肥前磁器(日本磁器)江戸時代の古伊万里と有田焼の関係について
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目次はこのようになっております。
1、なんで伊真里焼きって言われてたの?
2、日本が磁器を作れるようになった簡単な歴史
3、有田焼と鍋島藩窯の違い
4、中国を抜いてヨーロッパに影響を与えた日本磁器
5、『初期伊真里』と『伊真里』の違い
6、磁器を作るときの技法の概要を知ろう
6−1 染付について
6ー2 青磁について
6ー3 色絵について
6ー4 古九谷と九谷について
1、なんで伊真里焼きって言われてたの?
まずですね、ヨーロッパでの『伊万里』ってなんでこの名前が付けられたのかということについてお話をしていきます。
本来であれば、『有田』でもいいはずじゃないですか。
時は遡ること江戸時代の話になります。
今私たちが住んでいるのは福岡県とか、東京都とか、北海道とかなんですけども、これは廃藩置県があったから都道府県になっているんですね。
ではその前というのは藩だったわけですよ。
江戸時代はもちろん、藩だったんですね。
この時の舞台ってのが佐賀になるんですけども、そこに肥前国という藩があったんですよ。
今こちに写ってるんですが、長崎と佐賀を合体したくらいの大きさの所が肥前だったわけなんですけども、この肥前の中で有田焼がありましたし、そこに志田窯があったし、筒江窯があったし、長崎の方には波佐見窯があったし、ということで、肥前の中にはいろんな強い窯があったんですね。
そして、それらの所で作られた商品というのは、担夫(荷物を持って運ぶ男の人)とか、牛馬とかを使って伊万里港に集められていたわけですよ。
そして、伊万里港から日本各地に送られたりとか、伊万里港からヨーロッパに向けて送られたりとか、そういった感じだったんですね。
だから伊万里焼っていう名前ってのは、結局肥前で作られたものを伊万里焼というふうに言っているわけなんですよ。
そして、伊真里港から来てるからヨーロッパの人々は『伊真里』って言ってたんですね。
これは江戸時代の話ですね。
もちろん、今は伊万里市で作られている物を伊万里焼と言いますし、有田市で作られている物を有田焼と言いますよ。
そして、1610年に有田で磁器焼造が開始されるんですけども、元々日本は磁器は作れなかったんですよ。
陶器ってのがあるんですが、陶器と磁器は違うんですよね。
陶器ってのは、簡単にいうと茶色系のぼってりしたやつで、磁器ってのは真っ白の普段私たちが使ってる食器だと考えてください。
詳細な違いについては、こちらの『陶磁器って何?『陶器』と『磁器』と『ボーンチャイナ』の違いと貫入について理解しよう!』
と
陶器美しさの基準はこちらの『備前焼の歴史と魅力』で解説しておりますので、お時間のある際にご覧ください。
2、日本が磁器を作れるようになった簡単な歴史
陶器はすでに作ることはできたのですが、真っ白の磁器を作れずに中国からの輸入に頼っていたわけですよね。
そんな時に、豊臣秀吉が自国でも作りたいなぁって考えて、朝鮮出兵の帰りに、朝鮮から李参平って人を引き連れてきて、この人から教えてもらって作れるようになったんですね。
そして、李参平が来た土地というのが有田だったという話なんですね。
このことについては、『泉山磁石場と李三平と陶山神社に行ってきたよ!』の動画で詳しく解説しておりますので、詳しく知りたい方はこちらの動画をご覧ください。
そして、日本で作るようになりましたよ!
というところから話を進めていくんですけども、次が1637年に窯場の整理・統合が始まってくるんですね。
さっきも言った通り、有田には良い土が取れることによって良い磁器を作れるということで、いろんなちっちゃな窯が点在していたんですね。
そんな時に、この窯で使う薪っていうのは、森の木を切って、それを切って薪にするということじゃないですか。
そしたら、ちっちゃい窯の人達がどんどんどんどん森を切ることによって、「あれ?ここに山あったのにもう無くなってるじゃん!」という状況になったんですね。
そのときに、肥前を治めていた鍋島藩のお偉い人が、ちょっとそういう事やめましょうか。
ということで、ちっちゃい窯をどんどんどんどん合体させて、有数の何個かの大きい窯を完成させたんですね。
そして、それは長崎の波佐見の方でもどんどんどんどん大きくして、波佐見窯というのが完成したわけなんですよ。
そうすることによって、この肥前っていう地域には有数の強力な窯が完成していってくということなんですね。
そして次、1640年なんですけども、これは中国の話なんですけども、明から清に王朝が移り変わろうとしていた時代なんですね。
この時に内乱が起こります。
内乱が起こることによって、「オイオイお前さ、陶磁器なんか作ってないでさ、とりあえず戦争手伝えよ」ということで磁器が作れない。
そして、この磁器が日本にももう入って来なくなったわけなんですよ。
そうすることによって、元々ある程度自分達では作れてはいたんですけども、メインはやっぱり中国の商品だったんですね。
それを補完するとか、サポートするような形で伊万里が存在していたわけです。
でももうここで入って来なくなったことによってやっと、いや、もう俺たちは純国産で作っていくしかない!
純国産で国内を、ある程度普及させるぐらいの力を付けなければならない。
というところから、この辺からマジ本気で作りだしたというわけなんですね。
3、有田焼と鍋島藩窯の違い
そして次、1670年に鍋島藩窯が開設されるわけなんですね。
さっきも言った通り、肥前を治めていたのは鍋島藩ですなんよ。
この鍋島藩のお偉いさんが、ヨーロッパ磁器の歴史の時にも話をしているんですけども、やっぱり何故か俺専用の窯が欲しくなるんですね。
そして、俺専用の窯で鍋島藩窯ってのができたんですけども、この鍋島藩窯ってのは、今まであった民間企業である有田にある窯の『最高技術』『最高の技術者』を結集した鍋島藩窯なので、有田の中でも最強の窯なんですよ。
でも、この最高技術を使おうとしてやっぱりお金がかかるわけなんですね。
でも大丈夫、俺たちは売るものを持っている。
ということで、もうその頃っていうのは日本各地にある程度、磁器を売ってたんで、鍋島藩も財政的にはなかなか強かったわけですよ。
だから自分たちが使うのは、採算度外視で最強の物を作ってくれ!
ということで、この鍋島藩側から作られている物ってのは、この有田焼の中でも、さらにその上に位置するものということなんですね。
そういった鍋島藩窯があるということを覚えておいてください。
4、中国を抜いてヨーロッパに影響を与えた日本磁器
そして次なんですけども、1680年、遷界令というのが発令されるんですね。
これは中国の話なんですけども、
「いやぁー、ちょっと自分達だけで内乱を起こしてても仕方ないですわ…」ということで、「もうそろそろ輸出再開しまーす。」というのが遷界令なんですけども、この時に「じゃ、日本さん。もう融通しますんで。」というふうに言ったところ、日本の方は「いやあのー、実はもう中国さんと同じぐらい、もしくは、もうそれより上まで行っちゃってるんすよ。」ということで、もうこの頃になってしまうと、中国を抜いているぐらいの技術力を持っていたんですね。
そしてこの頃になると、中国磁器より日本の磁器の方がヨーロッパに渡ってたんですね。
内乱を起こしてる間に、日本は輸出でも中国を抜いていたんですよ。
よって、最初にヨーロッパに伝わったのかシノワズリっていう中国様式だったのが、1600年代中盤から後半からは柿右衛門や赤江を中心とした日本様式がメインになり、ヨーロッパの王侯貴族にメチャメチャ大きな影響を与えているんですね。
マイセンのところで詳しく解説しているんですけども、マイセンのアウグストさんが「メッチャ綺麗だね!」ということで、日本の磁器をコレクションしている館を持っているわけなんですね。
それくらいこの日本の磁器ってのは、美しかったということなんですよ。
そして1710年に初めて、ヨーロッパでマイセンが磁器焼成に成功するのですが、その辺から段々と日本磁器の需要も落ち始め、大体1770年代まで伊万里焼というの勢いがあったというふうに言われております。
これが大体、江戸時代を中心とした伊万里焼の歴史なんですよね。
5、『初期伊真里』と『伊真里』の違い
そして次なんですけども、この初期伊万里と古伊万里って何なんですかということをお話ししていきます。
伊万里についてちょっと勉強していくと、初期伊万里と古伊万里ってのが出てくるんですね。
ここについてお話をしようしたら結構長くなってしまうんで、もうホントざっくり言ってしまいます。
まず初期伊万里ってのは17世紀前半のもの。
古伊万里というのは17世紀後半以降のもの。
大体こんなイメージでいいと思います。
そしてそれを分けるものって何なのかと言いますと、登り窯が入ったかどうかということなんですね。
じゃあ、この登り窯って何なんですかって、話なんですがこの前半の方の作り方ってのは商品を作りますよね、そして焼きますよね。
こんな感じで一発勝負だったんですね。
でもこの作り方だったら失敗の確率が高いんですよ。
一発で完成させようとすると、焼き締まる過程で歪みやヒビが発生してしまい10個つくって1個良いのができればいいかな、くらいな感じなんですね。
なのですが、それを防ぐためにまず1回作って素焼という工程を入れるんですね。
低温で焼く素焼を入れることによって、このひずみとかヒビとかそういったものを発生させなくするわけですよ。
料理で言うところの、下ごしらえとか一手間を入れるって感じでしょうね。
そのあとに絵を付けて釉薬を塗って、そうして登り窯に入れる。
そして1300度まで窯の温度を上げて本焼きってのをするんですね。
こうすることによって失敗作がだいぶ減ったんですね。
これがこの初期伊万里と古伊万里の違いなわけです。
もちろんこの他にも広大の形の違いや、初期には墨弾きの技法がないなどの違いはあるんですが、今日はその初期伊万里と古伊万里の間に登り窯があったんだというところだけ覚えておいてください。
そして、今から技法について解説もしていくんですけども、この技法が分かることによってある程度、あぁ、そういうヤツなのねというところが分かってくると思います。
6、磁器を作るときの技法の概要を知ろう
6−1 染め付けとは
技法を簡単に分かりやすいものから解説していくんですけども、まず、染付ってやつがあるんですね。
今出てる鷺(さぎ)が描かれてる絵皿を一緒に見ていきましょう。
染付ってどんなやつかと言いますと、まず作品の素地がありますね。
白い素地があって、その上から呉須っていう、青い絵の具(顔料塗料って言って鉱物を砕いたものなんですが)それをを使って絵付をしていきます。
そしてその上に、釉薬を塗って焼いて取り出したら完成します。
染付の美しさの基準というのは、呉須という青一色を使っているんですけども、水墨画みたいにここの青が濃ゆくてここの青は薄い、というような感じで青一色なんだけども、そこに奥行きがあったりとか、色絵みたいになってるんですね。
そういった所の繊細さがまず価値判断の一つの基準なんですね。
そして色を塗っていくので、塗りムラとかがどうしても出てきてしまうんですよね。
そういった所ってのは、やっぱり職人さんの技量とかによって変わってくるものなんですけども、この塗りムラの無さ、こういった所も作品の良否の判断基準ということになっております。
6−2 青磁とは
今出てるライムグリーンの絵皿を一緒に見ていきましょう。
次の『青磁』と言うのは、素地の上に『青磁釉』というのを塗って焼いて出したときに青っぽいものとか、緑っぽいのができるんですね。
これを青磁って言うんですけども、この青磁の作り方が元々さっき言った釉薬のとはちょっと違うバージョンで、この釉薬の中に『鉄分』を入れるんですよね。
この釉薬の中に鉄分を1%~2%入れるんですよ。
そして素地の方にも鉄分を1%~2%入れるなんですね。
そして、窯の中に入れて、『還元炎焼成』という焼き方で燃やすんですよね。
なんかまた、難しそうなこと言い出したよ・・・
って感じだと思いますが、簡単に言うと還元というのは抜くということなんです。
だから、この窯の中にある酸素を抜いて燃やすことによって、釉薬や素地の中に含まれている『鉄分』が反応して青くなるというわけなんですよ。
この酸素の量の調整量によって色が変わります。
酸素かなり抜けば青くなりますし、ほどほどに抜けば緑になる。そして酸素をある程度入れた状態で燃やせば、オレンジとか黄色になる。
要するに、酸素を使って調整しながら青っぽく見せたりとか、緑っぽく見せたりする。これが青磁の作り方なわけです。
そして、この青磁なんですけども、明から入ってきた物をお手本として作ってるんですよね。
では、明から入ってきてる商品の底面を一緒に見てみましょう。
明から入ってきたものは、裏面を見た時に高台があってその内側が茶色いんですよね。
なんでこういう風になっているかって言いますと、さっきも言った通りこの素地の中に鉄分が入っていることによって、窯の中で燃やした時に、その素地に含まれる鉄分が反応して茶色になってるんですね。
でも日本の青磁ってのはそうじゃないんですよ。
日本の青磁ってのは、裏の高台の内側を見た時に、たしかに同じ茶色になってるんですけども、この茶色の部分は素地の茶色ではなくて、自分達で新しく鋳鉄を塗ってるんですよね。
これは、明の物を本当に真似したい、お手本にしてるということで、自分達でも同じように作ろうと思ったけど作れなかったと。
なんでかって言いますと、おそらく有田の陶石(原料)ですね。
原料の中に鉄分が含まれていなかったからです。
だから、これを焼いた時にもここは茶色にならなかったんですね。
だから自分達で鋳鉄を塗って茶色にしたということがあるわけなんですよ。
これが『明の青磁』と『日本の青磁』の違いなんですね。
そしてこの青磁なんですけども、さっき言ったこの染付がありますよね。
この染付と、青磁を合体した作品とかも存在します。
では、一緒にこちらの桟橋と鯉の作品を見てみましょう。
これはどういうふうに作っているのかと言いますと、青磁に見せる部分は青磁釉を塗って、真ん中にある橋や鯉の部分は普通の透明薬を塗っている、みたいな感じで、釉薬の塗り方を変えたりとか、まず1パターン目は透明薬を塗って、その上にライムグリーンに見せたいところは青磁釉を塗ってとか、そういった色々なパターンがあるんですよね。
この二つの技法を合体することによって、また新しいデザインが生まれ、芸術性も高くなってますよね。
この青磁なんですけども、大体1630年から1690年くらいまで作られたというふうに言われております。
ここまである程度、この染付と青磁についてご理解いただけたかと思います。
そして、ここから問題なんですけども、色絵についてお話をしていきます。
6ー3 色絵について
では今写ってる『色絵花鳥文皿』を一緒にみてみましょう。
この色絵というのはどういうやつかと言いますと、さっき言った染付がありますよね。
この染付の完成品の上から、赤とか、黄色とか、緑とか、紫とか、そういった色を重ねて絵を描いてその次に、低い温度の窯で焼くんですね。
結局、これってのはこの色の部分、赤とか、黄色とか、緑とか、そういったところが焼き締められて作品にくっつけばいいので、別に高温じゃなくていいんですよ。
だから色絵というのは、釉薬でコーティングされてるわけではなく、1番上の層に来てるんですね。
食器を持ってる方であれば、わかると思うんですが金彩が擦れたりするじゃないですか。
あれってのは、1番上の層に金彩が来てるからであって、釉薬でコーティングされてないからなんですね。
6−4古九谷と九谷について
そういった色絵のことについて、今からミステリーをお話をしていくんですけども、元々この色絵ってのは1640年に中国から入ってきた色絵を学んで、初代柿右衛門が赤絵として技術革新したんですよね。
だから、日本国内で複数の色を絵付けをできるようしたと言われているのが、初代柿右衛門なんですね。
それまでってのはさっきも言った通り、青の呉須だけで色を付けるというのが一般的だったんですけども、そこに赤い色とか別の色を入れることができるようになった。
それが初代柿右衛門の功績というふうに言われております。
その反面ですね、それから大体10年後の1650年頃、ここで石川県に久谷という所があるんですけども、この久谷でも色絵が作られていたというふうになっているんですね。
これはどういうことかと言いますと、古久谷様式というのがまた新しくあるんですね。
柿右衛門様式があったりとか、古久谷様式というのがあるんですけども、色絵のパターンというのも違うんですよね。
ですので、古久谷様式ってのは石川県の久谷で作られた物。
これが古久谷様式というふうに言われているんですけども、これがなんと、1700年になる前に窯が無くなってしまったんですね。
なんでかは分かんないんですけども、この石川県の窯が無くなってしまったわけなんですよ。
そしてそれから、大体100年後の19世紀前半になって、元々この九谷にあった加賀という所があるんですけども、この加賀でまた新しく窯が出てき始めたんですね。
この加賀の人達というのは、九谷にあったこの皿を見た時に、これは古くから九谷にあったものである、と認識します。
そりゃあ当たり前ですよね。
だって、地元から出てきてるわけですから。
そして、この古い久谷のタイプの物をもう一回俺達で再興しようということで、この19世紀に新しくできた窯の人達ってのは再興九谷、まぁ新世代久谷と言ったところですかね。
で、この古い九谷の絵柄を真似して作ったというところがあるんですよ。
だからこの古い絵柄のやつの方を、古久谷にというふうに名付けたんですね。
古い九谷ということですね。
そして、この古久谷様式の特徴なんですけども、『五彩手』とか『青手』とかっていう技法が使われてあるんですね。
五彩手っていうのは黄色、緑、赤、紺青(こんじょう)、紫。
この色を使って大胆な絵を作品に描く。
これが五彩手ってやつで、青手っていうのは紫、黄色、緑の色を使って作品全体に色を塗って、作品を仕上げるという技法になります。
使う色の種類の違いですね。
そして、この古久谷焼の様式なんですけども、これってよくよく調べたらそうじゃないんじゃないの?という説が出てき始めたんですね。
これはどういうことかと言いますと、1945年、だから日本が戦後の時代ですよね。
この時にヨーロッパに渡っていた物を里帰りさせたんですね。
だから、もう一回ちょっと戻しますよということで、また買ったんでしょうね。
そしてその時に調べていった結果、古久谷様式って言われたものは、結局有田のじゃないかということで、この有田の人達が「あれ、これってさ、古久谷じゃなくて、結局この有田で作られたものじゃないの?」
というふうに言い始めたんですね。
「いやでもさ、そりゃ似たような絵柄はあるっしょ。」ということで、そこから辺はまだちょっと微妙な感じだったんですよ。
そこから1970年になって発掘調査をしていくことになったんですよね。
それによって、古久谷のものの成分分析をできるようになったわけですよ。
そしたら、どうやらこの有田のものと、この古久谷というふうに言われていたものの、この素材の原料ってのは一緒じゃんというのが分かってきたんですね。
古久谷で作られているものであれば、金山という所から陶石を持ってきているので、成分はちょっと違うはずなんですよ。
でもここが一緒になっているということは、結局これってもう有田焼じゃんというふうな説が出てき始めたわけですよ。
これによって、だいぶ有田説が強くなったんですけども、そこからまた発掘調査が進んで、また久谷の方で発掘調査があったんですけども、ここでさっき言った『登り窯』が2つ見つかったんですね。
ってことは、やっぱりこの久谷の所でも磁器は作られていたんじゃないかという話が出てきたんですけども、この古久谷様式の色絵の破片とかが出てこなかったんですよ。
『あ、じゃあ磁器は作ってたのかもしれないけど、やっぱりこれってもう結局有田のものなのかなぁ、となったんですね。
そこからまた、どんどん発掘調査をしていくことによって、この登り窯のちょっと前の所を発掘してたら、古久谷様式と思われる色絵が発見されたんですね。
こうしたことによって、ああ、やっぱり久谷の方にも、古久谷様式の色絵があるじゃないかということで、こっちの説も有力だけど、こっちの説も有力だよねという感じになったんですね。
で、今もどんどんね、発掘調査が進んでいるわけなんですけども、いろんな所を調べて分かった結果、多分これが有力だろうなというところがあったので、それをお話します。
まずですね、鍋島藩とこの石川の加賀藩って所があるんですけども、ここには婚姻関係があったみたいなんですね。
だから、お偉いさんの息子とお偉いさんの娘の結婚とか、ここってのは結構仲良かったみたいで、技術の往来とか、人の往来とかがあったみたいなんですね。
今の時代からは考えられませんが、脱藩って重罪なんですよ。
坂本龍馬も脱藩して、大変な目にあいましたがこんな感じで、人の出入りは非常に厳しかったわけですよ。
そんな中、特別行政区みたいな感じで、これらの藩だけは許されてたんでしょうね。
よって、どっちがスタートかは分からないんですけども、どっちともにこれは存在するんじゃないのかというのが、僕が自分なりに調べたこの見解なんですね。
これはただの、私の推測の領域なので参考程度に収めておいてください。
6ー5 柿右衛門について
今写ってる『竹虎』を一緒に見てみましょう。
この柿右衛門ってどんなやつかって言いますと、花鳥文とかそういった、ちょっとシンプルというか、白地の部分もありますよ!
というのが柿右衛門の特徴なんですね。
これを濁手って言うんですけども、米を研いだときの汁、あの白さを表現していますよ。
ということで濁手っていう言うんですけども、大体この柿右衛門ってのが非対称をメインとしているんですね。
で、この非対称って当時のヨーロッパの人たちからしたら、新しい芸術だったんですよね。
基本的には左右対称が当たり前であって、建築物とかも基本的には同じ構図が並んで建てられてるじゃないですか。
そんな非対称の柿右衛門が向こうに渡ったことで、これめちゃくちゃカッコいいじゃん!というような感じで、向こうの人達、マイセンとかですね。
は自分達で柿右衛門様式を作ったわけですね。
だからこの非対称ってところが、向こうの人達にとってはすごく新しい驚きだったわけですよ。
6ー6 金蘭手について
今写ってる『色絵きんこう仙人文鉢』を一緒にみていきましょう。
『金襴手』という技法があるわけですが、この金襴ってどういうやつかと言いますと、中国から織物が入ってきたんですね。
綺麗な金がいっぱい入っている織物、例えば成人式の時に女性の方が着てる振袖みたいなのをイメージされるとわかりやすいと思います。
これを金襴と言うんですけども、この金襴を彷彿とさせるということで、金襴手というふうにして、磁器の中に金もいっぱい使った技法になります。
ヨーロッパの人たちは、やはり権力の象徴とか豪華に見える金を好むので、こういった金を使った作品は輸出用として、作られることが多かったんですね。
そして次、こちらの商品なんですけども、これが『壽字独学形鉢』(ことぶきじどくがくけいはち)というやつなんですが、これもやっぱり染付があって、色絵があって、金がいっぱい入ってますということですね。
こういった感じでいろんな技法があるんですけども、やっぱりそのベースにあるものっていうのが染付なんですね。
この染付があって、その上にどういうふうにして色を入れていこうかというところが日本の陶磁器、まぁ特に江戸時代の陶磁器の作品の特徴ということになっております。
今日はですね、我々日本のご先祖さまが作った、陶磁器がどれぐらいスゴかったのかということについてお話をさせていただきました。
この動画が参考になった、勉強になった、楽しかったという方がいらっしゃいましたら、是非ともチャンネル登録といいねのボタンを押して頂けると嬉しく思います。それではまた。