アマルリック・ワルターの芸術 生涯  第三時期代 中編

アマルリック・ワルターの芸術人生 中期

前編に引き続き、アマルリック・ワルターの芸術の生涯 第3期(中編)の紹介です。
前編はこちららでご覧いただけます。

アマルリック・ワルター

第3時期代1920年~1940年 独立、幸せな年月と衰退

第一次世界大戦後、アマルリック・ワルターはナンシーのクロード通り20番地のアトリエに入ります。

(彼の住居は1906年からセリエ通り16番地にあると彼の書類のレターヘッドには示されています。1946年までそこに滞在し、その後クロード通り20番地に引っ越しました。)

この独立したアトリエへの入居は1918年ではなく1921年に遡ると考えられます。

アマルリック・ワルター 注文書アンリ・ベルジェがアマルリック・ワルターのためにデザインした広告用の版画
上:注文書(年代不明)
下:アンリ・ベルジェがアマルリック・ワルターのためにデザインした広告用の版画、1901年にドームにデザインした広告用の紙を思わせる

ドーム兄弟
彼に仕事に取り組むことを許した具体的な条件、特に財政面での、は分かりません。

しかしどうやらドームの工房を整理したときの用具一式をアトリエに移動していたようです。

おそらく作品の手法に費用がかかるという理由でアトリエは決して財政的に収益性があるものではありませんでした。

それに反して、ノエル・ドームが著作の中で主張するように(N.ドーム、パート・ド・ヴェール、1984年、p146)、ワルターは「1914年以前の鋳型を持って行ってしまった」(原文通り)ということは納得出来ることではありません。

実際、ガブリエル・アルジー=ルソーとは逆に、ワルターは保存してマスターとして使えるような「作品の鋳型」や「ひな型」を作ってはいませんでした。

ドームの工房を第一次世界大戦が勃発した1914年に離れた事は、ノエル・ドーム(前出p143)によると、小さいものをワルターが使用していた古いボエティウスの窯が移設されたためだと言います。
しかし実際の理由はもっと他にありそうです。

ワルターの評判が高くなり、彼の技術の高さがはっきりと現れるにつれて、彼のパート・ド・ヴェールの作品はより高く評価されるようになりました。

ドームの工房とのコラボレーションの継続は当然彼の自由を妨げるものになっていました。

加えて、1903年11月10日に実施された以降のこのコラボレーションの法的な条件ははっきりわかっていません。

しかしながら、1913年の終わりか1914年の初めに満了した10年に上る契約でありました。

ワルターの手法以降にドームの工房がとった手法は曖昧なものでした。

パート・ド・ヴェールだけではおそらく財政的に収益が十分でなかったのでしょうし、また工房はガラスの透明度をより追求していました。

ところがワルターがそれに反して研究していたのは不透明さであり艶消しでした。そのことは彼の第2時期の作品達を見れば明らかです。

第一次世界大戦の終わりから1960年代まで長い年月がかかりました。

ドームの工房がジャック・ドームの推進力により再びパート・ド・ヴェールの作品を作り始めたのは実際の所1960年代でした。

サリがドームのためにペガサスのプレート(ドーム工房作、ナンシーのボザール美術館蔵、N.601)を1967年に、他2つの作品(水浴びをする女、ピエール・デマルキと馬、モーリス・レジャンドル、前出、N602とN603)を1968年に作るのを待たなければなりませんでした。

 

この期間を通して、1918年(これはワルターの動員解除の時期です)から1959年に亡くなるまで彼の望んでいた自由を手に入れます。

実際、ワルターは自身のために、ドームの工房で始めた研究を継続していました。

ワルターが工房で行っていた手法を完成させることについてはドームもどうやら反対はしなかったようです。

この件については全く係争があった形跡がありません。

この別れは和解的なもので、ミシェル・ドームが彼の意中を探るためのものだったようです。

その上、アントナン・ドームは自身が審査員を務める有名な1925年のパリ装飾美術展示会にミシェルが1メートルのブースを構えるために、ワルターの味方となって仲介に入りました。

ワルターに対するアントナンの評価はべた褒めでした。

他にも、19世紀末にドーム社がリバイバルした吹き上げ成形ガラス作品に反して、パート・ド・ヴェールはドーム社の製品の中でもほんの少しの割合しか占めていませんでした(特定のいくつかの作品のみ)。

しかし予期される経済的な収益性に対して、作品をつくる費用は途方もないもので、また前述のように(第3時期参照)、ワルターが望んだ不透明の曇ったガラスではなく、ドームの工房はより透明性を追求していました。

アマルリック・ワルターにとっての繁栄の時期は15年ほど続きましたが、その後おそらく1930年代の初めから衰退しました。

アマルリック・ワルターの作品が一番豊かで素晴らしかったのはこの第3時期です。

だからと言ってドームの工房にいた時よりも作品が多様化したということではありません。

なぜなら彼は装飾用のオブジェしか作らないからです。

しかし、彼の作品はより成功し、技術的にも芸術的にもより高いレベルに達しました。

1920年代の半ばには、ワルターのアトリエは10人ほどの職人が働いていて繁盛していました。

その中にはレイモン・ユルバン(1895-1962年)、ロレーヌ芸術会のメンバーや、パート・ド・ヴェールの制作に従事したジャン・アザールなどがいました。

3件のアクセサリー商が彼らの作品を広めました。

ジャクォト(ナンシー、ドミニカン通り16番地)、デオン(ナンシー、アメルヴァ通り)、ゴンティエ(パリ、フィデリテ通り3番地)です。

この時期にアンリ・ベルジェとのコラボレーションは強化されました。

彼らの友情はベルジェが亡くなる1937年まで弱まることはありませんでした。

しかしワルターは、同時に他の何人かの共同制作者に原型のデッサンを描いてもらっています。

アドネ、ボスュ、シェレ、カイエット(彼とは既にドーム工房時代にコラボレーションをして銅製のコガネムシの小箱を作製しています)、コレット、デコン、フィノ、ジェノ、エルブス、ウィロン(彼が芸術監督を務めるランベールクリスタルガラス工房用に、アリスティッド・コレット(1856-1959年)の手法でガラスをビュランで彫刻する)、ラヴァレイ、メルシエ、ムガンなど・・・。またロダンのダナエなど既存のモデルからも着想を得ていました。

ワルターはまた金細工工房、特にナンシーのアンリ・ボセルトとのコラボレーションも行っていました。

面白いことに、この第3時期の間ワルターは陶芸にも再度取り組んでいました。

しかしセーヴルで初期に行っていた「輝く」陶器は見られません。

「ひび焼き」と呼ばれる陶芸で、大部分のモチーフはアール・ヌーヴォー様式でありました。

アール・デコのモチーフは稀でありました。

彼はまた「ラ・メトリーズ」に作品を納入していました。

1921年にモーリス・ドュフレンヌが設立したパリの4大アトリエの一つであり、プリマヴェーラの競争相手である百貨店のギャルリー・ラファイエットに納入しています。

ルネ・ギルレ設立のアトリエは百貨店のプランタンに、ポール・フォロが設立したポモヌはボン・マルシェとストゥディウム(ルーブルの百貨店)に納入していました。

アマルリック・ワルター ひび焼き陶器アマルリック・ワルター ひび焼き陶器アマルリック・ワルター ラ・メトリーズのサイン
左:ひび焼きの花瓶、アール・ヌーヴォー様式 23.5cm
右:ひび焼きの花瓶、アール・デコ様式 ラ・メトリーズのサイン入り 22cm

彼のステンドグラスに関しては評価のためだけのものでした。

光と装飾をよりシンプルで総合的なものにする必要がありました。

ドームの工房で1900年から1910年の間に作られたステンドグラスは高価で作品作りが非常に難しかったので、毎回購入者を見つけることができませんでした。

例えばフランソワ・デコルシュモンとは違って、ワルターはステンドグラスの分野を続けませんでした。

1921年から第二次世界大戦の直前まで、それ以降はもはやそうではなくなりましたが、パート・ド・ヴェールの作品はワルターの商売の主要部分を成していました。

しかしながら、装飾用の小さな作品しかありませんでした。

小物入れ、ペーパーウエイト、鉛筆の補助軸、筆箱、インク壺など・・・そして同時に少しの照明器具、そのうちの大部分は照明板の形をしていました。

この第3時期は従属する2つの時期に分けることができます。それらは経済情勢と芸術様式の変化に対応しています。

―――1つ目(3-a)、1921年にクロード通りにアトリエを構えてから1930年代の初頭まで

―――2つ目(3-b)、1930年代の初めから第二次世界大戦の勃発まで


3-aの時期

1921年から1930年代の初頭、アマルリック・ワルターはパート・ド・ヴェールの極限的に繊細な作品を作り続けていました。

彼の技術は頂点に達し、彼の芸術は成し遂げられました。

そのため作品は桁外れの、非常に制作が難しいものになります。

今日でも高く評価されており、そのため芸術市場でもかなりの値段がつけられる作品です。

驚くべきことにワルターはまだとても深くアール・ヌーヴォーの自然主義に影響を受けていました。

動物たちのモチーフはドームの工房でつくり始めたもので、それを拡大させていました。

ワルターはこの時大きな名声を得ており、いくらか生活に経済的余裕もあったと考えるべきでしょう。

なぜなら彼は自動車で、アミルカー(フランスのサイクルメーカー)の車で旅行しているからです(どの型式かはわかりませんが、おそらくペガサスではないかと思われます)。

 

ナンシー市に提出された公式文書には1926年に「パート・ド・ヴェールの技法の発案者」として申告されていますが、それは不当なものでした。

なぜなら、アンリ・クロ(1900年のパリ万博でワルター同様パート・ド・ヴェールで金メダルを受賞しています)、フランソワ・デコルシュモン、アルベール・ダムースや更にジョルジュ・デプレが彼より前に開発していたからです。

しかしそれはナンシー人として地元を愛する気持ち、もしくは愛国心というべき感情が強かったためでしょう。

そのことは1871年のドイツ占領という事実から我々にも理解することができます。

またこの期間、1920年11月9日にワルターはアドリエンヌ・フィアルドと離婚します。

その後ワルターは妻をめとることはなく、ジャンヌ・ビドーという女性と一緒にいただけでした。


3-bの時期

この時期、時が流れるにつれて形と色が少しずつシンプルになりました。

アール・デコの様式は過ぎ去ったものとなります。

加えて、複雑で費用のかかるパート・ド・ヴェールの技術は20世紀の初めには全く収益性が無くなっていました。

1929年の世界恐慌が影響していることも付け加えねばなりません。

芸術市場は一番初めに被害をこうむる部門の一つでした。

大きな会社やガラス工場は悲惨なほどの窮地に立たされます。

アメリカだけでなく(ティファニーはこの良い例で、1932年に活動を休止し、1933年にルイス・カムフォート・ティファニーは亡くなっています)、フランスでも同様です(特にシュナイダーなど)。

ワルターのアトリエも相当にやせ細り、すべての段階で節約をしなければなりませんでした。

この時期のパート・ド・ヴェールの作品は(3-b時期のひび焼き陶器については分かっていません)、よりありきたりで用途の広いものになりました。

魚(多くはオーギュスト・ウィロンにデザインされました)、常夜灯「中国のがらがら」、壁掛け照明、置時計、人物の小像、鳥の小さな小像(スズメ、ツグミの雛など・・・)、キジ、花瓶などです。
洗練された幾何学的なデザインで、色彩は多くの場合モノクロでした。
ワルターはもはや写実主義も自然主義も追及していません。
ベルジェは、彼自身自然主義に精通していましたが、アール・デコ様式の希少なモデルについても理解していました。
箱 アマルリック・ワルター、アンリ・ベルジェ
箱 ワルター―ベルジェ 1925年

この3-b期の間、ワルターは作品を多様化しようと試みました。ガラスの宣伝板、ナンシークリスタルガラス工場用のカットグラスなどですが、この工場も困難に直面していました。
物質的な困難、特に財政的なものが悪化します。アンリ・ベルジェは1937年に亡くなります。1939年にクロード通りのアトリエは閉鎖されます。第二次世界大戦が始まりました。

サイン

第3時期の間、アマルリック・ワルターはほぼ一貫して作った作品にサインを入れていました。サインがないものはかなり稀です。しかしそれはサインがないものは偽物であるということではありません。「A WARTER NANCY(A.ワルター ナンシー)」や「AWN」もしくは「AW」と小さな作品には入れられています(ペンダント・ブローチなど・・・)。また時には「W」や「NANCY」というのもあります。

アマルリック・ワルター サインアマルリック・ワルター サイン アマルリック・ワルター サイン アマルリック・ワルター サイン
小さな作品には、サインは見えにくく判読しづらいものもあります。

アマルリック・ワルター サイン
魚のオブジェには、珍しいサイン「Malric」というのもありました。

アマルリック・ワルター 大魚アマルリック・ワルター マルリックのサイン
大魚 1930年 9x18.5x4cm

左後部に「A WALTER NANCY」のサインと右後部に「Malric」のサイン

これは「AMALRIC」の間違いではなく、ワルターの共同制作者でワルターの他の作品にもサインがあることで知られているシャルル=ルイ・マルリック(1872-1952年)です。
アマルリック・ワルターの作品アマルリック・ワルター マルリックのサイン
加えて、かなり稀な手法である「made in France」の記載があります。
これは輸出用のみへの記載であり、ワルターの評判はフランスのみではなかったことを示します。アマルリック・ワルター 箱
小箱「A WALTER NANCY」と「made in France」のサイン入り

サインは焼成の時にガラスの塊に入れられます。しかし小さなオブジェにはもう少し見やすくするため回転盤で彫ることもあります。

サインにはしばしば「Sc」と「ベルジェ」、もしくはどちらか一方、または様式化されたモノグラムの「B」を伴っています。
アンリ・ベルジェのサインアンリ・ベルジェのサイン アンリ・ベルジェのサイン

「Sc」の記載

Scの記載の意味は論争のテーマとなっています。インターネットでダウンロードできる2007年の論文、「Scと書かれたドームのパート・ド・ヴェールを使ったブロンズ製品―――アマルリック・ワルターのパート・ド・ヴェール作品にある「Sc」のモノグラムの謎」の中でジャン・アルトウィグは、Scはシュナイダーもしくはシュナイダー・シャルルを表すという仮説を提唱しています。シャルル・シュナイダーは実際10年間ドームの工房でデッサン画家及び彫刻・型モデル製作者として一緒に働いていました(彼の兄エルネストはそこで販売代理人として働いていました)。シャルル・シュナイダーはドームの工房で芸術監督に昇進します。ドームとシュナイダーのサインがあるパート・ド・ヴェールの有名な杯、「ヘビと桑の木」のデザインとおそらく制作も行ったのは1900年代のことでした。

シャルル・シュナイダーの作品シャルル・シュナイダーの作品
左:パート・ド・ヴェールの杯 1908年 ドームとシュナイダーのサイン
右:ブロンズ製の杯 シュナイダーのサイン

シャルル・シュナイダーはナンシーのモンテット通りにアトリエ兼販売店を構えており、おそらく1904年から1913年の間そこで相当数のブロンズ製品を作っていたようです。

(サインは「CH.SCHNEIDER」もしくは「シュナイダー、ナンシー」です)

一方、ワルターは「シャルル・シュナイダーのブロンズ製品をパート・ド・ヴェールに適合させる
原盤作りの役目を果たしていた」(原文通り)そうですが、ジャン・アルトウィグによるとそれを確証させる歴史的資料はないそうです。

逆に、初めてシュナイダーガラス工房展を開催したエルムット・リック(元デュッセルドルフのKunst美術館学芸員)によると、2つの文字でのサインは「彫刻者」を表します。

実際ベルジェのサインの横だけでなく、「G.J」「M.Corrette」など他のアーティストのものも見つけることができます。

この2つの命題を歴史認識として決定的に判別できるものはありません。

おそらくシュナイダーは実際ドームのためというよりワルターのために原盤のデッサンを行い、独自のものである印としてサインをしていました。

しかしベルジェは、同様にデッサン画家であり間違いなく原盤制作も行っていましたが、確実にデッサンも行っていました。

コラボレーションはおそらくワルター―シュナイダー―ベルジェの三重のものでした。しかしシュナイダーとベルジェの比率がどれくらいのものであったかはわかっていません。

作者の権利と作品の利用についての問題がこのサインの謎を生んでいる可能性は十分にあります。

アントナン・ドームとシャルル・シュナイダーの関係はいつも順調ではありませんでした(シャルル・シュナイダーは第一次世界大戦後エピネーに大きなクリスタルガラス工場を構え、500人の従業員を雇ってドームの直接的な競争相手となりました)。

作品の数の上では少量であったパート・ド・ヴェールの作品の利用権の問題だけではなく、むしろシュナイダー一家が営むエピネーのガラス工房がフランスのガラス芸術においてドームを差し置いて先頭に立ったことが原因ではないでしょうか。
アマルリック・ワルター 協作者サイン アマルリック・ワルター 協作者サイン アマルリック・ワルター 協作者サイン
ワルターのサインは作品の立案者の名前、つまり原作者(著作者)の名前を伴っています。第2時期と同様に、第3時期のワルターの作品を一覧にした目録は存在していません。

第3時期の作品

アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品 アマルリック・ワルター 最盛期の作品


引き続き、「アマルリック・ワルター芸術の生涯は第四時期代(後編)」にて紹介しています。
是非、こちらもご覧ください。