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マイセンの人形とケンドラー
硬質陶磁器の焼成にヨーロッパではじめて成功したのが、マイセン窯です。
マイセン窯は、輝かしい伝説を打ち立てた名窯でもあるのです。
この素晴らしい偉業は1709年になされました。
その当時のザクセン王国の国王であったアウグスト「強王」は中国や日本の磁器コレクターとして知られていました。
そんなアウグスト「強王」のいる王都ドレスデンで達成されたのです。
そして、この偉業の功労者はまだ年若い青年錬金術師であったベトガーだったのです。
ベドガーはまず、朱泥手の炻器を焼成しました。
次に焼成に取り掛かったのは、中国にある白磁に似た磁器でした。
これに成功したのは、朱泥手の炻器の焼成に成功した翌年のことです。
1710年になると、アウグスト王はマイセンにあるアッブレヒツブルク城内に王立の磁器製作所を開いたのです。
王立の磁器製作所が設立されたのは、これがヨーロッパで最初のことでした。
このときから、磁器の生産に本格的に着手するようになるのです。
1731年には宮廷彫刻家でもあったケンドラーが王命によって、王立マイセン窯に迎えられます。
当初彼は、「日本宮」のために磁器の大彫刻の制作を、彼の先輩であるキルヒナーのもとで、手伝っていました。
しかし、彼は初めから先輩であるキルヒナーの技術を上回るものを発揮していたのです。
そのため、キルヒナーが工房から離れたあとは、ケンドラーがマイセン工房の主席彫刻家となりました。
主席彫刻家となったケンドラーは、王の好みである動物や鳥などの大彫象を次々に作っていったのです。
作られた大彫像は、熊、山羊、サイ、孔雀、ペリカン、七面鳥などがあります。
ケンドラーは「磁器で作れないものはない。もしそれが大きすぎるならふたつに分ければよい」とその頃、豪語していたのです。
東洋の磁器を熱狂的に愛したアウグスト「強王」は、1733年に波乱続きだったその生涯を閉じます。
アウグスト「強王」が亡くなった直後、ケンドラーはそれまで大彫刻ばかりを作っていたにも関わらず、それらをすべて捨て、仔犬や小鳥、猿というように小さな彫像を作るようになったのです。
この頃にケンドラーが作った作品の中でも、もっとも有名な彩色の小彫像があります。
それは1741年以降のイタリア喜劇役者などをはじめとする、一連の彩色の小彫像です。
仮面をつけて派手な衣装を身にまとった、アルルカンや、キャップテンといった喜劇役者、やくざ者、クリノリンと呼ばれる広いスカートを履いている婦人、キスを交わす恋人たちを少し大げさにした姿で表現されています。
ケンドラーが表現した彼らは、一般の市民たちの姿ではありません。
すべて『オペラ』や『恋愛喜劇』の役者たちです。
ケンドラーは、そんな役者たちのユーモアや悲しみなどの気持ちを皮肉を含めて、こういった像を制作したと言われています。
ケンドラーの作品の中には、なんと54年もの長い期間を経て作られ続けたシリーズがあります。
それがかの有名な「猿のオーケストラ」です。
これは1753年から制作がはじまりました。
制作のヒントとなったのは、フランスの画家であるクリストフ・ユーエが素描した同名の作品です。
新王であるアウグストⅢ世やブリュール伯といった、オペラを好む有閑階級の人たちを、オペラ嫌いであるケンドラーが風刺した作品であると伝えられています。
しかし、これが逆に人気を博してしまします。
その後、マイセンはもちろんのこと、他にもウィーン窯やイギリスのチェルシー、ダービー窯といったところでも、これを真似た作品が作られたのです。
「マイセン人形」と呼ばれる名前で知られている、ケンドラーの彩色人形、動物の小彫像は、その後も作られ続け、宮廷の男女や古典神話、軍人、子ども、百姓というように数百点もの作品が製作されたのです。
もちろん、これらの作品はケンドラー、一人だけの手で作られたわけではありません。
彼が抱える多くの優秀な弟子や、助手の力に負うところが多いのです。
そんな弟子の中でも、エーベルライン、ライニッケ、メイエール、エーデルといった人たちは当初からの有名な弟子でした。
そして1764年には、また新しい人物がマイセンに招かれます。
それがフランスの彫刻家であるアシエです。
アシエもケンドラー同様に、天才的な才能の持ち主であり造形部門(フィギュリン)の後継者としてケンドラーと意見を交わしながら製作していました。
そしてその意思を継いで、寓意を表す美しい婦人や愛らしい天使などを作り上げたのです。
新古典主義様式をフランス・ロココよりマイセンに導入したのも、彼であると知られています。
19世紀以降のマイセン窯
ヨーロッパの時代の風潮が変わっていったのは、18世紀の後半頃からでした。
それまで、絶対王政だったものに変わって貴婦人たちの、優雅なロココ様式へと変わっていったのです。
この時代様式は、フランスの宮廷を中心として広く浸透していきました。
その後、一部の地域だけではなく、ヨーロッパ全土にまで広がっていったのです。
その中でも、もっともこの時代様式に影響を受けたと言われるのが、ケンドラーのマイセン人形でした。
しかし1756年からは、ドイツで七年戦争が勃発してしまいます。
ザクセンは、プロイセンのフリードリッヒ大王との戦いに負けてしまいます。
そのことにより、工場は閉鎖され占拠てしまいました。
さらに、メイエールなどの優秀な職人たちは、ベルリンまで連行されていまいます。
1763年にブリュール伯が亡くなってからのマイセン窯を受け継いだのは、宮廷顧問官でもあった『マルコリーニ伯』でした。
※マイセン食器 ピンクローズ(カップ&ソーサー)マルコリーニ期
彼はマイセン窯の発展に尽力しますが、彼がマイセン窯を引き継いだこの時代は、近代へとヨーロッパが大きく動き始めていた時代でもあったのです。
1750年代に入ると、ヨーロッパのあちこちで磁器窯が作られ、マイセン窯はほかの国の磁器窯たちと激しい競争をしなくてはいけなくなってしまいました。
さらに、1813年になるとナポレオンの軍隊がアルブレヒツブルク城を占拠してしまいます。
このような出来事により、工場を取り巻く状況は悪化の一途を辿ってしまうのです。
そして1810年に、マルコリーニ伯はとうとう辞任せざるを得なくなってしまいました。
しかし、こういった厳しい時代背景にあったにも関わらず、歴代マイセンの中で最も美しく最も絵付けが上手いと言われているのは、マルコリーニ伯が工場長を勤めていたマルコリーニ時代のものなのです。
マルコリーニ伯の後、マイセン窯の発展のために尽力したのは科学者でもあったキューンでした。
キューンは自らの持つ科学的知識から、工場設備の改良に乗り出していきます。
まず、工場を現在のトリーピュシタールへと移転をさせます。
次に蒸気機関を設置するのです。
さらに、さまざまな技術改革を推し進めながら往年の名品の復活をおこないました。
それだけではなく、シャンデリアや置時計、燭台といった商品の生産を意欲的に行いました。
このようにキューンはマイセンの発展に全力を傾けていったのです。
ヨーロッパは、自然科学が発達することで19世紀末から20世紀初頭にかけて、人々の生活は徐々に向上していきました。
新しく台頭してきた中流階級の人々ですら、マイセン磁器の食器や、往年の小彫像などのコピーを買い求めていったのです。
ちょうどその頃、まったく新しい様式が流行し始めたのです。
それまでの伝統的な様式とは違うそれは、フランスでいうところの「アール・ヌーヴォー」。
ドイツでいうのであれば「ユーゲント・シュティール」と呼ばれる美術様式でした。
その時期にマイセン窯で活躍した作家を挙げるのであれば、欠かせないのがやはりショイリッヒ教授ではないでしょうか。
ショイリッヒ教授はマイセン窯との間に自由契約を結んでいる作家です。
しかし、それにも関わらずマイセン窯のために100点を超える数の作品を、制作していました。
その技術力の高さもあり、ケンドラー以来のもっとも優れた作家の一人として数えられているのです。
ショイリッヒ教授の作品では、「酔っぱらい」「踊る男女」「アマゾンとキューピット像」といったものが知られています。
この頃、色絵像型燭台の作家であるエッセル教授やバルラッハの活躍も忘れてはいけません。
特にバルラッハは、ベットガー炻器を再現することで、新しい炻器を表現したのです。
その後は、国家的にも第一次世界大変や第二次世界大戦などで、大変不遇な時代を送ることになりました。
しかし、マイセン窯は磁器制作250年を記念して、「芸術創造のための集団」を1960年に結成します。
これにより、彫刻家や、シュトラング、L・ツェプナー。
陶芸家H・ヴェルナーなどにより、これまでになかったまったく新しく、独創的で自由な作品が数多く生み出されていったのです。
その中でも圧倒的に人気だったのが「千夜一夜物語」です。
これはツェプナー原型で、ヴェルナーが絵付けをしたもので、異国情緒溢れるユニークなデザインと絵付によって大変な人気となったのです。
この2人はほかの作品でも合作をしています。
それが「オベロン像」、真夏の夜の夢の「ティタニアとツェツトル」、他にも「狩猟図」のディナーセットなどこれら2人の合作は、常に人々の話題に上り、感動と注目を集めました。
このオベロン像とティタニアの偶像は双方ともに、テーガルの置物として作られました。
これだけではなく、最初からの会員でもあったシュトラングは「花嫁と花婿」のいる時計、花瓶の中から顔を出している女の子の像などは、あどけない人たちの普段のままの姿の形を表現した傑作ではないでしょうか。
彼らこそ、ケンドラーが生み出した彩色の小彫像を伝統的に今に伝えるもっとも優れた作家であったと言えるのではないでしょうか。
マイセン人形「双剣の窯印」本物の見分け方
誰もが一度は耳にしたことのある「マイセン」は、ドイツのマイセン地方で生産される磁器で西洋の 白磁の最高峰に君臨する名窯として、 300年以上の歴史をもち現在に至るまで長く引き継がれています。 ※「山羊に乗った仕立屋」:色絵置物(原型製作1737年:ケンドラー作)
作品を一目見るだけで、マイセン陶磁の造形技術の高さが窺がえます。
山羊の毛並み、人物の洋服の装飾、手先まで精巧に制作されて、そこに、巧みな絵付けにより、躍動感の溢れる素晴らしい芸術品が生み出されています。
西洋の白磁の最高峰に君臨するのも納得の作品です。
このように、マイセンの人形はその芸術性から世界中に多くのコレクターがいて、その人々からは長年愛され続けています。
画像からでも伝わる人形の躍動感や、美しさに触れてみたいと思った方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
マイセンの人形には特別な魅力を感じ憧れを抱く方が多いのです。
しかし、その特別な人気に伴いマイセンの模倣品の歴史も、290年以上と言われています。
さらに、偽物でありながらも長きにわたる歴史から、精巧に仕上げられた品も多数あります。
そして間違って、模倣品を購入してしまったりすることも多いのです。
マイセンは高価な品ですし、そんな経験は絶対に避けたいところですよね。
そこで、今回はマイセンの人形の偽物を見分けるポイントを紹介していきます。
マイセンのシンボル「双剣の窯印」の有無を確認
・青い双剣の窯印
マイセンのシンボルマークとも言える青い双剣の窯印は、1723年から使われるようになります。
そして、窯印は300年以上続く歴史で多様な変形をしています。
ですから、窯印で「マイセンの人形の年代」がわかるのです。
作られた年代がわかるということは偽物を見分ける重要な ポイントの一つなのです。
レベルの低い偽物であれば、双剣のマークではないものが入っていますし、非常に作りも甘いのが特徴です。
マイセン人形の窯印(青い双剣)の表記
マイセンの双剣の窯印は、ほとんど本体の土台裏に表記されていますが、ごく稀に土台の後ろ側(側面)に窯印が表記されている品もあります。
こちらは人形の土台の底面に窯印があります。
こちらは人形の土台の裏側(側面)に窯印があります。
もしマイセンの人形をお持ちである場合は、人形を傷つけないよう慎重に扱いながら、土台の裏、側面に窯印があるか確認してみます。
双剣のサインは釉薬の下にあるかを確認しよう
双剣の窯印の確認ができたからといって、本物のマイセンだというわけではありません。
模倣品には、本当に青の双剣のマークのサインが存在します。
この偽窯印があると「本物」と疑いをもたず信じてしまうのです。
偽窯印は知識があれば簡単に見分けができますので、ここからは、本物の窯印と偽窯印の見分け方について紹介して行きたいと思います。
まず、窯印に釉掛けされてるかどうかを確認します。
マイセンは、陶器に窯印を表記して釉薬を釉掛けして仕上げています。
つまり、釉薬の下に青い双剣の窯印が描かれてるのです。
そのため、本物のマイセンの窯印にはつやつやとした光沢があります。
偽窯印は、仕上がった人形の上に双剣のマークを書き足すため、光沢がなくマットな窯印になります。
モデル番号の刻印について
1950年以前のモデル番号
ここまで、マイセンの双剣の窯印についてお伝えしてきましたが、次に双剣と共に確認していただきたいのが、刻まれた数字です。
大体において、窯印と同じ人形の土台の裏底に刻まれています。
この数字は、人形のモデル番号で新たなマイセンオリジナルの人形がデザインされた時に、割り当てられるものです。
モデル番号は1~4桁の数字または、アルファベット一文字と1~4桁の数字を組み合わせがあります。
この刻印も年代によって、方法に違いがあります。
1950年より前は手作業でモデル番号が刻まれていましたが、それ以降は、機械による型押しで刻印されています。
このことを知ると、マイセンの本物と偽物の見分け方がさらに広がります。
たとえば、1950年以前の窯印が表記されているのに、モデル番号が機械で刻印されていたり、それとは逆に1950年以降の窯印なのに、手書きのモデル番号が刻まれていたら、それは偽物と判断できます。
実際に人形を飾ってみよう
こちらはお客様から撮影して頂いた写真なのですが、中央にあるのがマイセンの花瓶で両隣がボロニーズ犬になります。
犬が好きなお客様で、このほかにもたくさんのわんちゃんのコレクションをされていらっしゃいます。
他にも天使のシリーズや、猿の学園団、寓意シリーズなでコレクションされていらっしゃる方もいます。
自分の好きなコレクションで揃えていれば、毎日の生活がとても愉しいものになりますよね。
実際にお客様からも、可愛いお人形さんが届いていつもそれを見ながら、穏やかな気持ちなります。
などの嬉しい声を頂いておりますので、目に見えない幸福感が上がっているのだと思います😊
モデルの刻印からカタログを活用して確認
モデルの刻印と、双剣の窯印から年代が分かったら次に確認したいのが、その刻印された数字とマイセン人形が同じものであるかの確認です。
1910年より前のマイセン人形は、市販されているカタログで刻印番号と人形のデザインを照らし合わすことで確認ができます。
(カタログ名) ・Meissen Collector’s Catalogue
こちらはマイセンコレクターズカタログの表紙になります。
上記はマイセンコレクターズカタログの見開きの画像になります。
※私はいつもこれを確認してから商品を剪定してます。
そして、新たな1910年以降のマイセン人形には5桁の数字が刻印されています。
こちらは上記で紹介したカタログには刻印番号が記載されていませんので、その様な時は人形の原型を調べることで確認することができます。
また、マイセンに関する本などは図書館などでも探すことができますし、最近ではインターネットで検索することで確認ができますのでそこから調べるのもいいですよね。
刻み忘れがあることも
モデルの刻印が無くても本物が存在します。
一言でいうと、「うっかりミス」です。
これは、一つ一つ手作業で行われていた時代にマイセンの職人が刻印を入れ忘れてしまったものです。
繰り返しになりますが、デザイン番号よりもサインを見極めることの方が重要になります。
また、特注品や生産が少ない作品はカタログに掲載されていませんので、専門の鑑定が必要です。
本物であればかなりの高価な美術品としての価値がありますが、慎重に考える必要があります。
空気穴があるものとないもの
陶器製の人形は粘土を形成させて乾燥(窯焼き)させる時に、約一割程度収縮します。
その際に、空気の圧力によって薄いところが割れてしまいます。
それを避けるために、空気の逃げ道として穴が開けられているのです。
マイセンも同様、人形には穴が開けられ焼かれています。
しかし、マイセン人形には空気穴があるものとないものが存在します。
これはどういうことかと言いますと、『土の質』と『窯の温度管理』が影響しています。
年代が古ければ古いほど、土の質は均一ではなく不純物が混ざり製品は不安定に仕上げる傾向にありました。
窯の温度管理も同じで、昔になればなるほど一定の温度で焼成したり、窯の温度を調整するのは非常に難しいものでした。
そんな中で作り上げる人形では、空気穴を作っていたとしても、その時の窯の温度によって、収縮率が変わるために大きめに開けられていました。
完成品のことを想定して作られるので、本来であれば空気穴は小さくなりますし、それが理想的ですが、人形の設計上そうは上手くいかない人形もあったのでしょう。
では、空気穴がないとダメなのかというとそうではありません。
新しいマイセン人形には、空気穴は存在しません。
なぜなら、土の品質が格段に向上していることと、窯の温度管理が精密にできるようになったからです。
よって、想定通りの仕上がりが可能になり空気穴が消えるように作られてるんですね。
本物のマイセン人形より一回り小さい作品
マイセンの模倣品を制作するのに、てっとり早く本物そっくりに仕上がる方法は、本物のマイセン人形を型として利用する方法です。
そして、この方法は実際によく使われています。
確かに、本物のマイセン型を用いれば正確にコピーできますが、出来上がった作品は本物よりも16%ほど小さいサイズに仕上がってしまうという大きな欠点があります。
もちろん、その分重さも軽くなります。
ですが、実際のマイセン人形のサイズを知らない方は戸惑ってしまうのも事実です。
本物のマイセン人形は同じサイズ、重さとなっていますので、まずはサイズ確認をカタログなどでするのがお勧めです。
マイセンの白は青みがかり
マイセンの白磁器といえば、真っ白というよりやや青みがかった白です。
この色を頼りに経験を積んだコレクターやディーラーが真贋の鑑定をしています。
白でも暖色系の色味がかかっていたら要注意です。
絵付けにも注目すべき点
・瞳の色
アンティークのマイセン人形の絵付けの特徴のひとつは瞳です。
1700年代のブラウンアイズを持った人々をモデルにしているため、多くの人形の瞳は茶色となっています。
もちろん、青い瞳を持つマイセン人形もありますが、茶色の瞳を持つマイセン人形より絵付けされている数が少ないため希少な品となります。
・髪の毛や肌の色
マイセン人形は時代とともに、髪の毛の絵付けの描き方や肌色の色彩方法も変化しています。
18世紀ごろマイセン人形は、肌の色素は薄く、髪の毛も精巧に1本1本描かれています。
しかし、19世紀になると、人間の素肌の血色を全体的に表現することで、より生身の人間を思わせる人形になります。
そして、1本1本描かれていた髪の毛のラインをなくします。
また、現代のマイセン人形は、頬や手先の部分にのみ肌色で絵付けをされています。
「現代のマイセン人形」
絵付けの流行も年代とともに変化しています。
人間が流行のメイクと髪型をするのと同じで、また人形の髪型やメイクにも流行があります。
双剣窯印や刻印番号で年代の相違を 確認すると同時に当時の流行がわかります。
見た目で違和感を抱いたら要注意
何度もお伝えしましたが、マイセンは西洋の白磁器の最高峰に君臨していますが、その300年近い長い歴史の中において、マイセンの人形は特に「重要なジャンル」といわれています。
それは、その長い歴史の中でマイセンの人形は、初期から連綿と受け継がれてきたマイセンの宝だからです。
そのため、マイセンの人形には職人一人一人が人形のありとあらゆる部分において、こだわりと思いがつまっています。
その作品をみて、細部までこだわりが見受けられるか、手作業でこった絵付けが施されているか、表情が活きているかなど、マイセン人形の真贋の鑑定するために最も重要なことは人形とじっくり向き合うことでです。
そこから、細かな部分を慎重に注意深く考察することです。
本物の人形の表情には、人間同様に感情が表現されています。
その瞳の視線の先、場面にあった表情などは特に偽物を見極めるのに役立ちます。
ここまでで紹介したとおり、マイセン人形の真贋を鑑定するにはいくつもの注意点があります。
この記事で紹介した見分け方を参考に組み合わせてみてください。
「もし本物かどうか疑いがあるときは、それは本物ではない」 という格言があるとおり一つでも疑わしい点があるようでしたら購入は避けるべきです。
弊社が取り扱うマイセンの商品について
弊社で扱っているマイセンの食器は、現地(西洋、ヨーロッパ)で専門のスタッフが買い付けてくるスタイルをとっております。
ですので、他社にはない仕入れルートで仕入れを行っておりますので、古マイセンと言われる、かなり古い作品でさえも仕入れることが出来ます。
マイセンコレクターの方であればこの年代のこの作品が欲しいと言ったご要望があると思いますのでそういった商品が御座いましたらお気軽にご連絡ください。
店頭に商品は展示してますので、気になる方はお気軽にお越し下さい。
専門的な知識を持った、店長と私がご対応させていただきます。