アマルリック・ワルターの芸術 生涯 第一から二期時代 前編
アマルリック・ワルターの芸術人生・前編(第一期、二期時代)
今回はアマルリック・ワルターの芸術の生涯を作品紹介とともに、3部(前編・中編・後編)にわけてご紹介していきます。
ぜひ、アマルリック・ワルターの壮絶な生涯を時代背景とともに感じてみてください。
第1期時代 1890年―1903年 セーブルの工場での陶芸 パート・ド・ヴェール*の始まり
この時期はアマルリック・ワルター(フランス語読みではアマルリック・ワルテール、以下ワルターで統一)の人生で最も知られていない時期ですが、この時すでに十分な生産活動を行っています。
アマルリック・ワルターは1885年2月16日、14歳の時にセーブル(フランスのパリ近郊の町、陶芸で有名)の工場に門弟として入ることを許されます。
その後、彼の父であるアドルフ・ジョセフや、彼の祖父であるイタリアの画家フランチェスコのように、おそらく1890年か1891年には陶器製品の装飾家としてそこで働いていました。
アンリ・クロやアルベール・ダモスもその時同じ職場で働いていました。
この時点で彼はまだガラス製品を作ったこともありませんし、ましてやパート・ド・ヴェールなどは全く知りません。
(注:パート・ド・ヴェールとは
「ガラスの練り粉」という意味のフランス語から来ており、粘土やワックスで作った原型から石膏などで鋳型を作り、ガラスの粉と糊を混ぜて鋳型に詰め焼成し、鋳型から取り出して磨き上げる技法のこと。古代メソポタミアでも作られていたが、作り方が残されておらず幻の技法と呼ばれていた。)
パートトヴェールについてはこちらの動画で解説しています。
その代わりに、兵役(1892-1893年)の後、彼は工場の仕事には戻らず、セーブルのビネル通りに陶器製品のアトリエを構えます。
共同制作者としてフェリクス=オプタ・ミレー(1838-1911年)がおり、オプタ・ミレーとして既に広く知られ活動をしていました。
フェリクス=オプタ・ミレーはこの時代にセーブルの村で一番大きな陶器工場を所有しており、ミレー一家は特に友人であるアルベール・ダムスやジャン・マイヨドンを支持していました。
ワルターはミレーのスタイルにとても深く影響されたようです。
フェリクス=オプタ・ミレーの花瓶 左上から 1875年、20cm/ 1890年、40cm/1890年 39.5cm/1890年 24cm
ビネル通りでアマルリック・ワルターはセーブルの町の得意分野として陶器について理解し、おそらくそこで制作をしていたと思われます。
なぜならこの時代需要がとても高かったからです。
オプタ・ミレーがワルターを陶器の焼成担当に置いたのもありうることです。
ワルターは1896年にルーアンで開かれた国内と植民地の陶器展覧会で銅メダルを、1900年のパリ万博では名誉証書を、1901年のパリ国際展覧会では金メダルを受賞しています。
ワルターがパート・ド・ヴェールに関心を示すようになるのは、1900年のパリ万博まで待たなければならないようです。
おそらくクロやダムーズ、デコルシュモンやデプレ、ランジェル・ディルザックの作品に強く心を打たれたのでしょう。
しかし、それは彼一人ではないようです。
1900年のパリ万博にて吹き上げ成型ガラスで名誉賞を受賞していたドーム兄弟もまた、パート・ド・ヴェールが商売の未開拓分野であり芸術として面白くなりうると目を付けていました。
ワルターはセーブルの工場で彼の先生であったガブリエル・レヴィと協力し、連名で作品を発表しました(陶器製品とおそらくパート・ド・ヴェールでも・・・しかしそれを確かめる初期の作品は残っていません)。
彼らの共有のアトリエはエコール・ド・パリ通り9番地にありました。
1903年、彼らはパリ造形美術展覧会に一緒に作品を発表します。
初めてのパート・ド・ヴェールはパート・ド・ヴェールという名前ではなく、「パート・デモー・アグロメレ(エナメル凝縮)」という名で発表されています。
30×50cmのパネルに実の生った葡萄の木を表現した「ブドウ棚」、タンポポの装飾の皿、花の装飾の7つの花瓶、彫刻作家デニス・ピュエシュ(1869-1942年)とユジェーヌ・ドゥラグランジュ(1871-1920年)に倣った若きパリジェンヌの胸像などです。
パート・ド・ヴェールの技法は1903年には既にマスターしていたようです。
ワルターとレヴィは20世紀が始まってすぐから、もしかすると19世紀の終わりには既に十分な実験をしていたのではないでしょうか。
第1時期の作品
第2期時代 1903-1914年 パート・ド・ヴェール技術の改良とドームの工房とのコラボレーション
アマルリック・ワルターは1903年から1914年ドーム兄弟の工房で働いており、そこの芸術部門の責任者はアントナン・ドームでした。
工場での装飾はジャック・グルベール(1870-1936年)に1893年から1897年まで指導されており、その後グルベールは自分のアトリエに入りました。
アンリ・ベルジェ(1870-1937年)は1895年にドームの工房に入り、グルベールの後に装飾部門の長を務めました。彼はリタイアするまでドームの工房で働き続けました。
アンリ・ベルジェ
ドームの工房と、アマルリック・ワルターとガブリエル・レヴィの間で提携された契約は、10年間の期限付きで1903年に結ばれました。
当時の2万5000フランでの契約で、彼らは「ドームの工房に住まいを置き、ワルター氏によって開発された手法でパート・ド・ヴェールの制作を行うことに同意する義務を負う」ことになり、一定数の作品を制作することを契約書に示されています。
この契約の一番の重要事項は、ワルターとレヴィが「ドームに対してすべての製法・変更・応用技術を開示し、独占的に販売させる」義務を負うことです。
しかしレヴィはすぐにこれを解約しました(1904年)。おそらくワルターとの金銭的な対立によるものだと思われます。
アントナンの息子であるミシェル・ドームの話に反して、この契約の結果は、初めはゆっくりだったにせよ少なくとも美術的な観点からは期待を上回るものでした。
1904年12月19日に23歳の無職の女性であるアドリエンヌ・ガブリエル・マリー・フィアルドと結婚したワルターは、ドームの工房でアンリ・ベルジェと友人になりました(彼は後の1901年にエコール・ド・ナンシーの重役会のメンバーとなった人物で、その副会長はアントナン・ドームでした)。
この友情はベルジェがナンシーで亡くなる1937年まで続きます。
アンリ・ベルジェはフリーのデッサン画家で、エコール・ド・ナンシーの共同創立者であるジュール・ラルシェ(1849~1920年)の援助のもと、ナンシー市営デッサン学校に通っていました。
彼はフランス東部専門学校(ロリッツ校)でデッサンを教えます。
植物のデッサンに抜きんでており、ベルジェは何年もの間、数々のワルターの作品で予備デッサンを制作しています。
ドーム兄弟と交わした契約に由来する根源的な変化がこの時期にありました。――ワルターは陶芸を辞め、パート・ド・ヴェールの作品のみに身をささげることとなります。
この時期から技術的にも芸術的にもとても素晴らしい品質でありましたが、何年もかけてさらに磨きをかけました。
ワルターとベルジェの2人組は、また間違いなくシャルル・シュナイダーとともに、工房に神の息吹を運んできます。
ワルターの作品は(特にステンドグラス、下記参照)1909年にナンシーで、また1910年にパリのガリラ美術館で開催されたフランス東部国際展覧会でのドームの工房のブースで展示され、大評判になりました。
1909年のナンシーの展覧会では、ドームのブースは大きなステンドグラスで装飾され、その一つ一つの窓ガラスは60×40cmのパート・ド・ヴェール(夜明け、黄昏、夜景、池、森)で作られており、また別のパネルは20×20cmの窓ガラス(オダマキの花とランの花)で作られていました。
これらの有名な作品達はワルターの才能を多くの人に確認させることになり、彼は金メダルを受賞しました。
他にも才能を確認できることがあります。
ワルターはまたその他にも1910年のブリュッセルで開かれた国際展示会で金メダルを収めています。
独創的でこの時代に他に類のない作品達は、その当時の美術関係記事でも称賛の対象となりました。
ドームはパリのパラディ通り32番地にある販売店でもワルターの作品を販売用に紹介しています。
これも少なくともワルターによる作品の証拠となる、長方形の蜂のペーパーウエイトです。
とてもアール・ヌーヴォー的な精神の中、また新しい装飾の流行を追求する中でドームの工房にオーダーが入り、ワルターはパート・ド・ヴェールでインテリアの装飾を依頼されます。
リヨンのマリウス・ベルリエットの邸宅(暖炉にはドームのカボション付き)、ベルギーのモンスにあるロソーの家(1912年)、ナンシーのセリエ通りの家などです。
彼はまた調度品の装飾も行いました。食器棚、長椅子、本棚、そしてパート・ド・ヴェールではめ込み加工をした板での板張りなどです。
彼はまたついたてのような小さな装飾作品(フレームはフェレスもしくはドーム自身が手掛けたもの)や園芸用品も手がけました。
しかし、パート・ド・ヴェールによる装飾は「ガラスケースを脱すること」を求めていますが、明らかに比較的高価になってしまいます。
作品を作るのに時間と費用がかかるからです。
ワルターがステンドグラスに使用したパート・ド・ヴェールは革新的なものとなりました。
その時まで、誰もパート・ド・ヴェールの技術をこのようなものには使用していませんでした。
モーリス・ピラール=ヴァンルイユは1909年5月の雑誌「芸術と装飾」で「我々が全く新しいと言える表現方法」という題でこのことについて語っています。
これらのワルターの作品は本当に並外れた(また稀有な)ものでありました。例えばステンドグラス「夜景」2×3m(写真あり)や「林の中の空き地」です。
「林の中の空き地」1911年、60X40cm
窓ガラスの1つ1つは切り分けられた一つの装飾からできており、もしくはもっと小さい装飾であれば切らずにそのまま使います。
ステンドグラスは何枚もの窓ガラスで出来ているので、小さいものは窓にはめ込まずに小さな木の棒を使って固定されています。
これらのステンドグラスはいくつかのナビ派の絵画、特にポール・セリュジエの絵画を思わせます。
上:ポール・セリュジエ 「不思議なもの、ボワ=ダムールの鍾乳洞」 1888年10月、油絵、27x21cm
下:ポール・セリュジエ 「下草」1905年、油絵、72x59cm個人蔵
ワルターが当時の他の芸術運動に影響されたことは明らかであり、その中でもナビ派はステンドグラスの制作をした時には既に広く知られていました。
驚くべきことに、ワルターの作風はしばしばその時代とのギャップがあり、特に第三時期の作品を発表する時にはまさにアール・ヌーヴォーに着想を得ていたのですが、アール・ヌーヴォーは第一次世界大戦前には早くも廃れてしまっています(1909年にナンシーで開かれたフランス東部展覧会がこのとても重要な政治・芸術運動の終わりの兆し、もしくは最高潮でした)。
他の何人かの芸術家たち、ジョルジュ・デプレやフランソワ・デコルシュモンも同様にステンドグラスの作品作りを試みましたが、ワルターほどの技量はありませんでした。
この時期、ワルターはシャルル・シュナイダーとのコラボレーションを始めています(後にシュナイダーガラス工房を作った人物で、シュナイダーがデッサンを書き原型を彫り、ワルターが作品を作りました。
第三期に作られたほとんどのベルジェやワルターの作品の横にはシュナイダーを表す「Sc」のサインが入っています)。
前述の展覧会でのステンドグラスについて、パート・ド・ヴェールの装飾作品はアール・ヌーヴォーの自然主義や、この時期の数々の人間をモデルにした作品についてはまだ古典主義に発想を得たものでした。
小物入れや動物の彫刻を非常に写実的で多色使いの見事な作品を作る一方、単色のタナグラ人形(古代ギリシアで作られた人形)や古代の女神(贋作者たちはとても作りやすかったようです)、メダイヨン(円形浮き彫り装飾)、ヴェールを纏った踊り子たち、横たわった、跪いたまたは座った女性たち、着衣もしくは裸婦像、胸像、頭や顔の彫像なども見られました。
小物入れや灰皿、小像、ペーパーウエイトの形となった動物たちも、作品の数にはまだ数えられてはいませんが(おそらく数百にも上ると思われます)とても重要です。
カメレオン、みみずく、ネズミ、かたつむり、トカゲ、カエルやカニなど・・・。
これらのシリーズは後に肉付けされ、ワルターはベルジェと共に自分の翼ではばたくようになります(第3時期参照)。
サイン
この第2時期の間、アマルリック・ワルターがドームの工房で作った作品に自分のサインをすることはとても稀です。
サインはドームが使っているロレーヌの十字のものでした。
灰色のネズミとインゲンの小箱(16cm)の横にある「ナンシーのドーム」のサイン
もしくはこのようなものでした。
同様に、この時期の有名なパート・ド・ヴェールの作品で誰かのサインがあるものはなく、デザイン、モデル制作及び彫刻担当としてのアンリ・ベルジェのサインもありません。
フランス東部国際展示会(1909年、ナンシー)のステンドグラスは例外として、第2時期のものとしては3つの作品がアマルリック・ワルターのサインが入ったものとして知られています。
左:ドーム・ナンシーのサイン、ロレーヌの十字と共に モノグラム「AW」(アマルリック・ワルター) 17x12cm
右:「A,ワルター、ナンシー」のサイン 12x12.3cm
下:「A,ワルター、ナンシー」と「マックス・ブロンダ」のサイン 14x11cm
アマルリック・ワルターのサインがない理由としては、ドーム兄弟とワルターの間で結んだ営業とロイヤリティー(著作権使用料)の権利に関する取り決めのせいだと思われます。
今日では、歴史的に証明可能な納得できる説明は存在しません。
この時期にドームの工房のために作った作品がすべてそろったカタログは、ノエル・ドームの主張に反して見つけることは出来ません。(パート・ド・ヴェール、Denoel、1984年、p147)
ワルターが自由を選択したのは、間違いなく仕事に関するドーム兄弟の支配から解放されたいという意思の表れでしょう。
それを実行したのは第一次大戦後、ナンシーのクロード通りにてでした。
第2時期の作品
続きの第3期時代はこちら「アマルリック・ワルターの芸術生涯 第三期時代 中編」をご覧ください。