

オールドノリタケ製金彩とコバルトの食器セット

  

・オールドノリタケ製:白鳥の絵が描かれた飾り皿のセット

この白鳥が描かれた飾り皿と柄杓のセットには、葦が生えている沼地の上を白鳥が飛んでいる絵が描かれています。

重厚な金とエナメルを使った装飾が施されており、食器の高級感を際立たせています。 淡い青色と、金の装飾がとても美しい作品です。       

この飾り皿と柄杓には、両方ともひびや割れ、欠け、修復した後がなく、品質がとても素晴らしい状態です。

飾り皿にはは3本の足が付いています。


サイズ
飾り皿の直径  40cm


飾り皿と柄杓の底面部には、ノリタケ製であることを示す、緑色のマークが施されています。 

オールドノリタケ 飾り皿と柄杓のセット