アマルリック・ワルターの芸術 生涯 第四時期代 後編
アマルリック・ワルターの芸術人生の第四時期代
前編・中編に引き続きアマルリック・ワルターの生涯の紹介です。今回で完結となりますので是非お付き合いください。
前編「アマルリック・ワルターの芸術 生涯 第一期から二期時代」はこちらへ
中編「アマルリック・ワルターの芸術 生涯 第三時期代」はこちらへ
第四時期代 1940-1959年 困難の時代、忘却
この時期は第1時期と同様にアマルリック・ワルターが最も知られていない時期です。
ナンシー人たちの経済活動は、1940年からのドイツ占領により変化しました。
ワルターは1940年にナンシーを離れ、親の元に、ガブリエルもしくはイザベル・ルトゥールのいるサルラのメセ城に亡命します。
ナンシーでガラス職人をしておりエコール・ド・ナンシーの旧メンバーであったポール・ニコラ(1875-1952年)はワルターの不在の間彼の工房に滞在しました(工房の使用にどのような保証を与えたのか、詳しい条件は分かっていません)。
ポール・ニコラは1893年からエミール・ガレの工房で働いており、後の1919年にサン=ルイのクリスタルガラス工場の援助を受け自身の会社を立ち上げています(最初はエコール・ド・ナンシーに特徴的なように「アルジャンタル」の名でサインをしていましたが、1920年代からは「ポール・ニコラ」に変えています)。
彼は自身のキャリアの中で数々の褒章を手に入れています。
1900年のパリ万博ではエタブリスモン・ガレ社の社員として銅メダルを受賞し、1925年にパリで開催された装飾芸術と近代産業の国際展示会では名誉賞を、1936年にはフランスの素晴らしい職人に選ばれ、1937年の芸術・技術国際展示会では金メダルを受賞しています。
戦後ワルターはナンシーに帰り、クロード通りの家に戻ります。
彼の生活は極めて厳しくなり、近所の人から物質的援助をもらうことになるほどでした(洋服など・・・)。
彼は次第に視力を失い、1955年には完全に見えなくなります。
一時はトノイ=シュル=モセルにあるナンシー出身の宝飾家であるジャコット一家の邸宅に滞在していました。
その後ワルターは子供のころからの友人であるアルベール・ビドーとその娘ジャンヌのいるシェール県のルリ=シュル=アルモンに行くためにナンシーを離れます。
その地でワルターはビドーの突然の死の少し後、1959年11月9日に90歳で亡くなりました。
彼はその村の小さな墓地に埋葬されます。
墓碑にはシンプルにこのような言葉が刻まれています。「ここにワルターは眠る 1870-1959年」
1939年以降、ワルターの作品はかなり限られたものになります。パート・ド・ヴェールの作品は見つかっていません。
逆に、第3時期もしくは第二次世界大戦後、いくつかの吹き上げ成形ガラスやカットガラスの作品をオーギュスト・ウィロン(1885-1954年)の手法で作成しています。
オーギュスト・ウィロン、カットガラスの様々な花瓶 1930年代
オーギュスト・ウィロンはアマルリック・ワルターの友人でした。
ウィロンは1898年からバカラクリスタルガラス工房で働いており、1925年からはアリスティッド・コレットが同様に1年間働いていたナンシークリスタルガラス工場(1920-1935年)で、最後に1932年からはランベールクリスタルガラス工場で働きました。
そして彼はワルターの作品の彫刻と原盤制作者もやっていました。
一定数のアール・デコ様式のパート・ド・ヴェール(魚、クジャク、小物入れ、置時計、人物像など)には彼とワルターのサインが入っています。
左:アール・デコ様式「魚」1930年代 15x22x9cm 「A WALTER NANCY」と「A.WOUILLON(ウィロン)」のサイン入り
右:オーギュスト・ウィロン、魚、アール・デコ様式 40x28cm
アマルリック・ワルターの第4時期(もしくは3-b時期の末)の作品は透明もしくは着色されたクリスタルガラス(こげ茶色、緑、赤など)で時には表面がざらざらしたものでした。
このスタイルの作品たちは2013年にムラーノガラス美術館展で初めて展示されました。
作品には「CRISTAL DE WALTER NANCY(ワルターのクリスタルガラス、ナンシー)」もしくは「AWN(アマルリック・ワルター、ナンシーの略)」とサインされています。
同様に「Atelier WALTER NANCY(アトリエワルター、ナンシー)」というサインも、オーギュスト・ウィロンの代表例であるカメレオンのクリスタルガラス彫刻に見られます(のちの写真参照)。
一つしかない例としては、着色された多層吹き上げ成形のガラスに「Aワルター ナンシー 唯一の作品」とサインされたものもあります。
二重円錐形の花瓶、吹き上げ成形、酸と回転盤加工 高さ21.8cm
Holtz-ArTlesで2014年10月11日に売りに出されていたこれらの9つの多層ガラスの花瓶(ロットナンバー129、130、131と136から141)は、「アマルリック・ワルターの作品」(原文通り)と言及されていますが、残念ながらワルターの作品ではありません。
この花瓶はナンシーにあるワルターのアトリエで他のワルターの作品の隣で見つかり、同じ持ち主からのもののようですが(同じ日にロットナンバー135と142も売りに出されています)、これらはオーギュスト・ウィロンの作品の特徴を示しており、ワルターのそれではありません。これらの花瓶にはオーギュスト・ウィロンの他の1つの花瓶とクリスタルガラスの彫刻が付随していました。
左:オーギュスト・ウィロン、多層ガラスの花瓶 1935年 22cm「唯一の作品、A ウィロン、フランス1の職人」のサイン入り、上記の9つの花瓶「ワルターの作とする」作品の中の黄色い菱形の作品と非常によく似ている
右:オーギュスト・ウィロン カメレオンのクリスタルガラス彫刻(商品説明にある記載のように猿ではない)、32x28 1935年、「Aウィロン」と「クリスタルガラスの塊に彫刻した唯一の作品―アトリエ・ワルター、ナンシー」のサイン入り
(どちらも同じ日にHoltz-Artlesから販売される、2014年10月11日)
上でも上がったように、このクリスタルガラスの作品たちと緑の多層ガラスの独自作品が3-b期の末のものなのか第4時期のものかははっきりしません。
これらのガラス作品は、珍しいとしてもパート・ド・ヴェールほどの価格にはなりませんし、パート・ド・ヴェールの作品のように本当のアマルリック・ワルターの才能を発揮しているわけではありません。競売でも1500ユーロを超えることはありません。
アマルリック・ワルターの作品たちが再び芸術的地位を取り戻すのには1970年代のアール・ヌーヴォーの再来を待たなければなりません。そしてその後40年以上経ってもその地位を失うことはありませんでした。
今日では彼の作品、特にパート・ド・ヴェールの作品(第2時期のステンドグラスについては100年もの間全く売りに出されていません)は非常に素晴らしい評価がされています。それらは技術的にも美的にも非常に高いレベルの作品だとして時にとても高い価格に達します。
1、トカゲの花瓶 1925年、22.2cm、「A WALTER NANCY」のサイン入り、ノエル・ドームの間違いにより「1914年以前」の作品とされていた 競売での価格:13800$(1999年12月2日、Christie’s)、6900$(2003年6月6日、Satheby’s)、9800ユーロ2006年11月30日、東京、東西オークション)、5700ユーロ(2010年12月11日、フランス ロワイヤン、Geotfroy-Becquet)
2、トカゲのインク壺 1925年、10.8cm、「A WALTER NANCY」のサイン入り、競売価格:8500ユーロ(2008年3月9日、ラゴ)、6250$(2013年11月21日、James D.Julia)
3、エドガー・ブラントの時計(おそらく間違い)の上のランプシェード、1925年、40.6cm、「A WALTER NANCY」のサイン入り、競売価格:9600$(2005年9月9日、Christie’s)
4、光る彫刻、1930年、37.6cm、「A WALTER NANCY」のサイン入り、競売価格:10000$(2011年8月30日、Christie’s)
1990年代のブームの後、2000年代には価格は少し落ち着きます。しかしながらワルターのパート・ド・ヴェールの作品は、ガブリエル・アルジー=ルソーのそれのように高い価格に留まります。
同じ作品でも、上記のいくつかの例が示すように、時にその差額が非常に重要になります(これが競り値の「謎」であります)。
第1、2、3時期と同様に、第4時期のワルターの作品の目録は存在していません。
第4時期の作品
いかがだったでしょうか、今回は3期にわたり、アマルリック・ワルターの生涯を綴りながら、作品の紹介をさせれいただきました。
その各時代が感じることができたでしょうか。
作品をみて時代背景がわかるようになると、アンティーク製品に対する向き合い方も変わると思いませんか。