明治時代におけるオールドノリタケの歴史と日本の陶磁器の歴史
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明治時代におけるオールド・ノリタケの前史
陶磁器というのは明治時代以降、日本を代表する輸出の製品となりました。
そもそも明治時代の終わり頃から、戦前にかけての時代に、名古屋の日本陶器(現 ノリタケカンパニーリミテド)で作られたやきものを総称がオールドノリタケなのです。
オールド・ノリタケの流れのスタートは明治時代の初期からでした。
日本における輸出陶磁器の歴史は、そのままオールドノリタケの歴史とも言えるのです。
そこで、明治時代の輸出陶磁器の概要、名古屋の状況などを含めてオールドノリタケについて新しい視点からアプローチしていきたいと思います。
日本の陶磁器輸出の歴史
江戸の時代、日本は鎖国政策を取っていましたので、その港は限定された場所しか開かれていませんでした。
しかし、江戸時代の末期である安政5年(1858年)、日米修好通商条約が締結されます。
それによって、本格的に日本の製品の輸出がスタートしていくのです。
これ以降アメリカだけではなく、他の国とも通商条約が締結され、貿易のための港が開かれていきました。
開かれたのは、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)、新潟、兵庫(神戸)です。
海外との貿易をするための整備が一気に整って来たのです。
当時の日本は、生糸、蚕種、茶が主な輸出製品でした。
しかし、少しずつ日本の工芸品も輸出商品の舞台に上がってくるのです。
日本の工芸品が輸出商品に参入したきっかけになったのは、海外で開催されていた万国博覧会で紹介されたからです。
最初に紹介されたのは、文久2年(1862年)に開催されたロンドン博覧会でした。
そのとき、イギリスの駐日公使オールコックが収集していたおよそ900点にもおよぶ漆器・陶磁器等が展示されたのです。
これは、極東の謎めいた国、日本という場所の工芸品が、博覧会という世界的に公式な場所で初めて大量に披露された瞬間でした。
その事により博覧会を訪れた多くの人は、日本の工芸品に魅了され、西洋でジャポニズムを流行させるきっかけとなったのです。
さらに、慶応3年(1867年)にパリで開催された万国博覧会では、江戸幕府だけではなく、薩摩や佐賀藩が多くの陶磁器を出品しました。
その中でも、薩摩の金襴手は「SATSUMA」として大変な人気となり、数多く注文されるようになってくるのです。
幕末になる頃には、このような博覧会に参加することにより、日本の工芸、陶芸品は世界で高く評価されるようになっていたのです。
さらに明治に入ると、明治政府は日本の国力強化に力を注いでいきました。
富国強兵や殖産興業政策を推し進めていくのです。
その中でも、陶磁器などの工芸品は、これまでよりさらに殖産興業・輸出振興という形で大変大きな役割をになっていくことになったのです。
明治政府は、これまで同様に博覧会への積極的な参加を推進していきました。
そのことにより、日本の輸出産品のアピールをすることが目的の1つでもありました。
しかし、それだけではなく西洋の技術を学び、西洋物産の研究や調査をし、輸出品の向上を求めていったのです。
そして、その目的は、明治6年(1873年)のウィーンで開催された万国博覧会、明治9年に開催されたフィラデルフィアでの万国博覧会、明治11年に開催されたパリの万国博覧会で大成功を収めたことにより達成されました。
これらの万国博覧会への参加により、日本の産品は大量に欧米諸国へと輸出されるようになってくるのです。
その中でも、陶磁器に関しては、特に需要が高く、日本の輸出産品の中でも中心と担うものとして、作られていきました。
日本の窯業者たちも、国内で販売するものよりも、輸出用の陶磁器を製作することのほうに、より力を注いでいくようになるのです。
いくつかの産地では、輸出の割合が急激に増加してしまったところもありました。
なんと全産高の7~8割が輸出用の産品という高い比率になってしまったのです。
輸出が発展していくと、自然と陶磁器の生産技術に関しても進展していったのです。
しかし、だからと言って日本の窯業技術は決して欧米のそれと比べても、劣っているというわけではありませんでした。
ですから、日本がその当時遅れていた化学技術や工業技術に関する最新の技術を、西洋にある最新技術を積極的に取り入れていくという取り組みがされていったのです。
実にたくさんの西洋技術が日本にもたらされました。
それは、博覧会へ多くの参加がきっかけとなったのです。
慶応3年(1867年)に開催されたパリの万国博覧会へ、参加をしたときには、瑞穂屋卯三郎の力によって、酸化コバルトを。
ウィーンで開催された万国博覧会に参加したときには、納富介次郎たちの力で各種釉薬、水金等の顔料や石膏型成形法などが日本に伝えられることになるのです。
このような出来事により、これまで日本にあった技術と、西洋からもたらされた技術とが、うまい具合に融合し、より高度なものに、そしてより欧米の好みの陶磁器生産ができるようになってきました。
森村組の設立
幕末から明治時代初期にかけて、時代の流れは急激に変化してきました。
その流れの変化を敏感に察知し、海外との貿易を積極的に行って来たのが、森村組の創始者である6代目森村市左衛門(幼名市太郎)だったのです。
天保10年(1839年)に江戸で生まれた市左衛門は、家業の袋物商などを継いでいました。
しかし、横浜港が開港したことにより、唐物を外国人から購入し、それを江戸の町で販売するという商売をはじめました。
そして、あの福沢諭吉と出会うのです。
その諭吉から勧められ、海外と直接取引することを目指して動いて行くのです。
そして明治9年(1876年)、ついに森村市左衛門と弟の豊は、直輸出を目的としている森村組を東京の銀座四丁目に創立することになったのです。
さらに同年、豊はニューヨークの街へと渡米していきます。
フロントストリートに小さな雑貨商をオープンするためでした。
日本においては、市左衛門の義弟である大倉孫兵衛が日本国内を渡り歩き、西洋人が好きそうな骨董品、陶磁器等、日本の雑貨を仕入れることに奔走するのです。
そしてそれらの雑貨をニューヨークへと送っていました。
ちょうどこの頃、フィラデルフィアにおいて、万国博覧会がアメリカで開催されていたのです。
日本への興味というものが、アメリカで湧き上がってくる途中の出来事でした。
そのこともあり、事業は軌道に乗ってくるのです。
そして、明治11年(1878年)に、ニューヨークの六番街に「モリムラ・ブラザーズ」が設立されました。
これにより、森村組の海外拠点が確立したのです。
始めの頃は、日本の雑貨や骨董品等、たくさんの商品を取り扱っていました。
しかし、徐々に陶磁器がメインへとなってきます。
そのことにより、陶磁器産地との関係が深くなってきたのです。
上絵付業の成立
数多くの陶磁器産地で明治時代の初期、輸出のことを1番に考えた陶磁器が生産されていくことになるのです。
これらの陶磁器が、森村組の主力商品となっていきます。
その中でも特に森村組との関係が深いものについて、ご紹介していきましょう。
1.東京銀窯・瓢池園
輸出陶磁器の増加により、成立していったものがありました。
それが、素地を産地から買い入れて、それに絵付を施すという手法です。
このような上絵付業が盛んになっていきました。
そのさきがけとなったのは、ウィーンの万国博覧会が開催された明治5年(1872年)に、博覧会に出品するために政府が特設した博覧会事務局附属磁器製造所(東京銀窯)でした。
製造所では、服部杏圃が製造教師に迎えられます。
岸雪圃・松本芳延・蘇我徳丸・泉音三郎・不破素堂等の画家により、瀬戸や有田産の素地に上絵付けがされていきました。
それらのものは、博覧会出品用の作品として制作されていったのです。
これが「陶画」の確立となりました。
そして博覧会が終了すると、この製造所は閉鎖されてしまいます。
しかし、製造所の御用掛だった河原徳立がこの製造所を受け継いでいくことになります。
これが瓢池園の設立となってのです。
この瓢池園では陶磁器が、どれほど絵画に近づくことができるのかということを、追求していきました。
それに伴い、たくさんの優秀な美術的装飾品が作られていくことになったのです。
そのことにより、東京絵付けが有名なものになっていきました。
このような写実的表現が可能となったのは、西洋絵具を導入していったからです。
西洋絵具により、発色が安定するようになります。
色彩はこれまでよりも鮮やかとなり、数多くの色遣いができるようになりました。
それにより、絵画的で色彩豊かな作品が数多く作られていくようになったのです。
この瓢池園は、その後、森村組の専属工場となって名古屋へと移転していくことになります。
名古屋絵付
フランス人某が明治5年(1872年)に東京築地のアーレンス社支配人ウィンクレルを連れて名古屋の伝馬町の飯田重兵衛の店を訪れました。
このときに、はじめてコバルトがもたらされたのです。
そして骨董類や陶器をいくつか購入しています。
これが名古屋での陶磁器貿易のスタートであると言われているのです。
名古屋は瀬戸・美濃といった日本を代表するような陶磁器産地を背後に抱えています。
その土地の利を利用して、明治7年(1874年)には、瀧藤萬次郎が長者町に、明治9年(1976年)には松村九助が和泉町に陶磁器貿易の店を設立したのです。
さらに明治11年(1878年)には、平子徳右衛門・松村九助が開洋社を設立しました。
このように明治時代初期には、陶磁器輸出商社(問屋)が名古屋で多く設立していったのです。
この当時、これらの会社では明治9年にフィラデルフィアで開催された万国博覧会に、飯田重兵衛がおよそ500点もの瀬戸の陶磁器を出品し、ているのです。
それにわかるとおり、この頃は瀬戸の陶磁器をメインに仕入れ、輸出されていたのです。
当然ではありますが、このときの主力商品は染付磁器でした。
しかし同じ頃に名古屋で主力となっていた工芸品である陶磁器胎の七宝も同様に主力商品であったのです。
けれど明治12年(1879年)頃になると、それまでの染付磁器や陶磁器胎七宝ではなく、それよりも輸出用にされた陶磁器として薩摩や九谷等が代表とされる金襴彩色画の陶磁器のほうが需要があるということが判明してきました。
例えば、七宝の輸出進展のためにとして作られた「七宝会社」では、その業務が拡大されたのです。
そして上絵付部門である金襴組というものが設置されていったのです。
このように、上絵付陶磁器の生産や販売も取り扱うようになっていきました。
結果的に、上絵付まで自分たちの力で行っていくようになったのです。
明治13年(1880年)に松村九助は、名古屋で最初の上絵付工場を堅杉ノ木町に設立しました。
そしてこの年、瀧藤萬次郎は店の一部に絵付窯を設けるのです。
その場所で、赤絵物を生産するようになりました。
そして絵付加工販売にまで業務を拡大しているのです。
さらに、明治16年(1883年)に瀧藤萬次郎は名古屋に上絵付工場を設立します。
これは海外貿易が本格化していることに影響しているのです。
ここでは、瀬戸産などの素地に九谷風の絵付をした上絵付製品を制作しながら、陶画工の養成にも努めていきました。これが名古屋絵付のもとを切り開くきっかけとなっていったのです。
これ以降、多くの上絵付工場が瀬戸・美濃の交通の便がいい名古屋の北部を中心とした場所に多く設立されるようになりました。
こうして名古屋での上絵付が確立されていったのです。
その一方で新しい輸出商社が作られ、進出していきもしているのです。
このように、名古屋が日本の陶磁器輸出の核としてその役割を果たしていきました。
瀬戸
日本を代表する陶器の産地と言えば、瀬戸ではないでしょうか。
しかし、19世紀の初頭に磁器の焼造に成功したことから、それ以降は磁器生成がメインとなっていくのです。
特に染付製品を中心とした生産が行われていきました。
輸出に関して言えば、安政5年(1858年)に、三井組が加藤兼助に舶来見本を預け、その製造をさせているのです。
これより後、瀬戸では輸出品製造がメインとなってくるのです。
この頃を代表する窯屋として挙げられるのが、北新谷地区では川本枡吉・加藤杢左衛門・加藤善治等、南新谷地区では加藤五助・加藤周兵衛等、郷地区では川本半助・加藤紋右衛門等です。
名実ともに日本一の産地へとなっていきました。
しかし、その一方、名古屋や横浜といった場所で七宝の生地として瀬戸産の生地に上絵付を施すというような関係も築いていきました。
新たな産地問提携がされていったのです。
日本陶器の設立
森村組の事業は、明治10年代の後半から20年代にかけて拡大していきました。
事業のメインとなっていたのは、陶磁器の輸出です。
それに伴い、名古屋・瀬戸を中心とする仕事が自然と増えていく結果となりました。
さらに、東海道本線が明治22年(1889年)に全線開通したことで交通の利便性もあがりました。
それにより、明治23年(1890年)には、名古屋に出張所を開設するのです。
明治25年(1892年)になると鍛冶屋町に名古屋支店を開設しています。
これらのことが、森村組の名古屋における大きな第一歩となったのです。
始めの頃、森村組は商品を仕入れて、販売するという形の商社でした。
しかしだんだんと、自らで商品開発を試みるようになりました。
それは、西洋人の嗜好を理解し、それに合った陶磁器を作る必要性を感じたからです。
けれど、森村組には陶磁器を生産するための工場や技術を持ってはいませんでした。
ですから、複数の窯屋や上絵付工場と専属契約を結ぶことにしたのです。
これは「手窯」と呼ぶシステムです。
専属契約を交わした工場は、基礎供給においては瀬戸の加藤春光・川本惣吉等、上絵付なら東京の河原徳立(瓢池園)工場・杉村作太郎(胡蝶園)工場等、京都の石田佐太郎工場、名古屋の西郷久吉工場などがありました。
そして大倉孫兵衛が明治26年(1893年)にシカゴの万国博覧会を視察します。
このときに大倉は日本の陶磁器が西洋に比べて技術的に劣ることを痛感しました。
それは、素地だけではなくデザインに至ってもだったのです。
そこで大倉は帰国後、これまで主流だった純日本風のデザインを取りやめるようにしたのです。
そして、洋風デザインへとシフトチェンジしていくことにしました。
そのため、専属の絵付工場に見本、絵具、絵筆などを見せて、その試作をさせたのです。
最初に取り掛かったのは、そのデザインの見直しでした。
さらに明治29年(1896年)には、将来瀬戸産の陶磁器が輸出陶磁器のメインとなっていくことを察し、工場をすべて名古屋に集中させたのです。
その改革は3年がかりという長い時間がかかりました。
なぜなら、工場は東京・京都・名古屋というようにバラバラの場所に多くあったからです。
しかし、このことにより、それまで違う場所でそれぞれ行っていたことや多彩な画風が集まり、制作が同じ場所でされるようになり、技術交流がされていったのです。
これにより、森村組の事業はその中心を名古屋へと移していきました。
さらに森村組は原料の研究にも力を注ぎました。
飛鳥井幸太郎を招いた明治29年(1896年)から、白色磁器の研究をスタートさせています。
さらに製品の統一と品質管理は製土から吟味する必要性を感じていました。
そのため、大倉孫兵衛が明治34年(1901年)に出資をして、瀬戸の川本惣吉・加藤紋右衛門・加藤春光・加藤五助・加藤周兵衛・高島徳松が匿名組合組織の原料貯蔵所を名古屋に設立しました。
その操業がスタートしたのは明治36年(1903年)のことでした。
これにより、従来行われていた各窯屋それぞれの旧式水簸法が取りやめにとなりました。
代わりにドイツ式水簸法による共同の製土を飛鳥井指導のもと行っていくようになったのです。
完成した坏土は森村組と取引のある窯屋に配給されていました。
このように森村組では、原料の精製や絵付の改良をおこなってきました。
目指していたのは海外でも通用するやきものでした。
森村組は、そんなやきものの生産に深く携わるようになっていったのです。
そして愛知郡鷹場村大字則武に明治37年(1904年)、輸出陶磁器を生産する日本陶器合名会社が設立されました。
最後に
陶磁器産業というのは明治時代に輸出に多大なる貢献をした、花形の産業でした。
西洋好みの作品が多く生成されたのには、このように輸出をより進展させたいという理由があったのです。
そしてそれらの作品は、欧米で高い評価を得ることにもなりました。
それもあり、その生産は強く背中を押されるような形となったのです。
このような状況で、森村組は陶磁器を中心とした日本の産品を海外へと売り込んでいきました。
さらにその品質を向上させていくという指導的な立場にもあったのです。
森村組は、明治時代の陶磁器産業が発展するとともに、自らも発展していきました。
そしてこの時代に、培った技術や経験をもとに、オールド・ノリタケとして、そして戦後の日本陶器株式会社のベースとなっていったのです。