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デンマーク王室御用達! ジョージ・ジェンセン (Georg Jensen) の歴史と意匠
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「実用に美を取り入れたジョージジェンセン」
ジョージ・ジェンセンの創始者であるゲオルグ・イェンセンは、かつて『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』において「過去300年において最も優れた銀細工職人」との評価を受けました。
元々は彫刻家であったイェンセンですが、途中で銀細工師に転向します。
彼はまさに、芸術の一つの流れを作った人物でした。
フランスの芸術評論家エミール・セデインも、イェンセンについて「実用的なものを美しく」変えることに心血を注いだ人物である、と述べています。
イェンセンのデザインの多くは今なお非常に人気が高く、世界中の収集家たちの興味を引き付けてやみません。
ジョージジェンセンの歴史
1866年ジョージジェンセンは、デンマークの首都であるコペンハーゲンより少し上のロズヴァズで生まれます。
もともと、ナイフを作ったり研いだりする鍛冶屋だった父を持ちその仕事風景を日常から目の当たりにすることによって、ジェンセンも工芸家としての道を進むことになります。
その後、ジェンセンの素質を見極めた両親がジェンセンの才能をさらに開花させるために、コペンハーゲンに引っ越しを決断することになります。
そして、1880年ジェンセンが14歳の時に銀細工職人の見習いとして、ギルドに加わるのでした。
デンマーク工芸アカデミー時代
陶磁器会社の設立
彫刻家としても、ある程度の評価を受けていたジェンセンですが生計を立てれるほどの稼ぎはなく、彫刻家を断念してしまいます。
そこで次に、友人と陶磁器の会社を作り彫刻の粘土の技術を応用し、陶磁器を作っていくことになるのです。
そんな中、ヨハンロードが開催する『デンフリーウドスティリング工芸品展示会』に自分のポットを出品するとヨハンの目に留まり、ヨハンを通してパリ万博にジェンセンのポットが出品されることになります。
パリ万博
1900年に行われたパリ万博でも、ある程度の評価を受けたものの、実際にこちらも生計を立てれるほどではありませんでした。
そして、パリ万博の時に国からもらっていた遠征金を使いフランスやイタリアなどの『デコラティブアート』の作家に話を聞く旅に出るのです。
そのころのフランスでは、ファインアートとデコラティブアートの境界線は崩れており、一般の人々も普段使用するものに美しさを求めていたのです。
それを肌感覚で感じとったジェンセンは、母国デンマークに帰り再度自分は銀細工職人として、身を立てると誓うのでした。
1904年自分の工房を持つ
デンマークに戻ってきたジェンセンは、当時銀細工でのアールヌーボーの装飾様式を形作っていたモーリンスボーリンの元で店長として働くこととなります。
ボーリンはそれまでの常識とは違い、ボーリンの工房で作られたものであっても自分の名前を入れることを許可してくれました。
これは当時の工芸家事情を考えると、一般的ではなくボーリンは非常にジェンセン自身のことを将来性があると考えていたのだと思います。
そして、自分の名前を入れて販売していた商品は好評であり非常に人気のブランドになっていくのでした。
自信をつけたジェンセンは、ボーリンのワークショップを卒業し1904年に自身のブランドであるジョージジェンセンという会社を作ることになるのです。
その後の輝かしい功績
・1910年 ブリュッセル博覧会で金メダルを受賞
・1918年 スウェーデン王室御用達となる
・1924年 デンマーク王室御用達となる
1920年代後半には、パリ、ロンドン、ベルリン、ニューヨークに支店を持つことになる。
デンマークの自然が育んだ芸術
イェンセンは子供時代を、デンマークのロズヴァズで過ごしました。彼が自然に心惹かれていたのは、この経験のためと言えるでしょう。
家の近くの沼地で採った粘土から彫像を作り、年若いうちから卓越した芸術的才能を発揮しています。
13歳の時には、彼は父の職場である工場で金細工師見習いとして働いていました。
どうやら息子には、芸術の才能があるらしいと感じ取ったイェンセンの両親はコペンハーゲンに引っ越し、彼の才能を伸ばそうとします。
イェンセンは金細工師のもとで見習いとして働き、空いた時間は彫刻の創作に励みました。
イェンセンが自作の彫刻の一つを国立美術学校に提出すると、非常に感銘を受けた教授の計らいで美術学校への入学許可が下りました。
この学生時代に、彼の彫刻「ハーベスター(刈り取り人)」がシャーロッテンボーの春季展覧会で展示され、批評家たちの称賛を受けます。
この時イェンセンはすでに、一人前の金細工師になっていましたが、彫刻家として身を立てる決意をしました。
銀細工師イェンセンの誕生
しかし、再び彼の彫刻が注目を集めることはなく、彫刻家としての将来には繋がりませんでした。失意のうちに貧困に陥ったイェンセンは、友人とともに瀬戸物屋を開きます。
しかしここでも事業は失敗に終わり、彼は家族を養うために銀細工師に転向します。
1904年、イェンセンは自らの工房を開きます。
ここで最初に装身具類を作り、続いて食器類を作成しました。
看板は「ジョージ・イェンセン 彫刻・銀細工」と出し、あくまで自身のことを彫刻家であると自負していたようです。
銀を彫刻の素材とすることで、イェンセンはついに、自らの創造力を商機につなげることができたのでした。
装身具類の展示が数軒の美術館で成功し、小さな工房で売れるようにもなりました。
ここに来てやっと、イェンセンは美しく精巧、かつ実用的な作品を生み出す細工師という評判を勝ち得ます。
工芸家たちの競演
イェンセンは他の芸術家や工芸家と合作を行い、自らの創作の幅を広げようとしました。
そうした工芸家はみな、「装飾品が主役であってはならない」というイェンセンと同じ理念を持っていました。
・ヨハン・ロード(1856-1935)
・ハラルド・ニールセン(1892-1977)
・シグヴァード・ベルナドッテ(1907-2002)
・ガンドルフ・アルベルトゥス(1887-1970)
・ヘニング・コッペル(1918 - 1981)
・ヴィヴィアナ・トールン(1927-2004)
彼らは、20世紀の最先端をゆく銀細工を作り上げました。
こうした創作は、イェンセンのパターンの中でも人気のあるものになりました。
イェンセンはデザイナーの支援には特に熱心であり、十分な報酬が支払われるよう常に気を配っていました。
これは自分自身が、ボーリンからそのように対応してもらったことが影響していると思われます。
ジェンセンは、若きデザイナーに自分の会社名を使ってもっと色々なデザインを生み出して欲しい・・・
そう考えていたのかもしれません。
世界のジョージ・ジェンセン
1915年、新聞業界の有力者であるウィリアム・ランドルフ・ハーストが、サンフランシスコ万博を訪れた際、イェンセンの展示に非常に感銘を受け、全ての作品を買い上げました。
これをきっかけに、アメリカの仲買人はこぞって、イェンセンの作品に注目するようになりました。
1918年には『ジョージ・ジェンセン』はスウェーデン王室御用達に指定され、1920年には300人の工人を雇う会社に成長しました。
今日ではロイヤルコペンハーゲンが『ジョージ・ジェンセン』を所有し、卓越した技術を引き継いでいます。
銀細工の父
1935年、イェンセンは亡くなる頃には「スカンジナビア銀細工の父」として知られるようになっていました。
彼は60歳の時、このように述べています。
「銀は人間が所有している、最も素晴らしい素材だ。簡単には変形しないが、
それでも変えなければならない―そうすれば月光のように輝き、黄昏の薄明のように照り映える。
露に濡れれば、大地から立ち昇る霧のように見える」
まとめ
ジョージジェンセンは今も世界中にファンがいる、デンマークを代表する宝飾品メーカーであります。
そのため、ジョージジェンセンのアールヌーボー時代の芸術性やデザインを現代版に復刻した『ヘリテージ コレクション』と言うのが毎年発表されております。
そして、すぐに売り切れてしまうそのへリテージコレクションは、ジョージジェンセンの人気を証明してると言えますよね。
主張しすぎないシンプルなデザインですが、落ち着きのある大人の女性にはぴったりのアクセサリーと言えます。
こんな歴史がある、素晴らしいアクセサリーを身につけることで、心も身体も充実した日々を送ることができますね。